クロスオーバー注意。

縺れる足が鬱陶しい。荒い息と脈打つ鼓動も耳障りだ。主が整えてくれた髪も服もどんどん乱れていく。刀のままだったらこんな不自由な思いをしなくてすんだだろうと思うが、この不便な身体がなくては自分の身で走ることが出来ない。なんて面倒な、舌打ちを隠しもせずに、暗闇に落ちる京の町を走り抜けた。見覚えのある町並みに、吐き気がこみ上げてくる。

何もかも、全部あいつのせいだ!

もう少しで池田屋の時代まで遡れるというところで負傷した骨喰の治療の為、京都から帰還しようと本丸への門が開いた瞬間、飛びだして来た蒼を、止める間などなかった。弾かれるようにその背中を見た五虎退、何処に行くのだと問うた骨喰、追おうとした秋田を止めた長谷部。我々の受けた命は、敵を殲滅し、部隊全員で帰還すること。あれは捨て置いても問題ないはず、そうだろう、加州清光。敵の槍と渡り合い、返り血をしとどに浴びた長谷部の口が告げた。言外に、傲りの響き。

長谷部の言う通りだったんだ。棒のようになった足を動かしながら思う。もしも俺が長谷部の言う通りに帰ったとしても、主は俺のことを攻めたりはしないだろう。だけど。それでも、主が唯一現世から持ち込みを許可されたものであるあの刀を、俺が隊長の時に失わせるなんて出来るはずがなかった。主の瞳に僅かでも失望を映すようなことだけは、どんなことをしても、避けなければならない。例え、あの刀がどんなに役立たずでも、主のために連れ帰らなければならないのだ。



初めて見えた時から、その男の霊格の低さは瞭然であった。とても付喪神と呼べる代物ではない、というのが正直な印象だ。
支給刀である自分よりも前に他の刀があったという驚きも通り越して、俺は不快感に得たばかりの瞳を少しだけ細めた。主の頭よりも高い位置で結われているのは手入れされた様子のない蒼い髪。こちらを強く睨みつけたかと思えばすぐに逸らされる琥珀の瞳。傷だらけの身体を覆う古びた着物。極めつけに、晒された喉には、縦に一文字、線が入っていた。丁度刀を縦に真っ直ぐ、突き刺したかのようなその傷は、俺でなくても眉をひそめるだろう、刀の見た目として最悪に薄ら寒いものであった。

挨拶もそこそこに男を睨みつける俺に対して主は苦く笑いながら、横に立つ男を見上げる。人の形を得ても尚物言わぬ刀は、主の祖父が借金の型に友人から譲り受けたものらしく、主は刀を、その祖父の友人の名から取って「名字」と呼んでいた。 姿を与えれば助けになるかも知れないと本丸への持ち込みを許可されたものなのだが、名字は名もない民草の手を渡り歩いた刀であり、逸話や伝説がないどころか、謂われすら分からない為、結局人の形を得ることは出来ても戦う力はなかった。
彼は人間と暮らしていた時間が長く、現世に精通しているから、機械の設置や現世とのやり取りを担い、出陣は俺や他の刀たちが行う事になる。戦力としてお前を頼りにしている、と、主は俺に向き直って言った。主の口から紡がれた自分の名に胸が高まる。主の初めてになれなかったのは残念だけど、戦力としてきっと役に立って、主に一番に愛して貰おう。興味なさげに庭を眺めていた名字に声をかけ、早速初陣の準備を始めた主の背中を見て決意したことを、今でもよく覚えている。

そしてその日から今まで、あの男はただの一度も戦場へ出たことが無かった。



全力で走っていても、彼の刀の気配は少しずつ遠ざかっていく。別に俊足自慢という訳でもないが、言葉も発せない程に霊格の低い付喪神、名もない刀に撒かれかけていることに苛立ちが募り、鞭打つように身体を動かす。加えて、明らかに自分のよく見知った場所ばかりを走らされていることにも腹立たしさを覚えた。前の主たちが拠点としていた寺から程近い通り、人を斬った路地、小さな茶屋。あの時もこの場所を走り回ることが出来ていたなら、そんな途方もないことばかり頭を巡っていく。ここまで計算して逃げているとしたら見た目に似合わず相当な狡賢さだ。
月にぼんやりと照らされるそれらを極力注視しないようにしながらしばらく夜の京を走り抜けていると不意に、相手の気配が遠ざからなくなった。力が尽きたのか、それとも、迎撃するつもりなのか。待ち伏せのつもりだとしたらあまりにもお粗末だが、無抵抗でないなら攻撃のしようがあるし、逃げられるよりも余程捕まえやすい。多少の損傷は主も許してくれるだろう。腰の刀を握りしめ、注意深く歩を進める。


気配を追って辿りついたのは、見知った道にある、覚えのないあばら屋だった。打ち付けられた板が酷く痛んでいるそれはどうやら空き家らしく、形ばかりの門から続く道は、伸びるままの雑草や低木に阻まれている。暗闇で見るその家は、普通の人間なら近付かないであろう気味悪ささえ持って、町のなかにひっそりと立っていた。中に感じる生きた人間の気配は乞食か、それとも盗人か、少なくともこの家の人間ということはないだろう。

息を整えながら草木の間を通り、家の前に出る。軽く建物の周りを見てまわったが、雨戸は固く閉ざされており、玄関以外から侵入した形跡はない。無理に押し入るより、素直に玄関から入った方が良い、そう判断した俺は削れた石畳の道に戻り、ささくれ立った扉を静かに開けた。
篭もった空気、腐った木のにおい。土足のまま土間を上がり、古くなった壁板の隙間から射す月の明かりを頼りに、一歩進むたび傷んだ木が悲鳴をあげる廊下を歩いていく。簡素な作りのあばら屋、刀剣と人間の気配は、共に最奥の部屋。よもやこの時代の人間を人質にでもしているのか、歴史を守るために戦いに身を投じている主の手前、過去の人間を傷つける訳にはいかない。気配を消さずに破れた襖の前に立ち、鯉口に手を掛けたまま、短く息を吐く。ならば、あいまみえたと同時に攻撃を仕掛けて人間と距離をとらせなければ。ぎい、踏み出した足でもろい床を踏みしめ、一気に襖を開け放つ。

「井吹!!」

瞬間、響いたのは悲鳴のような、男の叫び声。勢い良く突っ込もうとしていた上半身が驚きで硬直する。眼前にはあの無銘の刀と、男が二人。刀剣は布団の上に横たわる男に馬乗りになり、長く蒼い髪を振り乱しながら両手で思い切りその首を締め上げていた。締め上げられた方は苦しみもがきながら、逃れようと木綿晒で覆われた首元を掻き毟っている。叫んだ男が二人に駆け寄り、締め上げる刀の手を頸部から引き剥がそうと躍起になっている姿が、行灯の光に暗く照らし出されている。

それだけならば、まだ理解出来た。名字と呼ばれるあの刀が、俺の接近に気付き人質に手を上げたのだろうと、俺はあのまま部屋に押し入り、名字の手を切り落としていただろう。
しかし、その光景のあまりの異様さに、思わず動きを止めてしまった。見開いた目を、布団の上で息を荒げている二人の男から逸らすことが出来ない。暗い部屋のなかでやや下から照らされた二人の男、首を締めている男と、締められている男の容姿は、まるで鏡で映したかのように寸分違わず同じだったのだ。男は白い襦袢姿で、刀は青朽葉の着物を着ているという違いこそあれ、それ以外の身体、細い手足、琥珀の瞳、結われた長い蒼の髪まで、何もかも。
なにこれ、震えた唇は音を産まない。同じ刀剣ならともかく、間違いなく片方、もがいている男は人間だ。確かに前の主を模した身体をしている刀剣はいるが、ただの町人が刀と同じ容姿をしているはずがない。もう一度、先ほどの男が鋭く叫んだ。男は刀が馬乗りになっている脚側ではなく、枕の転がっている頭側から、首元を掻き毟る手と締める手とを剥がそうと腕を回している。首を絞めている状態では横や後ろからの攻撃に対応できないのだから、手を離させるよりもなんとかして身体自体を引き倒した方がずっと早く簡単なはずなのに。

その不自然な動きに俺はようやく、二度叫んだ髪を一房だけ伸ばした男と襦袢に包帯でもがいている男に、馬乗りになって首を締めている刀は見えていないのだということに思い至った。

サア、と血が引いていくのを感じる。過去の人間から見えていない、ということは。

「名字!」

俺は刀を抜くことすら忘れ、半ば体当たりのように突進して名字を男から引き剥がした。ぎりぎりと殺す勢いで首を絞めていたにも関わらず、名字の身体は思ったよりも軽く吹き飛び、俺たちは勢いを殺しきれずに壁板へと強かに衝突する。衝撃でもろい建物がゆれ、行灯の光が揺らいだ。ぶつけた頭を摩りながら顔を上げれば、叫んでいた萌葱色の着物を着た男が、乱れた襦袢や晒を直しながら何か声を掛けている。開放された男は意識が朦朧としているのか呼びかけには応えていないけれど、こほ、と抜けるような咳をしながら息を整えていた。良かった、まだ生きているみたいだ。安堵の溜息を吐いたのもつかの間、俺から数秒遅れて身体を起こした名字は状況を飲み込めていないのか、のろりとした動作で辺りを見渡したが、やがて琥珀の瞳に男の姿を捉え、殺気のままに立ち上がろうとする。俺は乱れた髪を直すのも忘れ、慌てて臙脂色をした袴の裾を掴んだ。

「ちょっと!分かるでしょ!?こいつらお前のこと見えてない!刀の頃のお前を知ってるんだよ!それにあの男なんてお前にそっくりなんだ、武士には見えないけど、どう考えても名字の『前の主』、」
「やめろ!!」

誰かの声とともに、がっ、と蹴りつけるように腕を振り払われ、驚いた隙に名字は中途半端な体勢から完全に立ち上がった。待て、と告げる間もなく、短髪の男を突き飛ばし、包帯を巻かれた首に再び手を掛ける。急に突き飛ばされた男は間一髪、行灯を倒すことなく横の床にたたきつけられた。困惑と痛みの混ざった声。締め上げられた方は声も上げられないのか、手足をばたばたと動かして抵抗を示している。時折その膝蹴りを背中に食らいながらも、刀は憎悪に瞳を揺らし、首を締め上げる手を緩めなかった。獣のようにふうふうと荒げた息の合間、刀が呻く。

「殺してやる……!お前は、お前なんか、お前だけは、……!」

途中で抜けていく空気を力任せに喉にぶつけて音にしているような、無様で聞き苦しい、とても声とは言えないような声だった。先ほど聞いた声と同じようだが、これがこの刀の、声?

「井吹やめろ、やめてくれ……っ」

切羽詰った男の声に急いで立ち上がり、馬乗りになって首を絞める名字の後ろに回って、腕の隙間から羽交い絞めにして引き上げる。やはり、軽い。戦場を知らない身体の薄さ。息を荒げた名字が何か言いながら抜け出そうともがくが、元々の力量さからしてそう簡単に抜けられることはないだろう。手が緩まないように注意深く、二歩、三歩と人間達から距離を取る。
視界の端で、突き飛ばされた方の男が床を這って包帯の男の元に近付き、縋るように彼の手を握っていた。汗だくになりながら胸元を押さえ、ひゅうひゅうと呼吸を繰り返す蒼。無傷の男は空いた手で震える背中を摩って声を掛けつつ、安い油の灯りを頼りに注意深く表情を伺い、本当に落ち着いたかどうか脈を取って確認している。黒は焦っていた様子こそあったが、看病している姿は実に手馴れたものであった。包帯をした男が、気遣う言葉に頷いて喉元の白に触れる。瞬間、弾かれたように顔を上げ、声を荒げる名字。

「良くも平然とその傷に触れたものだな恥晒しが……!」
「落ち着けって……!」

羽交い絞めから逃れようと暴れる身体を押さえつける。二人の人間の視線がこちらに向けられることはない。逆上に蒼く長い髪が逆立つのではないかというくらい、刀は身体を大きく持ち上げて鋭く息を吸った。思い切り見開かれ、暗闇の中ぎらぎらと怒りに血走った琥珀の瞳。

「あの方は、あの男は、自らの誇りではなくお前の命の為に、最期の鋒をお前に向けた!お前の弱さゆえだ……!」

噛み殺さん勢いで、刀が身を乗り出す。

「あの男を真に殺したのはお前だ!井吹龍之介!!」

血反吐を吐くような憎悪を投げつけた瞬間、ごぼり、名字の口から文字通り赤黒い血がこぼれ落ちた。べちゃりと不快な音をたてて、赤が古くなった床板にこびりつく。「は!?」と思わず出てしまった場違いな声のまま名字の顔を覗き込もうとすると、その前に、刀は唐突に全身の力を抜いて崩れ落ちた。急のことに対応しきれずに些か蹌踉めく。身体を持ち直すために緩んだ拘束にも名字は反応しない。いやそれどころか、生気が、全く感じられない。

「主から離れすぎたのか……!」

迂闊だった。完全に意識を失った刀の身体を抱え直す。
名字は何の謂われもない、少し年月を経ただけのただの鉄の塊だ。故に人間の力を溜めておける器が、俺たちと比較して極端に小さい。その上、名字は帰還ゲートを強引に逆走して来たのだから、主との回路が正常に機能していなくてもおかしくはない。しかも神話の集合体ですらない名字は、今は刀ではなくこの身体に宿っている。もしも正当な手順を踏まずに寄り代である身体を失えば、最悪、霊魂も同時に消え失せてしまうかも知れない。

長谷部の言う通り、本当にやめておけば良かった。
よぎった後悔を振り切るように頭を振る。ここまで来て、連れて帰れませんでした、じゃあまりにも格好が付かない。一度名字の身体を下ろし壁板に凭れかけさせた俺は、名字の腰に差された本体を引き抜き、自身の腰に招き入れる。首の襟巻を解き、意識のない身体の背中から脇の下を通して、力のない腕を自身の肩に回させながら立ち上がった。
がくりと揺れて肩に預けられる意識のない頭。胸の高い位置で交差させた布を広げた上に身体を乗せ、足を抱える。前で襟巻をきつく結びながら、何が悲しくて大の男におんぶ紐をつけてやらなければならないのかと思ったが、時は一刻を争う、そんなことを考えている場合ではない。でも襟巻は絶対に弁償して貰うからね!と自分に言い聞かせて、もう一度足を抱えなおした。これならなんとか走れそうだ。


はあ、と吐いたため息が誰かと重なり、俺は何とはなしに人間のいた方向へ視線を落とした。暗い行灯の光がいよいよ弱々しくなっている。こちらがばたばたしている間に、包帯の男は落ち着いたのか、布団の中で穏やかな寝息を立てていた。短髪の男は静かに自分の衣服を整えている。もう夜も更けて、むしろどちらかといえば朝に近いくらいの時分だろうに、床につく様子はない。
そういえば、と一歩足を踏み出しながら思う。恐らくこの男の菖蒲色の瞳には、もう一人が自ら首を掻きむしっているようにしか見えなかったはずだが、首もとへと手を伸ばす動作も、暗闇の中で息の確認の作業も、布団に押し戻す強引ささえも、迷いなく手馴れたものだった。まるで毎日幾度となく繰り返されているかのように。


(「――くんさあ、まだ――くんの世話焼いてるの?」)
(「……迂闊に名前を出さないで下さい」)
(「いいじゃない、今は誰もいないんだから」)


突然、頭の奥で聞きなれた声が木霊した。
ああ、感嘆とも落胆とも取れない声が自然と漏れる。見下ろした男は隈の沈着した目元をきつく抑えていた。こいつら、新撰組の刀である俺を知っているんじゃない。沖田くんの刀である俺を、沖田くんを、知っているんだ。つまりそれはまた、俺も同様に。
初めて見えた時に覚えた不快感と、名字の睨みつけるような瞳が思い起こされる。何故、気付かなかったのだろうか。元々刀に憑いていただけの俺たちが、知りもしない同属に対して嫌悪感や怒りを示すことなど、あるはずがないのに。

隙間から射す月明かりが、ついぞ一言も声を発さなかった男の喉元と、きっとこの男が吐いたことになるだろうまだ新しい床の血を照らし出す。部屋の隅でうな垂れるようにしながら寝顔を見ている男から目を逸らして数歩歩き、開け放たれたままの襖に手を掛ける。


まるで、悪夢のような夜だった。


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