ライブハウスは、嘘みたいに静かだった。
無遠慮に開けた扉の軋みが、音を保ちやすい空間に飲み込まれていく。ライブ中のようにステージにスポットが当たっているのではなく、どこも均一に塗りつぶしたように明るい照明の下、重ねられた空の紙コップ、踏みつけられ無残な姿になったフライヤー、わざとらしく置き忘れられたコンビニのビニール袋と、空のペットボトル。まだ片付けをしているスタッフの人がいるはずなのだが、現実の跡はライブ中に見た夢のような景色と落差が激しすぎて、見捨てられた廃墟を歩いている気分になってきてしまった。
砂の付いたズボンを軽くはたきながら、なんとなく足音を殺して、自分が数時間前に演奏したステージに向かう。俺はさしずめ、廃墟に忘れてきた財布という名の財宝を回収する、トレジャーハンターといったところだろうか。
さて、楽屋のどの辺りに眠っているかな、と考えているうちに、前方から、なにやら音楽が流れてきた。生の音ではなく、録音された音源。ライブハウスでは聞き慣れない不自然なほど調整の聞いた完成品は、目的地の方角から流れてくる。アップテンポ、スリーピース、男性ボーカル、声はどこかで聞いたようなありふれた音色だが滑舌が良く、ラブソングだと分かりやすい。けれど、やはり聞き慣れない。楽屋に向けていた意識の方向を変える。ライブハウスだから、ではない。聞いた事のない曲だからだ。
ちょっと覗いてみよう。そう思ったのに、特に深い意味はなかった。

廊下からブースへ続く狭い入り口に顔だけ入れる。ズコックが最後のライブをした、暑くて熱くてたまらなかったあのステージが、今はあそこから爆音が流れるとは信じられないくらい、空っぽになっている。その何もないステージから、控えめな音で、ラブソングが流れてくる。自分達がライブをしたり、誰かのライブを見たりする場所で、誰もいない舞台から音が流れているというのは、やはり言い知れぬ違和感を抱かずにはいられなかった。けれど確かに、控えめな音量のラブソングは、館内のスピーカーではなく、あのステージから、誰かに愛を告げている。

 もう最後にするから でもこれだけは信じて欲しい ぼくは絶対に――
「そこで何してんの?」

サビの最後の言葉を、ボーカルじゃない誰かの声が上書いた。はっとしてブースの中を見渡すが、人の残骸以外、人間の気配はない。どこから声がしたんだ、まさか聞いてはいけないものを聞いてしまったのかと怯えていた俺に、その声はこっちこっち、と続けた。Cメロを流すステージ側ではない、客席側の、更に奥。

「客も演者も捌けたはずなんだけどな。トイレ篭もってたとか?」

その人は、真っ平らな照明と真っ平らな音楽の中で、いつものように不規則に光る機器の前に立っていた。首元に引っ掛けられた大仰なモニターヘッドホンと、ワックスでゆるく立ち上がったアッシュの下に光るピアス、どこかのバンドの趣味の悪いロゴが入ったライブTシャツにジーパン、至極見慣れたシルエット。

「なんだ名前さんかあ……びっくりした……」

正体みたり。声の主は、数時間前、その前のリハ、このライブハウスを使い始めてからずっとお世話になっている、ハウス付きの音響スタッフの一人だ。やっと見慣れたものに出会えた安堵から、思わず音響卓に駆け寄った俺を見て、名前さんは少しだけ眉を顰めた。これだって、俺にとってはもうすっかり見慣れたもの。
「草壁光!草壁光ですズゴックの!今日解散ライブしたズゴックのギターやってた、ほら!」
ギターを弾く真似をしながら、てててー、と適当な音階でサビの部分を歌うと、名前さんは寄せた眉を跳ね上げ、目を丸くした。色の薄い瞳がようやく俺を映す。

「ああ、ズゴック。知ってたわ」
「もーライブハウスで働いてんだから、バンドだけじゃなくてメンバーも覚えてくださいよ……」

彼はバンド名や演目はよく覚えているのだが、なぜかバンドメンバーの顔と名前を、一切覚えていない。男も女も、上手いも下手も関係なく。以前、音響を担当していたにも関わらず、かなり熱狂的なファンを持つバンドのボーカルの顔を覚えておらず、そのボーカルの女の子に告られた時に言った言葉が、「ふうん、俺と関わりたいならバンドでも組んでみたら?まあ君歌も楽器も下手そうだから、上手くいかないだろうけど」だったというのは、このライブハウス内ではかなり有名な話だ。実際はその言葉を言った瞬間、その子から彼女の付け爪がひん曲がるようなグーパンを食らったらしいという噂さえある。だから、俺のことを覚えていないのも、いつものことだ。そして解散した俺はもう一生、名前さんに名前を覚えて貰うことは出来ないのかもしれない。はあ、と溜息を付いた俺を見て、名前さんは俺が名前さんの言葉を信じていないと思ったのか、少し慌てた様子で付け加えた。

「いやズゴックだろ、分かるって。ほら、これ」
「あ、俺のサイフ!」
「楽屋に忘れ物だって、シグマが届けてくれたんだ。後でお礼言って置けよ」
「いやいやだから、シグマの誰ですかって話で……」

名前さんは俺の言葉をかき消すようにウエストポーチのファスナーを開けたかと思うと、中から俺が楽屋に転がしてきてしまった財布を取り出し、音響卓とテーブル越しに放り投げた。機材の上に落ちたらどうするんだと思いつつ受け取り、中身を確認する。もともと大して入っていなかったからか、お札も無事入ったままだ。背にしたステージから流れるラブソングは、いつの間にかまた一番のサビを歌っている。財布を知りポケットに入れながら、俺は音響卓を覗き込んだ。インジケータが光っている。やはりここから音を流しているようだ。横のCDラックの上に開いたまま無造作に置かれた空ケースの中身が、この中に入って、今背後から流れているのだろう。随分古そうなのに中のジャケットや歌詞カードも色褪せていない、綺麗なCDだった。誰の曲か確認しようと、俺が手を伸ばした瞬間、不意に、眼前のCDケースが上に上がっていった。目で追った先には、プラスチックをつまみ上げた名前さんの手と、彼の瞳。ケースがわざとらしく丁寧に脇に置かれ、名前さんの目が細められる。

「なに?」
「あ、いや」
何も悪いことはしていないのに、なぜかいたずらを咎められた子供のように、心臓が少し縮んで、喉がからりと乾きを訴えた。

「なんで、CD流してるのかなって思って」

目を逸らし右手で痛んだ黄色の髪をいじりながら、言い訳染みた話題転換。俺よりも少し背の高い男は、ああ、とまたもわざとらしく言った後、メインアウトのフェーダーを押し上げた。釣られて大きくなる背後のラブソング。

「モニターが生きてるか確認してるんだよ。お前らみたいなのがすぐ足乗せるし、本番で爆音流したせいで、どっか飛んでる可能性あるからな」
「アー……なんかすみません」

モニタースピーカーに足を掛けるな、と名前さんはリハの度に口がすっぱくなるくらい言っているが、ライブ中にテンションがあがって足を乗せてしまうバンドマンは多い。特に意味はないけれど、なんとなく気持ちいいし、かっこいいことをしている気になるのだ。俺自身ライブ中は楽しくなってしまっているから、足を上げていたかどうかなんてまったく覚えていない。多分皆無意識に、名前さんの言葉を無視してしまう。
とはいえ名前さんももう諦めているのか、俺の謝罪を適当な言葉で打ち消した。軽く下げていた頭を上げると、彼はニッと笑って、首に掛けていた思いヘッドホンを外し、卓の上に放る。

「お前暇だろ?手伝えよ」

唐突に音響ブースから出てきた名前さんを呆然と見上げる俺に、指でステージを指し示す。えっ、と怯んだ隙に、その手は体と一緒に俺に近付いてきて、肩を軽くはたいた。練習に必要な最低限の知識しかないのに、手伝いなんて出来るのだろうか。促されるまま、数時間前にズゴックとして立ったステージによじ登る。全方向から押し寄せる、何周目かのギターソロ。

「ほら、ステージ、上がって。モニターはハイとロウでユニットが分かれてるから、ちゃんと両方音が出てるか確認すんの」
「えっと、それ、俺がやって良いもんなんすか」
「いいよ細かいことは。音が出てりゃ良い」

ステージ上に楽器もマイクも持っていない男が一人、ステージ下にも男が一人、無人の音響ブース。なんとも異様な光景だ。ドラムやアンプのない、モニタースピーカーだけのステージは、いつも狭苦しく感じているのが嘘のように広く感じられたけれど、やっぱりギターを持っていないと何だかそわそわして変な感じだった。膝を付き、メッシュのようになっているスピーカーの表面に恐る恐る右耳を当てる。本当に誰かが足を置いたのだろう、少しへこんでいる、熱くも冷たくもない感触と、音と連動した振動。俺が確認して分かるものなのか心配だったが、スピーカーは上の方に耳を当てるとしゃかしゃかしていて、下の方に耳を当てるとお腹に響く音がした。どちらも音は流れているようだ。男性ボーカルの少し低い声が耳に直接流れ込んでくる。しばらく、端に置かれたマイクのスタンドやコードを避けながらモニタースピーカーの間をうろうろして、スピーカーに耳を当てていた俺は、もう大丈夫だろうと、顔を上げた瞬間、吐き出しかけていた息を飲み込んだ。

名前さんは、俺がやったのと同じように、ステージ上に置かれた大きなフロントスピーカーに右の耳を当てていた。ステージの下に立ち、両手を枠について、ピアスの揺れる耳を当てて、緩やかに目を、閉じていた。明らかに、音を確認している様子ではない。彼は確かに、青臭いラブソングを自分に染み込ませていた。元々彼の体躯の半分以上は高さのあるスピーカー、しかもステージの上と下という高低差があるこの状況で、名前さんはまるで誰かの胸によりかかって、縋っているようにも見えた。いつの間にか、曲は何度目かのサビ部分に差し掛かる。黒一色のスピーカーに置かれた名前さんの手に少しだけ、力が込められた。少し顔が動き、隙間なく押し当てられていた右耳が更に強くこすりつけられる。かちりとピアスが擦れる音。俺の位置からは表情までは見えないけれど、何故か目が離せなくて、じっと聞き入る彼をステージの上から見下ろしていた俺は、更にあることに気付く。項で照明を反射する金属。ネックレスのチェーンだ。いつもはごついヘッドホンに守られていて見えないが、線の細いチェーンが、頼りない首筋を更に頼りなく見せている。トップは良く見えないけれど、もう少しで見えそうだ。多分、リング状の何かが――

身を乗り出した瞬間。ちょうどサビが終わり、名前さんは唐突にぱちりと目を開いた。ずっと目を開いていたのに、何故か夢から覚めたような間隔に陥る。CDケースを持ち上げた時と同じ温度の視線に射抜かれて、後ろめたさからさっと目を逸らした。なんで、あんな、わざわざ詮索するような動きをしてしまったのだろう。そういうタイプでもないだろうに、と俺が頭を抱えている間に、名前さんは踵を返し、音響ブースへと歩き始めた。慌ててステージか
ら飛び降り、褪せた色のバンドTを追いかける。

「っ名前さん」
「皆無事だったみたいだな、良かった良かった。じゃあそろそろ帰りなズゴックの。後は俺がやるからさ」

ひらりと揺れた手にゆるく突き放された気がして、俺は足を止めた。音もなく遠ざかっていく名前さんを、背後でリピートする曲だけが追いかける。イントロのギター、ボーカルが息を吸う音。フレーズとフレーズの間に隠した、本当に小さな声。

「お前らの演奏、俺は結構好きだったよ」

はっとして顔を上げた時には、名前さんはいつも通り音響ブースに収まっていた。ヤマハの音響卓の上に放置されていたヘッドホンが、いつものように彼の細い首筋を隠す。そのまま、大きな手は抜きっぱなしになっていたシールドケーブルを巻きつけ始めた。

名前さんは、バンドの名前と曲は覚えているけれど、バンドメンバーの顔と名前は覚えていない。何年一緒にライブをやっても、バンドが変われば、また『初めまして』だ。でも名前さんがそのままでやって来れているのは、それが許されるくらい腕が良い音響さんだからだ。外音もモニターも、俺たちの思ったそのままの音を作ってくれる。最新からいくつも型落ちした音響機器、しかも何組も同時に演奏するときはマイクもスピーカーも卓周りの機材も、そもそも人員も絶対に足りていないはずなのに、いつもなんてことない顔して、転換後に一人でマイクをセッティングしては、いつの間にか音響ブースに戻って完璧な、やりやすい音を作ってくれる。きっと本当だったら、ちゃんとした機材と、しっかりしたスタッフがいるステージだったら、名前さんはもっともっとすごいバンドを相手にできるはずなのに、こんな小さなライブハウスの狭い音響ブースで、いつも。
いつも、何かに縋るように、ステージを眺めている。

不意に、いつからか頭の中でふわふわと漂っていた願望が、輪郭を持ち始めたのを、俺はどこか他人事のように感じていた。途方もない、夢と呼ばれる類のものが、目標という名前に変質していく。ばくばくとうるさい心臓の音が背後のバスドラと重なって音を立てる。馬鹿馬鹿しくて、現実味のないことのはずなのに、でも選んでしまったら俺は、もう後悔できない。後悔、しない。したくない。衝動に任せて、口を開く。

「名前さん。俺絶対プロになって、またこのステージで演奏する。今度は、もっと、本気で。」
シールドに落ちていた名前さんの視線が、ゆっくりと上がってくる。
「そしたらバンドの名前じゃなくて俺の名前、覚えてくれる?」

生れ落ちた言葉に自分で驚いて、俺は言い終わった唇を閉じることが出来ず、無様にぽかんと口を開けたままになってしまった。静寂の中を淀まずに駆け抜けるラブソング。何を言っているんだと思う反面、自分が抱いていた思いを言葉に出してしまったことを、存外、心地よく感じている自分もいる。ずっと前から本当は、やりたいと思っていたのを我慢していたなんて俺らしくない。小さな笑いが漏れたと同時に、かつりと、何かが床を叩いた。シードルの先が、名前さんの手から零れ落ちた音だった。改めて視線を向けると、名前さんいつも気だるげな目を大きく広げた、先ほどまでの俺なんかよりもずっと驚いた表情で固まっていて、少々面食らってしまった。ぱちぱち、瞬きを繰り返す様子は、彼を少し幼く見せる。確かに、急だったかも知れないが、そこまで驚かせるようなことだっただろうか。しばらくの静寂。続くBGMは、もうすっかり耳に残ったサビを流していた。

 もう最後にするから でもこれだけは信じて欲しい ぼくは絶対に――

ぷちり。意識を取り戻した名前さんの指一本で、曲は終わった。長い溜息は、安堵の響きを帯びている。それを合図に、止めていた足を動かして音響ブースへ向かう。その間に、魔法の指はそのまま迷いなくCDラックに向かい、中に入っていた薄い曲の元を取り出した。表面に見える趣味の悪いロゴマーク。真ん中に開いた穴に注意深く人差し指を突っ込んだ名前さんは、持ち上げたCDをくるくると回して遊びながら、今度は短く溜息を吐いて、天井の照明を仰いだ。

「バンドマンの『絶対』なんて、これほど信憑性のない言葉はないな」

傾けた首を横に動かし、一歩足を広げて、俺を避けて注意深く場所を移されたあのCDケースの元へ。左手で丁寧に持ち上げたプラスチックに、名前さんの視線が熱を持って落とされる。鮮やかな赤の歌詞カードの横に円盤状の指輪を落として、最後まで読み終えた本を、棚に戻すために閉じるのと同じように、そのケースを閉じた。ぱちり、プラスチックがかみ合う。あのラブソングは、もうこのライブハウスには響かない。

「でもまあ、その時は、考えてやるよ」

多分、誰にも見られたくないことだったんだろう。名前さんの瞳を思い出す。曲を聴いている姿も、ヘッドホンのない首筋も、良く着ている趣味の悪いバンドTシャツと同じロゴが描かれた、あのCDケースも。それでも彼は、この場所を覗き見てしまった俺を責めることもなく、俺の言葉を笑うこともなく、音響機材しかない狭い世界のなかでいたずらっぽく微笑んでいた。


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