「山崎」

掛けられた声と肩を叩かれる感触に、ゆっくりと浮上する意識。眠っていたのか、自覚すると同時に、頭が働きを取り戻していく。そして、思考が芯まで晴れた途端、はっと、勢い良く身を起こした。急激な姿勢の変化により揺れる思考をそのままに、倒れんばかりの勢いで薄い布団に寝かされている少年の顔を覗き込む。額に張り付いた青い髪。顔色は、依然として死人のようだ。すうと背筋が寒くなるのを感じながら、祈るように、口元に耳を寄せる。浅く断続的な呼気。呼吸をしている。まだ彼は、井吹は生きている。深く溜息を吐いて、胡坐をかいた自分の膝に腕をつく。昨晩、井吹の包帯を取り替えた後、いつ眠ってしまったのかまったく記憶にない。連日の看病で疲れが溜まっていたとはいえ、いつ黄泉路へ旅立ってしまうとも知れない友を前に意識を失っていた自分の情けなさに、山崎はきつく唇を噛んだ。もし彼の命がこのまま失われてしまうとしても、その最期は、自分の目で見届けてやろうと決めたばかりなのに。

「山崎、聞こえてるか」
「っ!?」

突然降って来た声に驚いて顔を上げれば、名字は井吹の布団をはさんだ反対側から、困ったようにこちらを見下ろしていた。いつからここに、言おうとして、自分を眠りから引き上げた声があったことに思い至る。その声が井吹のものでないことは理解していたはずなのに、存在自体は頭の中からすっかり抜けてしまっていた。開いた口をおずおずと閉じる俺を見た名字は小さく笑い、視線を落とした。

「井吹は、まだ目覚めていないみたいだな」
「……すまない。一番忙しい時なのに、君や島田くんに全て任せきりにしてしまって」

俺の言葉に、切りそろえられた名字の髪がゆっくりと揺れる。闇の色をしたそれが所作から一拍遅れて揺れる様がまざまざと見えたことでようやく、とっくに夜が明けてしまっていることに気が付いた。外からは鳥の鳴く声と、行商が行き交う声が入り混じって聞こえてくる。閉じた雨戸の間から抜けてくる日の光。その僅かな光をひどく眩しく感じてしまい、思わず強く目頭を抑える。井吹が刃を受けて倒れてから、四日目の朝であった。

「ひどい顔だぞ、少しは休んだらどうだ。井吹のことならしばらくは俺が見ていてやるから」

名字は大き目の風呂敷を床に降ろしながら声を掛けてくる。布に包まれているのは俺が頼んだ手当てのための道具と、僅かばかりの食料。それらを適当に仕分けている俺を見ている彼の切れ長の瞳が気遣わしげに細められていることに違和感を覚えたが、名字の瞳に移る自分自身は、きっと感情を抑える術に長けている彼がそうせざるを得ない程にやつれ果てているのだろう。

井吹の血を拭い、あばら屋に運び込んで、手当てをして、身体を休める間もなくそうしている内にいつの間にか、四日もたってしまった。かろうじて四日目だと分かるのは、朝日を見るたびにきつくこころに刻み込んでいたからだ。井吹は、芹沢さんと共に浪人に殺され、遺体が見つからなかったということになっている。あの時共に命を落としたのならそうはならなかっただろうが、皮肉なことに、既に屯所での処理が進んでしまっている今となっては、芹沢さんに遅れて、しかも手当ての痕跡のある井吹の、その名を刻んだ石を残すことは叶わないかも知れない。もしも何も刻まれてない石を作ることになってしまったら、せめて彼が旅立った日だけでも、間違いなく刻んでやらなければ、そんな息がつまるような鬼胎が、傷口を確かめる指先からじわりと広がってくる。

そしてその思いは、幾度となく呼吸を細くする井吹を見るたびに強くなった。間違いなく、彼は生きている。生きてはいるが、いつこの世を去ってしまうか、分からない。今かも知れないし、明日かも知れないし、俺がほんの少し目を離してしまった瞬間に、誰にも知られることなく、息を引き取ってしまうかもしれないのだ。憂いを浮かべた名字から目を逸らし、昼も夜もずっと見続けた顔を改めて見下ろした。土気色の額、薄い瞼、肉の落ちた頬、青い唇、浅い呼吸。そのひとつひとつを確認して、思い浮かんだのは。

「俺なんかより、井吹の方が余程酷い顔をしている」

苦笑を浮かべようとしたのだが、何故だかうまく表情を動かすことが出来ない。ただ事実を述べただけなのに、声に出したことで喉が引きつり、いつか彼と語り合った日と同じようでまったく違う、笑いに似た息が漏れる。声をうまく制御することが出来ない、井吹は、呻き声を上げる事も出来ないのに。顔と頭に熱が篭もる感覚。井吹の先で名字が息を飲む気配がしたが、気に留めている余裕はなかった。震える呼吸の間から、ぼろりと、漏れたのは。

「俺は、井吹と出会わない方が良かったんだろうな」

無様な、みっともない声だった。言葉を止めようとするも、歯が触れ合ってかちりと音を立てるだけ。その音がまた俺の見苦しさに拍車を掛けて、思わず吸った息にすら震えが乗ってしまう。「そんなことはないだろう」と言う名字の困惑したような声が部屋に響く。自分以外の人間の声。それが井吹の声ではないという絶望が、目頭の奥に、鼻腔の間に熱を集めていった。言ってはいけないと必死に閉ざしていた唇が、熱を堪えきれずに、震えてしまう。ぼうっとしていく視界の中の苦しげに目を閉じたままの井吹、喉の包帯に滲む赤を見た瞬間、駄目だと止める思考を振り切って、「ちがう」と、熱が、ぽろぽろと零れ落ちた。

「井吹を止める任を担ったのが俺でなければ、井吹はあの場に立ち会わずに済んだかも知れない。井吹と監察の仕事をしたのが俺でなければ、井吹をきちんと入隊させて、助けてやることが出来たかも知れない。俺が井吹とあの川原で語り合うことがなければ、井吹が近藤派と芹沢派の間で板ばさみになることもなかった。」

三日間、血溜まりに伏している井吹に駆け寄ったあの時から今の今まで、ずっと喉奥でくすぶり続けていた熱が、形を持ち、言葉となって生れ落ちる。

「俺が、井吹と出会わなければ、井吹は死なずに済んだのに」

喉が熱い。目も、頭も、口も鼻も、どこもかしこも。詰めた息が、子供が泣きじゃくる声と同じ響きを持っていることに気付き、止めようと喉を絞めるが、結局は閉めた喉の間を通った息が動揺にしゃくり上げられるだけ。あまりの熱さに上体を起こしていることも出来なくなり、上半身は中途半端に胡坐をかいている自分の膝の上に崩れ落ちた。ぐしゃりと短い前髪を握りつぶし、袖で顔を覆う。袖口から香る鈍い鉄のにおいに、また呼吸が引きつる。
冷静な思考の奥では、これは疲労からくる、不必要に否定的で消極的な考えであると理解していた。しかし、今まで押し殺していた、考えないようにしていただけで、自分の中に確かに存在している思いであることは疑いようがなかった。

井吹を助けようと、死に物狂いで、そのことだけに心血を注いでいたつもりだが、その行動自体が、井吹を助けたいという思いから来ているのか、井吹を窮地に追い込んだ自分の罪悪感を紛らわすためものなのか、本当のところは自分でも分からない。彼が死んだ後、ここまでやったのだから仕方ない、と自分を納得させるためだけに、彼を看病しているような気がしてならないのだ。
それに、彼が生きることを望んでいるのかどうかも分からない。このまま生き延びても井吹には今までよりも辛い未来しか待っていない。にもかかわらず彼を助けてしまうことが、彼への罪滅ぼしになるのだろうか。芹沢さんを殺した新撰組に助けられることも、あの場に駆けつけた井吹には許しがたく、屈辱的なことなのではないだろうか。そう思っているのに、看病をしてしまった自分は、やはり井吹のためと言いながら自分のことしか考えていないのではないか。

視界がぼやけて定まらない。息が整わない。なんとか熱を冷まそうと荒く呼吸をすれば、自然と口は開かれ、同じような呪詛や嗚咽が際限なく落ちていく。しばらく、どれほどの長さだったかわからないが、久方振りに声を出し続けた喉が疲労を訴え、ついに言葉を発さなくなるほどの時間が経ったところで、不意に、空気が異なる揺れを起こした。

「気は済んだか」

水面に一滴だけ雫を落としたような、整った静寂。すうと吸った息が、震えこそ止まっていないが、しゃくり上げる音を立てずに肺を通り、空気にまぎれていく。顔を上げられずに指と着物の袖の間から、普段より些か狭い視界で、変わらずに浅い息で眠り続ける井吹と、その向こうできちりと正座している名字の膝を垣間見た。握られた拳が少しだけ着物を巻き込んでいる。みっともない姿を見せて失望させてしまっただろうかと、今更ながら少し不安になったが、ここまで醜態を晒してしまえば取り繕うことも出来ない。ぱたぱたと、物売りがあばら家の前を通り過ぎていく音が通り過ぎていく。しばらくして、なんと声を掛けたものかと逡巡していたのだろう、普段よりも些かゆっくりとした口調で、名字が口を開いた。

「井吹はまだ生きている」
「時間の問題だ」

名字の言葉を即座に切り捨てた声の低さに、自分で驚いてしまう。はあ、と、男から漏れた呆れを帯びた溜息に、嘲笑にも似た薄暗い笑みが浮かんだ。彼が何を言いたいのかは知らないが、これはどちらも事実だ。信じているとか信じていないとかそういう問題ではなく、井吹が生きていることが事実なら、いつ事切れるかわからない状態であることも事実である。同時に、井吹に致命傷を与えたのが芹沢さんであることが事実なら、あの場に井吹を行かせてしまったのが俺であることも、事実。間違ったことは言っていない。また視界が暗くなり始めた俺の様子を悟ったのか、再び名字の声が降って来た。

「お前はどうなんだ?井吹にとってじゃない、お前にとって、井吹と出会ったことは、そんなに不幸なことだったのか?」

名字は至極真剣な響きを纏わせて、丁寧に言葉を作った。感情が昂っている俺を刺激しないよう気を使ってくれたのだろう。いまだ思考の向きが頗る後ろ向きであることは自覚しているが、熱を持っていた頭は、先ほどよりいくらか穏やかに、不幸、という言葉を飲み込んだ。不幸。俺が不幸かどうかなんて。

「そんなこと、井吹には関係ないだろう。今苦しんでるのは井吹なんだ。俺がどう思おうと、俺と出会わなければ井吹は苦しまずに済んだかも知れないということには、変わりがない」
「ああ、なんだ、もうわかってるじゃないか。」

いっそ笑みすら含んでいる、明るい声だった。想定外の展開に、思わず顔を上げる。普段、あまり感情を表に出さない名字が、薄く微笑んで、俺を見つめていた。雨戸の間から滑り込んでくる朝の陽気に照らされて、穏やかな笑みは絶望ばかりが蔓延した空気を切り裂かん勢いだった。余りに急な、暴力的な明るさに、目は無意識のうちに瞬きを繰り返している。

「お前は目を逸らしているだけだ。お前が自分で言った通り、井吹が今苦しんでいることと、お前の感情は関係ない。そうだろう?」

関係ない?そんなはずはない。赤子に言い聞かせるような声に必死に反発する。そんなはずはないのだ。井吹をこんな目に合わせた原因の多くを作ったのは俺だ。俺は井吹をこの不幸に追いやったことに責任を感じてしかるべき立場にある。それを思えば、井吹と出会ったことは、間違いなく不幸なことだ。今までの幸せなど、この不幸に繋がるのならば、なかったことにしてしまっても構わない。井吹が死ぬ前に、なかったことにしてしまわなければ、俺は正気のまま、井吹を暗い土の下に押し込めてしまうことが出来ない。なのに。

「もう一度言うぞ、山崎。井吹はまだ生きている。生きているんだ。それなのに、お前にとって、井吹との出会いは不幸せなことだったと、決めてしまって良いのか?」

ああ、俺は、井吹の生を諦めた振りをしながら、井吹が死んでしまうことを、こんなにも怖れていたのか。
止まった涙がまた目尻から零れ落ちていく。その度に、霞かかった思考が朝焼けの光のなかに晴れていくような感覚がした。


――
井吹、俺は、俺はお前に出会えて本当に良かったと思っている。(薄ミュ黎明録5/26夜公演)


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