肖像画の完成まではまだしばらくかかる。ヴェロニカさんの屋敷に通うようになって少し経った頃、いつものように向かった高級娼婦の待つ屋敷で、侍女の方に通されたのは、窓の大きな明るい部屋。ドアを開けてお辞儀をした先には、目当ての眩いおんなのひとの他に、もう一人、やわらかな光源があった。まさか仕事の相手がいるところに入ってしまったのか、いやしかし通されたのだし問題はないはず、そんなことを考えていられたのは、一瞬の間だけだった。隠し布の下から現れる素晴らしい絵画を目にしたと同時に、人々が息を飲み、思考を奪われてしまうのと、同じように。
最初に目に入ったのは、こちらを向いた女主人の机に向かってスツールに座り、背中を晒している華奢な影。薄暗いそれが動き、丁寧に切り揃えられた黄金の髪、気高い光を蓄えたそれをゆらりと揺らしながら、まろやかな頬を晒す。背後から入る太陽の名残が、まるで背にはためく白い翼のように見えた。続いて現れたため息が出るほど長いまつ毛に覆われた薄い色の宝石に、目を奪われてしまう。一瞬か、暫くか、目が合ったかと思えば、その瞳は背後にいる娼婦へとつれなく移って行く。大理石の唇がごく小さく開かれた。

「ヴェロニカ、彼女が?」
淡く輝楽びやかな様相からは想像も付かない、甘いボーイアルト。
「ええ、そうです」
「ふうん。なるほど、確かに」
けれどそれは、聞けば聞くほどに耳の中に残り、とろりと、脳を溶かす。煮詰めた香油のような色をした声。
あまりの美しさに聞き入ってしまい部屋の入り口から動けずにいると、不意に、彼の人が振り返った。無遠慮に見ていた後ろめたさから身体が硬直する。青の瞳が私を見て、そして。
口が、開かれる。

「いつまでそこにいる?扉を閉めて頂けないかい」

瞬間、まるで吐息が交わる距離で囁かれたように、背が震えた。全身の毛が逆立ち、空気の流れですら、刺激に感じるほどに、敏感になっていく。は、と吐いた息が熱く、また焼かれた口内に温度が篭もった。腰の裏から上がってくる得体の知れない痺れに、何が起きたのかわからないまま、動かす度に布の刺激で震える手でドアノブに触れる。無機質な冷たさに何故か身体が跳ねた。私の身体はどうしてしまったのか、混乱したままぱたりと重い扉を閉じれば、閉ざされた空間に、その人は満足そうに。眦が下がり、眉が下げられて、口の端と、頬が上がる。ああ、これは。ばくりばくりと、心臓が喉元まで上がってくる。このまま、作られる表情は。

「そのくらいにして差し上げてください。まだうら若い、少女なのですから」

はっとしてヴェロニカさんに視線を移せば、彼女はいつの間にか、机の向こうから手前へと移動し、スツールの横に立っていた。長い髪を優雅に揺らしながら、柔らかく笑みを浮かべてその人を見下ろしている。まあ、そうだな。横顔から事も無げに作られた言葉に、ようやく身体から痺れが抜け、自由がきくようになった。思考も晴れて自分がここを訪れた目的を思い出し、時間を無駄にしてはならないと、画材を握り締めて足を踏み出す。一歩、二人に近付くごとに、空気が芳醇になっていくような錯覚を覚えた。
「命拾いしたわね」と娼婦のゆったりとした声。いつも感じているようにとても甘く、魅力的な声であるのに、どこか物足りない、なんて。そんなことを思う自分に驚きながらも、不快感はない。ヴェロニカさんは彼女には珍しく、美しい顔に苦い笑みを乗せた。

「恥じることはないわ、アルテ。天使の声を直接受けたら、誰だって、あなたのようになってしまうのだから」
「……直接」

ヴェロニカさんの言葉に、耳元で燻っていた先ほどの声が熱を取り戻す。明確な意思を持って、一人のためだけに発せられた声。その響きに、身体が溺れてしまったのだ。良く言うよ。形のないダイヤがぽろりと投げ出される。思い返してみれば、彼はあの一回以外、呟くように声を自分の間近に零していた。

「悪かったね。いじめるつもりはなかったのだけれど」

少しだけ不機嫌な響きが控えめに部屋を揺らす。魅力的な声はもちろん、近くで見るとより一層の神々しさを纏った姿形も、少年然とした顔立ちとは裏腹にどこか老成した雰囲気も、天使と人々が評することは当然だと感じられた。しかしだからこそ、彼がここにいる理由が思い当たらない。彼の存在から、性を連想できないのだ。私の頭上に浮かぶ疑問符に気付いたのか、彼の横に立っていたヴェロニカさんがこちらまで歩いて来て、天使に向かって緩やかに私を指し示した。

「名前、彼女はアルテ。先程お話した、肖像画をお願いしている画家の子です。アルテ、こちらは」
「ああ、僕の自己紹介がまだだったか」

美しい金糸を伴って、椅子から立ち上がる。気だるげで、儚げにも見える雰囲気とは裏腹に、地につけた足をしっかりと踏みしめた彼は、歌うように続けた。

「僕は名前。名前・名字。ひと月くらいフィレンツェ公のお世話になる予定なんだ。よろしくね」


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