9 跡部さんは現れなかった。

放課後、部活開始時刻になって現れたのは滝さんだった。
テニス部は、跡部さんがヒエラルキーを作った後急激に持ち物の紛失・破損が増えたこと、部室を勝手に利用する者が出てきたことなどから、教員室から鍵を持ち出すことが出来るのは榊監督と跡部部長に限られていて、榊先生が鍵を開ける際は、最後誰かが鍵を返しに行かなければならないため、必ず事前に連絡が来るようになっている。その連絡がないまま部活が始まろうとしているということはつまり、跡部部長は、学校には来ているということだ。

滝さんは整列した俺達を見渡して、大会が終わったので部活は普段通りのスケジュールで再開されること、しばらくは練習のメインを二年一年に移すが、引退試合や幹部交代の時期は未定であることなどを淡々と告げた。事前に話があったのか特に反応を示さない三年の先輩達と違い、一年二年の間には一瞬動揺が走るが、何か質問は、と普段よりも固い声で問う滝さんに異論を唱えるものはいない。敗北翌日の時点では、皆未だ心の整理が付いてなかった。

少しの沈黙の後、部活は通常通り開始された。大勢の部員達が整列した状態からそれぞれに割り当てられているコートへと、普段よりも緩慢な足取りで移動していく。流れに従って準レギュラー用のコートへ向かう途中、逆らうように逆方向へ足を進める日吉と鳳を見かけたが、いつもの笑顔ではなく沈んだ表情の鳳とどこか虚ろな様子の日吉に何と声を掛ければ良いのだろうか、と考えている内に、結局目を合わせることすら出来ずにすれ違ってしまった。準レギュラー用のコートの隅にラケットと水筒を置き、近くにいた二年と一緒に準備体操をする。何かを話していた三年の先輩方が、今日はストローク練習をするから一年は終わり次第準備、二年は外を走ってアップを取っておくように、と言っているのが、同期の背中で逆さまになった視界に響いた。先輩の声も、はい、と返す同輩や後輩達の声も覇気がなく、この場に跡部さんがいればきっと怒られてしまうだろうな、とぼんやりとした頭で考える。

しかし、正レギュラーの先輩は部活に参加しているのに、跡部さんが参加していないというのはいささか不自然ではないだろうか。全国に行けなかった責任を感じているのかも、と思ったが、そうだとしたら、跡部さんはなおさら後輩の育成に力を入れるだろう。もしかして、昨日の試合で跡部さんもどこか痛めたのか。それとも何か他に事情が、ゆるりとした思考のままフェンスの外へ出れば、少し離れたところにある正レギュラー用の部室、その前で、樺地が立ち尽くしていた。右腕に巻かれた白が昨日の敗北を連想させ、思わず目を逸らそうとした瞬間、はたと、俺はこの日初めて自分の思考がよどみなく動いているのを感じた。

樺地が部室の前にいるということは、多分、跡部さんは部室の中にいるということだ。跡部さんと樺地は基本的には行動を共にしているし、何よりこの状態の樺地だけを部活に送り出し、自分は学校に来ないなんて、そんな真似を跡部さんがするとは思えない。

俺は外周周りのアップを放棄して、ぼうっと壁に背中を預けている樺地へと足を向けた。痛めた腕を白い布で吊っている様子は、目を逸らしたくなるくらい痛々しい。前まで来ても、樺地は空を見つめるばかりで、彼の意識がこちらに向く様子はなかった。何と声をかけたものか、迷った挙句樺地の名を小さく呼んでから、反応のない大きな身体を見上げた。

「跡部さん、いるんだよな?」

樺地が小さく頷く。どうやらこちらの声は聞こえているようだ。安堵の溜息を飲み込み、次の言葉に変える。

「なんで部活に出てこられないんだ?昨日の今日で、どこか悪いとか」

俺が言うと、樺地はかちりと身体を縮こませて、唸るように声を出した。

「跡部さんは、悪くない、です」
「え?」
黒目がちな瞳は、どこか遠くを見つめていて、表情が読み取れない。

「大丈夫だ、静かにしてろって言われたのに、おれが騒いで、殴って、跡部さんは止めようとしただけで、……なのに喉に残ったから、お祖父様が、お屋敷に……!」
「か、樺地ごめん、言ってる意味が」
「う、ああああああああ!」
「樺地!」

錯乱した樺地が頭を抱えて黒い髪をかきむしる。声を上げてのけぞった拍子、頭を壁に思い切り打ちつけ、がん、と鈍い音が響いた。余りに大きな音に思わず後退る足。腕が上げられたことで、右腕を吊っていた白い布が、ちょうど目線を遮りながら、ひらりと地面に落ちていく。急に視界を覆った白に目を奪われていたその時、樺地が頭に両手を置いた状態でぐっと身を折り曲げると、肘が後ろに引かれ、包帯に覆われた右腕は強かに部室の壁を打った。
何して、上げようとした声は言葉にならず、自ら右腕を痛めつける姿に息を飲むばかり。まるで昨日の繰り返しだ。視界が揺れる。フラッシュバックする力任せな試合。俯いた顔、地面に落ちていくラケット、腫れ上がった腕を押さえる姿。全身から汗が噴出す感覚。包帯。ウウ、と喉を潰したような唸り声。そうだ、樺地は怪我をしているのに。ガンッとまた堅い音が頭上から響く。昨日腕を痛めたばかりなのに、これではまた悪化してしまう!冷や汗と共に脳内にじわじわと広がっていく得体の知れない恐怖が一定量を越えたことで、反射的に伸ばされた手が、髪を掻き毟っている樺地の太い腕を掴み上げる。がくりと動きを止めた頭から、黒い瞳がゆらりと俺を映していた。息を荒げ、瞳孔を大きく見開き、顔を歪めた樺地の瞳に映る自分との間には、今まで彼の温厚な性格ゆえに意識したことのなかった暴力的なまでの体格差が浮き彫りになっている。この手を思い切り振り払われたら、自分は。鋭く息を飲む俺の腕を引き摺るように、大男が白い腕を振り上げた瞬間。

「樺地。」

低く、しかしはっきりとした抑揚が、その場の空気を切り裂いた。

はっと視線をずらした先には何時の間にか、夏場だというのに長袖長ズボン、量の多い髪と眼鏡を纏った男が、地面から上がる陽炎のように不確かな存在感を持って佇んでいる。度の入っていないガラスの奥の瞳の冷ややかさに、俺はようやくその男が忍足さんであるという事実に思い至り、先ほどの声は先輩が発したものだと理解するのには更に時間を要した。先輩が何故ここにいるのかは分からないが、とにかく、助かった、のか。視線だけを樺地に戻せば、彼は俺と同じように忍足さんを見つめたまま、俺の手の中にある右腕も含めて石像のように固まっている。忍足さんは、樺地の目をまっすぐに見つめ返し、着込んだジャージの袖口から伸びる指で、部室の入り口を指差した。

「跡部が、呼んどるで」

黒い瞳がジャージの白から肩、腕、忍足さんの指先までを順々に辿り、そこから部室の扉へと視線を移していく。樺地は肩で息をしたまま、まるで獣が標的を変えたかのように、部室の扉、その向こうを睨みつけた。獣の焦点から外れた青は、中途半端な体勢のまま忍足さんを見ていた俺へと視点をずらす。すいと細められた目の冷たさに反射的に身体を僅かに小さくすると、自然と樺地の腕から手が外れ、自分の方へと返ってきた。しばらくそのまま三人とも動かず、張り詰めた沈黙が流れたあと、巨体がゆらりと揺らめき部室の中へと歩を進めていく。忍足さんの手前で自動ドアが開き、向きを変えた樺地がその奥に吸い込まれたのを確認すると、全身の力が抜けて、俺は思わずその場に座り込んでしまった。

なんだったんだ。うなだれるように俯いた地面には、ぽたぽたと自分の汗が色を付けていく。なんだったんだ、今のは、一体。荒い息のまま額の汗を拭うことすら出来ない俺を見下ろして、忍足さんは低く低く溜息を吐いた。





10 叫ぶ。

あの敗北のあと、校舎で、何回か跡部さんを見かけたこともあった。それは移動教室の途中であったり、終業式の壇上であったりしたのだが、今までのように女子生徒が殺到したサロンで昼食を取る様子や資料を片手に生徒会の人と言葉を交わしている姿ではなくなっていた。俺が関東大会後始めてみた跡部さんは、生徒達が気を使っていることも手伝ってか、誰かと話すこともなく、ただ樺地を引き連れて、気遣わしげな視線と共に開けられた道の中央を闊歩していた。跡部さんが去ったあと、ひっそりと皆が彼の話をしているのを聞きながら、俺は次の授業で使う化学のプリントをぐしゃりと握り潰してしまったのだ。
夏休みに入ってからも、状況は変わらなかった。跡部さんは部活には来ているようだったし、皆が帰った後に一人で練習しているのを見たという先輩も居たが、依然として部活開始時間に整列した俺たちの前に立つのは滝さんや忍足さんで、跡部さんではない他の誰かだった。

その日も、俺は思考に耽りながら部指定のポロシャツに着替えていた。夏休み前のあの日、樺地は結局練習に出てこなかったし、俺の方もしばらくした後忍足さんに促されたため、練習に戻らざるを得なかった。それから樺地に声を掛けようとするたび何かしらの理由で邪魔が入り、あの日のことについて彼と話すことが出来ないままでいる。扉の近くでびくびくしながら着替えていた一年の頃と違い、二年になってから与えられた入り口よりも少し奥まった場所で、俺は考え事をしながら着替えることが多くなっていた。

樺地とは元々特別仲が良かった訳ではないから、推測だが、樺地があの行動も、跡部さんに何かあって、それに精神的にストレスを受けていたからなのだろう。しかし跡部さんに何かあったとしたって、例えば跡部さんがあの試合で何か肉体的に、あるいは精神的に、テニスが出来なくなる程の致命的なダメージを負ったなら、引き継ぎを済ませてテニス部から去れば良いだけの話で、わざわざ朝一に来て部室を開ける必要も、皆が帰ってからテニスをしていく必要もない。テニスが出来ないのではなく、純粋にテニスが嫌いになったのでは、なんて、そんなことあるはずがないことは、氷帝の人間なら誰でも良く知っている。

しかし事実として部活に参加していないのはどうしてなのだろうか、と頭をひねっていると、急に、ばん、と大きな音を立てて部室のドアが開いた。驚いた皆の視線が入り口に集まる。ドアを蹴破らん勢いでこじ開けたのはヒラの三年の先輩のようで、俺の横にいた先輩が「どうしたんだよ」と訝しげに尋ねれば、先輩は肩で息をしたまま、部室に流れる沈黙を掻き分けるように、掠れた声で言った。

「全国、行けるかも知れないって。監督が言ってたんだ。跡部が、承諾すれば、開催地枠で、全国に、」
「跡部!!」

震えた声の向こう、扉よりもずっと向こうから、誰かが大声で跡部部長を呼ぶ声が響いた。正レギュラー用のコートの方だ、大きく開けられた扉に飛び上がって驚いていた一年が言い、そのまま硬直した先輩達を押しのけて部室の外へ駆け出して行く。入り口の外では、ヒラの方に先に話が伝わっていたのか、多くのテニス部員が興奮した表情で正レギュラー用のコートの方へ走っている。耐えかねたように、扉の近くにいた同期のダブルスが揃って部室を飛び出し、人波に混ざっていった。誰かが跡部さんの名前を呼んでいる。ばたりと何かが閉まる音。絶え間ない足音。開催地枠、跡部さんが承諾したらって、氷帝は負けたんだ、負けたはずで、いやそれよりもあの人は、跡部さんは?

「行こう、俺たちも」

あまりに急な展開について行けず、硬直したままの俺の思考を、隣にいた先輩の呟きが切り裂く。はっと我に返ったときには、飛び込んできた先輩もいつの間にかいなくなっていて、準レギュラー用の部室は完全にもぬけの殻となっていた。外の喧騒が遠い。俺よりも少し低い先輩の頭を見れば、気遣わしげな視線が寄越される。

「お前、すぐ考え込むの悪い癖だぞ」

先輩はそのまま扉へ向かって歩いていく。俺は何も言えず、ただ馬鹿みたいに先輩の背中を追いかけた。



10−2
多くのテニス部員や他の氷帝生に覆われているテニスコートは、いつかの大会で、あまりの暑さに最前列から離れて試合を見ようとした際の光景を彷彿とさせた。しかし、部室の中から聞いた喧騒とは違い、あたりは奇妙な静けさに包まれていて、あの日よりもずっと日差しが強いはずなのにどこか寒気すら感じる。いつもと同じ構図のはずなのに全く違う空気、前を歩いていたはずの先輩は群集と化し、額縁の外から見つめている自分。

しかし、呆然と見つめていた生徒達の背中の間から見覚えのあるラケットの色を認めた俺は、思わず人を掻き分けて自ら厚い群集の絵へと入り込んでいった。誰かの鞄に引っかかるテニス部のポロシャツ。障害物は皆一様に前を向いており、強引に荷物をどかして背中を掻き分けても大きな反応を示すことはない。
制服の隙間から見えるラケットに引きつけられるようにたどり着いたフェンスの向こう、コートの中、ラケットの主は確かな存在感を持って君臨している。跡部さんだ、窮屈な思考が短く告げる。あの関東大会以来初めての、フェンス越しに見る跡部さんは、指定のジャージではない服で、敵ではなく正レギュラーたちと対峙していた。開催地枠の話を聞いているのだろうか。何を話しているのか上手く聞き取れず、俺は焦燥感と共にフェンスを握り締めた。部に関わる重要な話を、監督が跡部さんよりも先に部員に話すとは思えない。きっと跡部さんには事前に知らされていたはずだ。しかしだからこそ、跡部さんはしばらく部活に姿を見せなかったのだと、俺は思った。跡部さんはいつでも華々さだけを見せて俺達を導いてくれた。だからこそ、開催地枠という、勝利を伴わない方法で全国大会に行くかどうか、迷っている姿を俺達に見せられなかったのかも知れない。

けれどそんなものは杞憂だ。俺達は跡部さんがただ玉座に座るだけの王ではないことを既に知っている。何度もラケットを振り、なりふり構わず勝ちにしがみつく姿を、俺達は皆見ているのだから。

氷帝!と誰かが言ったような気がして、応えるように、氷帝!と声を上げる。それはドミノが次々と傾倒していくようにあっという間に広がって、辺りは割れんばかりの氷帝コールに包まれた。フェンスで隔てられた俺達に許された言語はこれだけだ。この母校の名前に、全てを乗せて叫ぶことだけ。跡部さんや正レギュラー陣がコートの外を見渡す。俺達はコートの外から、許された短い言葉の中で思いが伝わるように、必死に声を上げる。
迷うことなどない。いつものように、自分の思うまま、俺達の前を歩いていてくれれば良いのだ。

跡部さんは氷帝の中心で、いつもより少しだけ照れたように微笑んでから、右手を高く振り上げた。誰もが待ち望む、王の一声をとどろかせるために。





11蝉が鳴いている。

いつもより空いている電車を降りて、改札を抜けた瞬間、太陽が容赦なく腕を焼いた。
学生の頃の友達と会う用事があるからさっさと家出て、という母さんの笑顔での圧力に、俺と父さんは普段よりも早く家から追い出されることになった。階段を駆け上がらず、歩いて乗り換えをしたが、それでも30分は早い。普段通りでも部員の中では比較的早い部類に入るというのに、この時間では部活が始まるどころか学校の門が開くか開かないかくらいの時間に着いてしまうだろう。冷房が効いていない部室に入るのは御免被りたいのだが、氷帝の制服ではコンビニにも入りにくい。仕方なくできるだけゆっくりと学校に向かって歩いていた俺は、前方に揺れる見知った青み掛かった髪色に、思わず腕時計で時間を確認してしまった。

学校指定の革靴に、特にストラップなどは付けられていない学生鞄。夏服の半袖のシャツから伸びた白い腕は、申し訳程度にラケットバッグに添えられている。伸ばされた髪以外に判断要素はないけれど、忍足さんに間違いない。歩く速度を調節しながらもう一度時計を見る。忍足さんがいつもどれくらいの時間に来ているかは分からないが、少なくとも毎回ここまで早く来るようなタイプではないように思える。自分と同じような理由か、それとも大会に向けて向日さんと打ち合わせでもあるのだろうか。
気はひけるがやはりコンビニにでも入った方が良いな、そう思った瞬間、何の前触れもなく、門の辺りに差し掛かろうとしていた忍足さんは徐にこちらを振り返った。驚きに漏れそうになった声を飲み込み、見開いた目を逸らす前に視線が絡まる。動揺を隠すように軽く会釈をするが、忍足さんは俺に向かってではなく門に向けて日焼けの少ない腕を動かし、こちらを指し示すようなジェスチャーをした。
まだ丁度門が開くくらいの時刻なのに、俺たちの他にも誰か来ているのだろうか。緩めていた足の速度を汗が滲まない程度に早める。守衛室を越えた俺の視界に入ってきたのは、コンクリートの上からひょっこりと出された黒い頭。今度こそ、ああ、と声が出てしまったのは仕方のないことだろう。こんな早くに既に来ているだろう人物が、ひとりだけいる。そして、そのひとりに着いて来ている人間がもうひとりいるはずだ、なんて、考えなくとも分かりそうなものなのに。若干げっそりとした表情で挨拶を呟く俺に、樺地は会釈だけで挨拶を返す。跡部さんはと聞くと、守衛さんと部室の鍵を取りに行っている為、ここに居ないらしい。実際に樺地の手には二つの学生鞄の持ち手が纏めて握られていた。跡部さんが戻ってくるまでは足止めということか、日陰に入って肩から鞄を降ろし、地面に置こうとしている俺に忍足さんの声が掛かる。

「何や自分、随分早いな」
「母に追い出されました。忍足さんはいつもこんなに時間に?」
「んな訳ないやろ、ちょっと用事あってな。樺地、跡部はどれくらいで、……?」

戻ってくるのか、そう続くと思われた忍足さんの言葉は、中途半端なところで音を失った。身体を起こし顔を上げれば、先ほどまで俺から見て右側にある、閉じられた門の前にいたはずの樺地が、俺の前に立っていた。朝日に照らされた巨体は普段よりもいくらか威圧的に思える。樺地はまっすぐにこちらを見下ろして、口を開いた。

「この間は、ごめん、なさい」

この間。何か謝られるようなことがあっただろうか。聞き返そうと声を出す直前で気付く。今の構図と違って樺地が壁を背にしていて今と同じように俺は樺地の前に立っていた。関東で負けた次の部活の時のことだ、直感的な思いつきだったが、恐らく間違いないだろう。尚も謝罪を続けようとする樺地を慌てて止める。

「いや、無神経なことを言ったのは俺だし、俺の方こそごめん」
「……ごめんなさい」

無表情の中に少しだけ沈んだ様子を混ぜて、樺地は制止をものともせずに謝罪を続けた。実際にあのことについてはどちらが悪いという訳でもなく、お互いに混乱した状態で起きたことなので、双方に謝る必要は全くないと俺は思っていた。とはいえ樺地が俺の言葉を聞くとは思えず、助けを求めるように傍らの忍足さんを見るが、先輩は眼鏡の奥の目を軽く眇めるだけで会話に入ってくる様子はない。その仕草にはどことなく演技の上澄みを感じるが、忍足さんの常なので、意図してそう見せているのか本心からの反応なのか、見分けることは不可能だった。結局俺達の謝罪合戦を切り裂いたのは。

「どうした、樺地」

門の向こうからでも蝉の声に掻き消されることなくはっきりと聞こえる、命令に慣れた声。視線を移した先で、跡部さんは片手をポケットに入れた状態で、守衛さんと共にこちらに向かって歩いて来る。途中で、日陰に入っている俺を見つけたのか、まるで計算しつくされたように絶妙な角度で首を傾げ、形の良い眉を跳ね上げた。

「珍しい組み合わせだな」
「せやろ?何でこないな時間におるんかって、二人が話してたとこや」

俺が何か言う前に、忍足さんが先程までの態度を180度翻すような速さで口を開いた。驚きに反応が遅れた俺だけを置いて、樺地も跡部さんへと向き直り、持っていた鞄を門の隙間から手渡していた。その横で、跡部さんと歩いていた守衛さんが一度守衛室へと戻っていき、門を開けるための準備を行っている。門を隔てて続く応酬。

「二人って、お前は会話に参加もせずに何してやがったんだ。後輩との交流も部活動の一部だろうが」
「いやいや無理やって。俺朝弱いねん、出来たら静かにしてたいわ」
「ああ?部活前の方が都合良いって言ったじゃねえか。なあ樺地」
「ウス」
「そりゃ、部活後はもうくたくたで話できる状態じゃないわ。どちらかといえばまだ前の方がって話で……」

日陰からそれらを観察する形になった俺は、三人の会話に静かに目を見張っていた。なんとなく、意外だ、と思ったからだ。跡部さんが誰かと話していることはあっても、こんなにも内容のない話をしているところは見たことがないし、忍足さんの低い声に軽く笑っていることも、その会話に樺地が巻き込まれていることも稀だ。
今までの跡部さんは、暴君のような傍若無人な統治の最中、機械的とも言える正確さで俺たち氷帝生に平等に接していた。誰も文句が言えないような隙のなさで行われる、人数に比例した時間の裂き方。しかし関東大会が終わってから、それまで平等を重視していた跡部さんの関心は明らかに偏りを見せ始めていた。その対象はテニス部自体であったり、跡部さん自身のテニスであったりしたのだけれど、もしかしたらその他にも、もっと根本的で大きな変化が、跡部さんの中であったのかも知れない。後から振り返れば、跡部さんがいる氷帝で、これほどに跡部さんへの不満が部員の口からあふれ出てこなかった日々はなかったと言えるくらいだ。テニス部で高みを目指したいという自身の欲を追い求めようとがむしゃらになっている跡部さんの姿は、為政者としてではない彼の人間的魅力を群衆に抱かせるには十分すぎるほどだった。

堪えきれずに笑い声が漏れるのと同時に、金属の擦れる音を伴って学校の門が開かれた。降ろしていた鞄を掴み、隔てるもののなくなった跡部さんの前へ歩く。忍足さんは跡部さんの横に並び、樺地はその反対側、半歩後ろ辺りに着いた。俺はさすがにそこまで近付こうとは思えず、二人より少し離れたところで立ち止まり、次の行動を伺うように跡部さんの横顔を見つめていたのだが、部室に向かうかと思われた跡部さんは不意に俺を振り返った。

「おい」
「は、はい」

短い声。何かしてしまっただろうか、肩を震わせる俺を見て、忍足さんがそれで伝わる訳ないやろ、と苦笑を浮かべた。

「手、出してみ」

こう、と忍足さんがして見せたのを真似て、手のひらを上にして右手を差し出す。すると、忍足さんの横にいた跡部さんは、手の中で弄んでいたいくつかの鍵のうちの一つを、俺の手の中に落とし入れた。ひやりとしたそれを咄嗟に掴み、確認すると、「準」と書かれたタグが目に入る。

「えっ……、え?」
「細かいことは樺地に聞け。良いな」

どういうことなのか、と目を白黒させているうちに、跡部さんは踵を返し、今度こそ部室へ向けて歩き出してしまった。緩やかにその背中を追う二人に少し遅れて、慌てて後を追いかける。跡部さんからの説明はないけれど、これが準レギュラーの部室の鍵であることは間違いない。だがなぜこれが、俺の掌で熱を奪い続けているのか、俺には全く理解できなかった。夏の日差しが目を眩ませ、コンクリートで反響した蝉の声が木霊する。その中でとにかく足を動かして、気付いたときには、俺は部室の前に立っていた。傍らの樺地が俺の手を覗き込む。手にしていた鍵は吸い込まれるように鍵穴に入り、そして。

それから数日の間、強制された訳でもなく毎朝空いた電車に乗ってくる俺に、跡部さんが無言で鍵を落とし、それを使って一番に準レギュラーの部室に入るのが、俺の日課となっていた。





12 「夏を取り戻したいんだよ」

全国大会行きが決まってから、テニス部の活動は表向きにはそう大きな変化はなかったが、その実パラダイムシフトとも言えるような根本的な変化が起きていた。恐らくそれは宍戸さんの正レギュラー復帰から徐々に始まっていた現象なのだろうと、今となっては思う。
強い人間は試合に出ることができて、試合に出ることができるからこそ確かな練習場所は技術が提供されていて、それにも関わらず結果が出せなかったものは追い出され、下位との圧倒的な人数差の中に平等性を見せ付ける象徴として、「二度と正レギュラーになれない」というレッテルにおいて観衆にさらされる。これが今までの氷帝テニス部のルールだった。それが、再挑戦の権利を主張し、勝ち得たひとりによって、見せ掛けの平等性が崩れはじめ、その後跡部さんの指導体制が変わったことで崩壊は決定的となった。

誰にも邪魔されずにゆっくりとユニフォームを脱いで、外から聞こえる少ないバウンド音に耳を澄ます。跡部さんは全国大会で確実に勝利を重ねるため、現在の正レギュラーの完成度に全ての力を注ぎ込んでいるようだった。今までひとりひとりに定期的に行われていた練習メニューの提示や、跡部さんによる指導は中止され、代わりに朝や放課後の練習が自由に行えるようになった。もちろん、準レギュラー以下の練習が楽になったという訳ではない。より自主性が重んじられるようになった部活で、俺達は正レギュラー陣の練習を、ひいては跡部さんの集中を妨げないように練習メニューを組まなければならず、今まで指定されたメニューだけをこなしていた俺達にとって、それらのことはかなり困難を極めた。

今日は、跡部さんは練習が終わるなり用事があるらしくどこかに行ってしまい、正レギュラーと、多少の部員だけがコートに残っていた。今日も跡部さんから鍵を受け取っていた俺は、最後に準レギュラー部室の鍵を閉めるべく、しばらく鳳のサーブ練習に付き合っていたが、準の先輩達が全員帰ったのを確認して、練習から抜けた。正レギュラー陣の邪魔をしないことが、今の俺達が氷帝に出来る唯一の貢献だからだ。タオルで汗を拭ってから、汗拭きシートで全身を拭き、シャツに着替える。尋常じゃなく汗をかきやすいにも関わらず制汗剤が苦手な俺にとって、誰もいない部室でゆっくりと全身の汗を拭うことが出来る時間はとてもありがたかった。取り出した鞄の代わりにラケットとシューズをロッカーに入れ、窓を閉めて軽くゴミを拾い集めてから、定期入れの間に挟んでおいた鍵を手に部室のドアを閉める。かちり、と軽い音。一度ノブを引いて鍵が閉まっているかどうか確認してから、部室に背を向けて門とは反対の方向へと歩き出す。いつもならこの鍵を跡部さんに手渡して終わりだけれど、今日は跡部さんがいないため、正レギュラーの部室に届けておくようにと言われていた。最後に正レギュラー専用部室を閉めに来る榊先生が回収していくのだろう。部室のドアを軽く叩けば、どーぞー、とくぐもった声が聞こえてきた。

「芥川さんですか?名字です。準の部室の鍵を返しに来たのですが」
「んー、入っていいよ。跡部の机の上おいといて」
「え、でも、正レギュラー以外は立ち入り禁止じゃ……」
「いーって、めんどいし。跡部には俺が受け取ったって言っとくから」

そうは言っても、正専用の部室は監視カメラが完備されているため、確認されれば一発でばれてしまう。もしそうなれば自分はもちろんだが、芥川さんも、ルール違反で跡部さんや監督から叱責を受けることになってしまうだろう。この時期に無駄な労力をお二人に与える訳にはいかないのだけれど。拭いた汗がまた滲んでくるのを感じながらドアの前でしばらく躊躇したが、声の感じからして芥川さんは恐らく部室の中で寝転んでいる状態、ということは何時まで待っていても芥川さんが鍵を受け取りに来てくれることはないだろうという結論に至り、意を決して部室のドアに手を伸ばす。ヒラや準の部室と違いオートで開く正レギュラー専用部室のドアは、俺の手が触れる前にすっと音もなく横にずれ、冷房の空気を外へ漏らした。

はじめて見た正レギュラー専用の部室。正面にあるクラシカルな革張りのソファーには、予想通り、芥川さんがジャージ姿のまま扉に背を向けた体勢で寝転がっていた。床にはシューズがぼろりと転がっている。空調はしっかり効いているが、特有の機械音やにおいはなく、確かに寝るのにはもってこいだな、と少し外れたことを思った。横にあるロッカーは自分達が使っているものよりも広く、ダイヤル式の鍵がついていた。逆サイドにはモニターとホワイトボードがあり、作戦会議に使われているのだろうか、いくつかの磁石が端に並べてある。それらの更に奥、入り口から一番遠い場所に、紙の資料が積み上げられた机。間違いなく、跡部さんの机だ。罪悪感から足音を殺してしまう足で静かに近付いていく。机の上は資料に囲まれた薄いモニターと、台座に装飾が施されたシルバーの一輪挿しに入れられた薄紅のバラ、開きっぱなしの方眼ノートで一杯になっていて、とても鍵を置いておけるスペースはない。
意外だな、と思いながら机の正面に回りこむ。すると歩いている最中にはモニターに遮られて見えなかったが、資料の裏に机のつるりとした灰色の面が見えている箇所があることに気が付いた。ちょうどテニスボールか、マグカップひとつ分くらいはあり、机に向かえば必ず目に入るだろう。ここに置いておくか、と目を落とし、またあることに気付く。隙間の前には、部室の派手さに不釣合いなくらいにシンプルな、木枠で出来た写真立てが置かれていたのだ。

「この写真……」

思わず呟いてしまっていた。ポラロイドで撮られた写真は少し色褪せているが、丁寧にフレームに入れられている。映っているのは男の子、両脇に男の人と老人がひとり。三人とも片手にテニスラケットを持っていて、持っていない方の手を、老人は男の子の肩に置き、男の人と子供は手を繋いでいた。後ろに映っているのは見慣れない風景と、テニスコートの芝だろうか。空は灰色になってしまっているけれど、三人のやわらかい笑みから、心地よい空気が伝わってくるようだった。ここに置いてあるのだから、この男の子は跡部さんなのだろう。しかしあとの二人は。

「あー、跡部のお父さんとおじいちゃんの写真?」

フォトフレームの向こうで、芥川さんが身体を起こす様子が目に入る。先輩はこの写真について知っているのだろうか。視線はそのままに、ソファーの上にあぐらをかくような体勢になった芥川さんに向けて声を飛ばす。

「跡部さんとお父様とお祖父様は、仲が悪かったと聞いたのですが」
「それ、誰から聞いたの?」

瞬間、冷たい空気が背中を撫でた。芥川さんの普段とは違う鋭い目と低い声に突き刺され、硬直する身体。息を飲んだまま固まった俺を見て、芥川さんは誰から聞いたの、ともう一度同じ質問を繰り返した。

誰から、と言われても。指先すら動かせないような寒気に凍りついたまま考える。跡部さんがお父様と引き離されていたこと、他人と触れ合うのが苦手でイギリスにいた際あまり屋敷から出ていなかったこと、お祖父様が亡くなって日本に来られるようになったこと。今や氷帝生徒にとって常識とも言える情報だ。先輩や後輩の噂話から聞いたり、同級生同士の会話の中で出てきたり、先生だって話のネタにすることがあるくらいで、と、そこまで考えて、はたと我に返った。だれから。ぞわりとした震えが足元から上がってくる。答えは「跡部さん以外の人」だ。ようやく呼吸を取り戻した俺を見て、芥川さんは静かに口を開く。

「跡部、おじいちゃんにテニスとか、大事なことたくさん教えて貰ったんだって言ってたよ。それからお父さんにもすごく感謝してる、お父さんとおじいちゃんが跡部のために協力してくれなかったら、今こんなに自由に生きていられなかっただろう、って」





13 あの日の熱を今でも覚えている。

それから数日、俺は同じように跡部さんから朝に鍵を受け取っていた。勝手に部室に入ったことを跡部さんに咎められるかもしれない、と思ったがそんなことはなく、芥川さんは本当に自分が鍵を受け取ったことにしておいてくれているようだった。しかしだからこそ、部室にあった写真のことを本人に直接聞くことも出来ないまま、モラトリアムの一週間は瞬く間に過ぎていった。


全国大会で氷帝は順調に勝ち進み、ついに宿敵、青学と対戦することになった。同じ八月の暑い空気、試合に出る正レギュラーと、歓声以外に力を持たない俺達の間をフェンスが隔て、その向こう側で試合が始まる。勝って負けて、負けて。目の前で、手の届かない場所で行われる激闘を、俺達は見守るしか出来ないのだ。雨に濡れて帰宅することになった俺達に、跡部さんが声を掛けることはなかった。ぐったりとしている向日さんを連れて、忍足さんがバスに乗り込んでいく。日吉の姿はない。いつかと同じ静寂が広がるバスの中、皆が一様に、明日跡部さんがどうにかしてくれる、跡部さんが膝を付くことなんてありえない、と祈るように言い聞かせている気配を感じながら、バスに揺られる。
けれど次の日俺達が見たのは皮肉にも、立ち上がった末に敗北した王の姿だった。

我に返ったときには、俺はコートと外を分けるフェンスを右手で握り締めながら、立ち上がった跡部さんの向こうから飛んできたボールが、壁にぶつかり、跡部さんの足元へ返っていく様子をただぼんやりと見つめていた。無意識のうちに息を止めていたのか、短く息を吸った音が思いのほか鋭く響く。肺が焼けるような感覚に、一瞬で全身から汗が噴出していく。何時の間にこんなにコートの近くに来ていたのだろうか、周りを取り囲む生徒の熱気と中からの熱で溶けてしまいそうだ。これがあの一年生と、跡部さんの熱さなのかと、思わず咳き込みそうになった口を押さえる。持久戦が得意な跡部さんが、タイブレークでわざわざ熱を上げることは普通ありえない、いや、あの関東の試合の時のような。跡部さんの氷のような冷静さに手塚さんが亀裂を入れ、あの越前という一年生が、跡部さんが本来持っている熱さを引き出したのだ。

どろどろと溶けていくような感覚にその場を動けないまま、ゲームセットのコールが遠くに聞こえる。一年レギュラーの元へ駆け寄っていく青学の選手たち、拳を握り締めたまま監督の後ろに佇む正レギュラーの面々。夕日はくべられた薪で燃え続ける火のように赤く、コートで凍りついた跡部さんを照らしている。対照的なそれらを見て、きっとこの差が跡部さんと越前という一年生の勝敗を分けたのだろうな、とぼんやりと思った。
シングルス1以外のオーダーは、氷帝にも、恐らく青学にもいくつかの選択肢があったし、勝ち負けも変わったかも知れないけれど、きっとどちらがどんな選択をしてもシングルス1の跡部さんとあの一年の戦いがあって、どんな選択をしてもきっと跡部さんは彼に勝つことは出来なかっただろう。この王国は跡部さんが作り出したものだ。跡部さんの力で満ちた、氷の王国。最初から絶対的君主であった跡部さんは、その圧倒的な力を惜しみなく俺達に与えることで、氷帝を勝たせてここまで率いて来た。対照的に、越前リョーマは、もちろん最初から強かったのだろうけれど、彼は青学の一員となってからそれまで持っていなかった沢山のことを周りから吸収し、自分が勝つために強くなっていった。跡部さんが自分が勝つことに重点を置き始めたのは、手塚さんに負けた後からだろう。この僅かな差が、跡部さんが得意なはずの極限状態の戦いで勝敗を分けたのだ。跡部さんと越前の力がどんなに拮抗していても、その一点の差故に、きっと、跡部さんは自分が勝つためにもう一度ラケットを振ることが出来なかったのだろう。

命を取り戻した跡部さんは一年生に檄を飛ばすと、駆け寄った正レギュラー陣を率いてベンチまで歩いてくる。髪が短くなった跡部さんを見て、宍戸さんが涙を堪えているのが見えた。周りからもすすり泣く声が聞こえる。ああ、本当に終わってしまったのだ。目をつむり、フェンスのずっと向こう、忌々しい太陽を仰ぐ。額から首、背中を伝って落ちていく汗、歓声。夏が終わる。氷は解け、夏が終わるのだ。





14 FROZENED

大会は終わり、三年生が引退する時期がきた。
夏休みが終わった直後に二年生全体で行った話し合いで、恐らく日吉が部長になるだろうこと、その際にどういった体制でやっていくべきかを検討した。夏休み中に跡部さんから送られてきた簡易の仕事表は、気が遠くなるような膨大さで、跡部さんと同じ形態でやっていくのは到底不可能だというのが二年の統一見解だった。副部長をたてるだけではなく、もっと細かく仕事を割り振っていかなければ部は回らないだろう、ということになった。跡部さんが変えたテニス部のシステムは、跡部さんレベルのキャパシティを持たない人間が管理するにはあまりに複雑だった。

ある部活のない放課後、俺はジャージではなく制服で正レギュラー部室のソファーに座りながら、今までのことを走馬灯のように思い出していた。窓の外では辟易するようなきつい残暑の中、他の運動部が走り込みを行っている。本来ならば大会が終われば三年生は引退となるのだが、新学期が始まってすぐに、正レギュラー陣はU-17合宿に招待されることが決まり、それまでは引退試合や部長交代などは行わずに出来る業務から引継ぎを行っていくことになっていた。何故か会議中とんとん拍子で「使用申請・施錠係」へと仕立て上げられた時には、まさか跡部さんはここまでお見通しだったのかと引きつった笑みを浮かべてしまったが、意外にも引継ぎ作業に困難しているところを見ると、そこまで考えていなかったのかも知れない、と床に置いた鞄を足元に引き寄せながら跡部さんを待つ。跡部さんは王座を奪い取り自分が率いることは得意でも、自分の座を平和的な形で誰かに譲ることにはかなり不慣れであるようだった。

「待たせたな、資料はこれだ。後で紙にして渡すが、特に難しいことはねえからざっと目を通してみろ」

跡部さんは学校指定のシャツから伸びた手でモニターの横にあったタブレットを数回操作してから、こちらに差し出した。どうやら印刷する前の打ち込みのマニュアルのようだ。文字を追う視界の隅で、跡部さんが遠ざかっていく。書かれていたのは、日々の部室の管理、朝や放課後にコートを使用する時の申請方法、合宿や外部練習の係りは別にいるが、この辺りも申請が必要なので協力して行うことになるだろう。申請のために榊先生の判子が必要だからだろうか、榊先生の探し方なる項目もある。そして、タブレットを数回横にスライドさせて資料の最後のページを読んだ俺は、思わず目を見開いた。

『やむを得ない場合、部室の施錠は部長・副部長に委託すること。部室はいじめやさぼりなど不純な行為に使われるケースが多いため、その他の人間には鍵の管理は行わせないよう、徹底するべきである。』

「何か質問はあるか?なければ今日はここまでだ。資料は後でメールしておくし、業務の引継ぎは来週にするから、帰って良い」

机の前に立ち資料のいくつかを学校指定の鞄に詰めている跡部さんが言う。資料はとても分かりやすく纏めてある。質問することなんて。言おうと跡部さんを見た瞬間、夏休みに見た時とは違い片付いている跡部さんの机に置いてある木の枠が目に入った。同時に頭を駆け巡る数々の出来事。聞くなら今じゃないか、手を伸ばし、持っていたタブレットの電源を落として、跡部さん以外の部員が使うモニターの横に戻した。聞いてみたいことは沢山ある。写真のこと、お祖父様のこと、樺地の言っていたこと、部活に姿を見せなかった理由、一年を通して、時折感じた小さな違和感の数々。けれど、何をどう聞けば良いのか、どうすれば失礼なく質問に出来るのかわからない。
跡部さんを見つめたまま黙っている俺を見て、先輩は小さく笑う。

「お前は本当に暑さが苦手だな」
「え」

肩を震わせながら、いや、と舞台役者のように滑らかなジェスチャーで打ち消して、跡部さんは続けた。

「お前のテニスは、俺とはタイプは違うが戦略型だ。試合中に得た情報から、相手がどこに打ちたがるか、どこに打つか、相手がモーションを出す前に感じ取ることが出来る。試合をしていて、『次はこっちに打ってくるな』と思ったことがあるだろ?」
「あ、ります。が、信じて動くほどでは」
「そうだろうな。お前は考えすぎる。そしてその癖が、一歩分の躊躇を生む」

色素の薄い瞳に見据えられ、思わずびくりと身体をこわばらせる。何故急にテニスの話を、と思ったが、跡部さんは俺がテニスのことを聞きたくて躊躇っているのだと思ったのだろうか。それよりも俺が驚いたのは、跡部さんが部員のプレイスタイルをここまで細かく把握していることだ。正レギュラーにはコーチの方が来てくれることが多く、跡部さんは正レギュラー以外の練習の面倒を見ることも多かったため、跡部さんに指導を受けたことはあるし、試合形式の練習を行ったこともある。しかし部員の多さから、それらを行っていたとしても個々のプレイスタイルや癖まで把握することは困難だ。記録係が日々提出している資料から知ることも可能だが、それこそいちいち全員分は覚えていられないだろう。冷房の効いた部屋で頭がショートするくらいにぐるぐると考え始めた俺に向かって、「おい」と跡部さんが鋭い声を投げてきた。今言ったばかりじゃねえか、と軽い溜息。

「もちろん考えるのが悪いと言っている訳じゃねえ。俺はお前のようには出来ないから、目で相手の筋肉を見て試合をしているんだ。推察と考察にどう折り合いをつけるかは、お前自身が探すしかない。……だが、そうだな」

するりと、氷の上を滑るようななめらかな動作で跡部さんは俺から視線を逸らした。鞄を持ち上げ、ついでに何かを手にして、こちら近付いてくる質の良い革靴の音。

「これをやろう。お前が聞きたかった答えのひとつでもある」

ソファーに座っていた俺に跡部さんが差し出したのは、青よりも紫色に近い、一本の薔薇だった。頭にクエスチョンマークだけがいくつも並ぶ。これは、俺が女子だったらかなり嬉しいシチュエーションかも知れないが、今この状況を外から見た人がいたら多分爆笑するか、絶句するかのどちらかだろう。俺だって花を受け取って喜ぶ趣味はない。というかこの薔薇どこから。
ぽかんと口を開けたまま見上げる俺に、跡部さんは緩やかに目を細めて「手を出せ」、と言うと、いつかのように、持っていたそれを俺の手の中に落とし入れた。瞬間、何かに突き刺されるような痛さを感じ、手の中を見る。俺はそこでようやく、これが跡部さんの机にある一輪挿しに入れられていたものだろうということに思い至った。しかし、一輪挿しに入れられていたということは、棘は抜かれているはずなのに、何故痛みを感じたのだろうか。それに。右手に感じた水分が腕を伝い落ちる。それにどうして、この薔薇はこんなにも冷たいのだろうか。


「氷帝を、頼んだぞ」

柔らかい声に顔を上げれば、跡部さんは既にこちらに背を向けていた。今まで幾度も見た背中が、どこか遠い。ああ、跡部さんは高校に行ってしまうのだと今更ながら感じ、無意識のうちに手に力が篭もる。その時だった。

ぼろりと、何かが制服のズボンの上に落ちてくる。はっとして視線を落とした先にあったのは、紙をちぎった後のような形をした紫。なんだこれ、と動かした左手が硬い何かに触れる。手元にあるのは手渡された薔薇のみ。茎ならともかく、花びらは生花でも造花でもそれなりに柔らかいはずだ。確かめようと掴むように薔薇に触れれば、一番外側の花弁がばりばりと砕けたので、ぎょっとして思わず薔薇から両手を離してしまった。重力で地面に叩きつけられる花。床に落ちた衝撃で花びらの半分程が砕け散り、部室の床に広がる。震える手で黒い制服に色を作っている欠片に触ると、冷たくて硬い、同じ感触がした。つまり、さっき感じたのも薔薇の欠片が膝に落ちた衝撃で、いやでも、触っただけで薔薇が砕けるなんて、そんなの聞いたことがない。

「なん、ですか、これ」
「さあ、見たままだ」

意味が分からない。混乱しきった思考で情けない声を出した俺に、跡部さんは優雅に肩を竦めた後、こちらを振り向くことはなく、ただいつものように堂々たる足取りで部室の扉へと歩いていく。もう一度名前を呼ぼうと息を吸った瞬間、また違和感に気付く。空気が冷たいのだ。九月中旬の室内で、吐いた息が白くなる程に。

「あ、とべさ、」

もう気のせいでは済ませられない。は、と短く震える息が跡部さんの背中を白く染めていく。ぼやりとした視界の中で、一年半の出来事が次々と頭を駆け巡る。跡部さんの家が作った部室で、人工物でない薔薇を掴んでいた跡部さんの指が触れる前に、オートの扉は残暑の空気を部室の中に送り込んだ。跡部さん、悴んだ唇は思った通りに動かず、不恰好な音が漏れる。それを聞いてか、扉の前で止まっていた長い足が、一歩、外へと踏み出した。同時に思い出したように、水分が再び右手を伝い落ち、制服のズボンに染み込んだ。心なしか部屋の冷たさも緩和されている気がする。そのまま扉の向こうへと足を進めていく先輩。行ってしまう、焦燥が、身体の機能を急激に取り戻させた。

「跡部さん!」

立ち上がった拍子に、膝の上に乗っていた薔薇の破片が床へと落ちる。頬を撫でる生暖かい風。俺の声に足を止めた跡部さんに何を言えば良いのか、俺は性懲りもなくまた考え込んでしまった。聞いてみたいことは沢山あるのだ。写真のこと、お祖父様のこと、樺地の言っていたこと、部活に姿を見せなかった理由、一年を通して、時折感じた小さな違和感の数々。跡部さんは何が好きなのか、どうしてそんなにテニスが強いのか、何故こんなにも氷帝に貢献するのか、これはどういうことなのか、なんでこんなに不思議で、人に説明しても到底理解できないようなことを、俺がテニス部の後輩だからというたったそれだけの理由で晒してしまえるのか。聞いてみたいことは、本当に沢山ある。けれど。
跡部さんに伝えたいことは、そんなことじゃない。残暑の熱と冷気が混ざった空気を、肺一杯に吸い込む。

「今まで、ありがとうございました」

なんとか身体を折り曲げると、跡部さんは開かれたままの扉の向こうでこちらを振り返り、少しだけ笑った。その笑顔がまた踵を返してしまう前に、足元の鞄を乱暴に掴み上げ、後を追って氷の城を出る。外には相変わらず、俺がとりわけ苦手としている溶けるような暑さを懲りずに押し付けてくる九月の空が広がっていたが、不思議と、いつものような不快感は覚えなかった。






×× 握った鍵の数。

「慣れたものだな」
監督はコーヒーの入ったカップを片手に言った。

「まさか、名字が施錠係になるとは思っていなかった」
「榊監督、俺のこと知ってたんですか?」
「当たり前だろう」

膨大な数の生徒がいる氷帝で、榊先生は中学の半分以上のクラスの音楽を担当している上に、部活の中でもマンモス級の部員を誇るテニス部の顧問なのだ。個性的な生徒のことは覚えていても、俺のような何の変哲もない生徒の顔と名前を覚えているということはないだろう。俺は軽く肩をすくめ、三つの部室の鍵と、トレーニングセンターの鍵、そしてコートを施錠する鍵とを手の中で打ち鳴らしてから、鍵をしまうための棚へと向かった。持ち出した人間の名前が書いてあるノートにチェックをつける。名前はここから知ったのかもしれないな、そう思っていた俺の予想を、榊先生はいとも簡単に捻り潰した。

「前期に弾いていたリストの即興曲も悪くなかったが、後期は同じリストでも、タンホイザーから選んでみるというのはどうだろうか」

ばっと監督の方を振り向くも、白の混じった髪は涼しい顔でコーヒーに口を付けるだけ。
なんて人だ、自然と引きつった笑みが浮かぶ。跡部さんがあまりに強烈だったために霞みがちだが、テニス部の全ては監督のゴーサインがなければ何も進まない。もしかしてこの人は跡部さんよりも余程太い神経を持っているのではないだろうか。タンホイザーの楽譜なんか見たことないんですけど、頭の中で悪態を吐く。譜面を見たことはないが、カリキュラムに無理矢理ねじ込まれているため氷帝生徒はほぼ全員聞いたことがあるだろう。タンホイザー。ワーグナーのオペラだ。そしてカリキュラムに無理矢理オペラ鑑賞をねじ込むなんて芸当が出来る人間は、この氷帝にひとりしかいない。部室の鍵を元あった場所に戻し、蓋を閉じる。気をつけて帰るように、と言った先生の方を見れば、榊先生の仕事もこのテニス部の面倒だけだったのだろう、既に荷物は纏められていて、椅子にはコートが掛けてあった。若干余ってしまっている冬服のジャケットの袖を直してから、飲み終わったカップを片付けようと立ち上がった榊先生に声を掛ける。

「……俺にでも弾ける曲、あります?」

先生は一瞬動きを止めてこちらを振り返った。珍しいことに、少しだけ目が見開かれている。してやったり!と喜んだのもつかの間、続いて薄く笑みを浮かべる音楽教師。これはもしかするとやってしまったかも知れない、テスト前には日吉に頼んで樺地辺りに施錠係を委任して、前期のように鳳に教えを請うしかないな、と頭の隅で考える。けれどそれも悪くないじゃないか、と俺は榊監督に笑みを返したのだった。

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