1 確かその前の夏も、恐ろしく暑かったように思う。

準レギュラー用のコートでボールを拾いつつ、額の汗を拭う。三年の先輩達がストロークの練習を終えた後には一年の準レギュラー同士の試合があるのだが、この分だと自分の試合の前にバテてしまいそうだ。視線の先で二年生に混じって球出しをしている鳳の腕からも俺と同じように汗が滴っている。先輩たちからの言葉に「はい!」とこれまた暑苦しい返事をする彼から目を逸らしてしまったのも、仕方がないことだろう。俺は暑さがとりわけ苦手だった。

背後にある正レギュラー用のコートを覗けば、俺たちとは対照的に、汗一つかいていない部長の姿が目に入った。こちらに背を向けた跡部さんはベンチの横で腕を組んだまま、正レギュラートーナメント戦の最終戦、二年の芥川さんと三年の先輩との試合を見つめている。奥のスコアボードに書いてある数字は5と2、芥川さんの方が優位なのか、と思った拍子、芥川さんのダイビングボレーが決まり、ゲームセット、と低い声が響く。声を上げて飛び跳ねる芥川さんを残してコートから去る先輩を横目に、審判をしていた忍足さんは汗で額に張り付く髪をかきあげて溜息をついた。自分が試合をしているときはまだしも、試合があるわけでもないのに炎天下の太陽に晒される審判をやるのは面倒くさいと思ってしまうのは準でも正でも同じらしい。伝う汗を拭いながら重い足取りで跡部部長の元へ向かう忍足さんを、背後から走ってきた勢いのまま派手に突き飛ばして、汗だくの芥川さんは咄嗟に腕を解いた跡部さんに向かって飛び込んだ。

「跡部!俺マジマジつっえーだろ!」
「ジロー、お前なあ」
「2ゲームも取られておいて、何言ってやがる。詰めが甘いんだよ」

忍足さんの言葉に気付いているのかいないのか、弾んだ声で喜ぶ芥川さんを軽く引き剥がしつつ、跡部さんはベンチにおいてあったタオルを彼の髪に乗せ、それからわしわしと黄色をかき混ぜる。俺の位置から表情はわからないけれど、言葉に反してその動作は柔らかく、普段の部長の雰囲気とは少し違って見えた。跡部はジローと一年には甘いからなあ、忍足さんが呟けば、芥川さんと違い忍足さんの言葉を拾った跡部さんは、試合もしてねえ癖にバテてる奴に掛ける言葉はねえな、といつものように軽く笑う。一年の俺からしてみれば跡部さんの指導は全く甘くはないと思うのだが、同学年であり、跡部さんがテニス部を半ば乗っ取るような形で改革してきた様子を見てきた先輩達から見るとそう見えるのかも知れない。跡部さんはそのまま二人といくつか言葉を交わした後、「記録係にスコアを報告してこい」と言い残して、三年の正レギュラーの先輩達がたまっている方へ向かっていった。

「はー、動いたら眠くなってきた」
「ちゃんとクールダウンしてこないとまた怒られるで」
「でもさ、このタオルひんやりしてて気持ちーし……」
「はあ?っておい、ほんまに寝る気かいな」

跡部さんがいなくなった途端にベンチで寝転がる芥川さんに、天を仰ぐようなリアクションを取る忍足さん。その瞬間眼鏡越しの視線が一瞬俺を捕らえたので、俺は慌ててしゃがみ込み、足元に転がるテニスボールを拾い上げる。また芥川さんに話しかける忍足さんの低音を聞いて、俺はようやく思い出した。この試合がトーナメントの最後ということは、忍足さんの試合は既に終わったということ。試合もしていない癖にバテているという部長の言葉は、忍足さんのことをさしているのではない。芥川さんはわからないが忍足さんは、そして跡部さんは、俺が足を止めて試合を見ていたことに気付いていたのだ。生暖かい風が通り抜けていく。試合もしていないのにバテている、この場で部長から言葉を掛けられなかった奴は、俺だ。ぽたり、顎から汗が伝い、コートに染み込んだ。





2 俺はただ息を潜めていた。

跡部さんが完全に実力によるヒエラルキーを作り出したとはいえ、やはり同じ階層の者たちが集まる場所では年功序列が染み出していた。特に跡部部長や監督の目が届きにくい部室は、時折そういったものが噴出しては部屋の空気を冷たくする。

入部してから3ヶ月経つ前に準レギュラーに入った俺のロッカーは入り口の近くにある。部室にいる人間はほとんどが先輩で、誰かが出入りする度に会釈と共に道を開けなければいけないその場所は、俺にとって練習の最中よりもよほど神経をすり減らせる場所だった。先輩達が減る時間まで自主練をするようになったのは上手くなりたいからというよりも、先輩との接触時間を減らして気まずさを回避したいがためという理由が大きい。自主練で使ったラケットを片手に、日差しを避けるようにタオルで汗を拭きながら、準レギュラー用の部室のドアを開ける。奥のロッカーの前にいる数人の3年生の先輩にお疲れ様でしたと声を掛けて、自分のロッカーの前に立った。先輩達は俺の言葉に反応することもなく、会話を続けている。耳に入る断片的な言葉と笑い声。

「あいつ、向こうじゃ引きこもりだったらしいぜ」
「頭がおかしい」
「バケモノだからな、偉そうに」
「幼稚舎から引っ付いてきてた奴が滅多に喋らないのも、あいつが原因なんだろ」
「脅されてるとか?」
「だからあんな白い腕で」
「どうせすぐ故障すんだろ」

ぱたん、ロッカーを引き開ける手に力が篭る。自分が口を出すことではないことは百も承知だ。部長の同期である二年の先輩も跡部部長を良く思っていない人は多く、こういった話をしている場面に居合わせることもあるが、夏に入ってからというものの、三年の先輩の会話が目立つように思う。特に準レギュラーの三年生にとって今年は最後の夏、中学で公式戦に出る最後のチャンスだ。跡部部長が来る前のテニス部であったなら、全員とはいかなくても、三年準レギュラーのほとんどは試合に出ることが出来ただろう。しかし今となっては大会のオーダーは監督と、跡部部長に掛かっている。跡部さんは部長になった去年も、引退間近の三年生だからといって優遇することはせずにオーダーを組んで、文句があるなら自分の強さを証明してみろ、と先輩達をけしかけたらしい。今年も同じような展開になるだろうことは俺にだって想像が付く。ユニフォームを脱ぐ瞬間、一瞬だけ暗くなった汗っぽい視界の中で、小さく溜息を吐いた。

試合に出られなくなったことで跡部さんを憎く思うことと、あんな風にいわれのない陰口を叩くことは、本来なら結びつけられるべきではないことだと思う。そう思うのなら一度先輩に言えば良い、と日吉辺りなら言うかもしれないが、俺に先輩達を糾弾する勇気などあるはずもなかった。脳裏に、先日感じた忍足さんの冷たい視線が蘇り、打ち消すように買いたてのボディシートで身体を拭う。今日も喋れなくなるほど暑い。だから、これは仕方がないことなんだ。張り詰めた空気を避けるように入り口の近くでそそくさと着替えながら、俺はこれ以上先輩が入ってこないことを祈った。





3 夏は瞬く間に過ぎ去った。

一年の中でとりわけテニスが上手かったのはやはり樺地で、彼はテニス部に入ってすぐに正レギュラーまで上り詰めた。幼稚舎の頃から中等部のテニス部に出入りしていたこともあり、入部当初、コネでレギュラーになるんじゃないかと言っていた先輩もいたが、樺地はそれはもう順当に、公平公正な方法で正レギュラーの座を勝ち取った。実際彼はイギリスでも跡部部長とテニスをしていたらしいし、日本に来てからも共にテニスをする機会が多かったようなので、現在部長とまともに試合を出来る人間がほぼいない氷帝テニス部で樺地が正レギュラーになるのは、至極当たり前のことだった。

俺たちの初めての夏が終わり、先輩達の三分の一ほどが部活から姿を消した。ほぼ全員が高等部に進学する氷帝では、運営は引き継いでも部活に残る三年生が多いのだが、特殊な事態が認められたのか、先輩達は高等部のテニス部で活動をすることになり、氷帝テニス部は、すべて跡部部長の息のかかったもので構成される、閉ざされた氷の王国となった。先輩が減ったことで当然レギュラーの枠が空き、大幅な地位争いが起きた。準レギュラーは半数とは行かないが一年生の占める割合が大きく増加し、今まで一人しかいなかった一年正レギュラーは、鳳を加えた二人となった。

その日、俺は走って中庭を通り抜けようとしていた。ネット張りの当番だったにも関わらず、HRが長引いたのだ。同じクラスのテニス部の連中に先に行くからと声を掛け、担任が教室を出る前に教室を飛び出した。下駄箱ではなく中庭に通じる出口を通り、上履きからテニスシューズに履き替えて走り出す。この行き方では部室には遠くなってしまうが、純粋に準レギュラー用のコートを目指すのならこちらの方が断然早い。

「よし、行……っ!?」

しかし、靴を持って立ちあがろうとしたところで、俺は何かに阻まれて腰を上げることが出来ず、中途半端な姿勢のまま後ろに押し返された。壁に手をついて、転倒を免れるべく足に力を込める。数歩後ずさったところでなんとか体勢を立て直し、前を見ると、俺とぶつかった壁は申し訳なさそうな表情でこちらを見ていた。

「ごめん、……なさい」
「いや俺も……、って樺地、何してんの?」
「跡部さん……が、芥川さん、を」
「芥川さん?」

首をひねった俺の問いに答えたのは樺地ではなく、その後ろから現れた赤い髪だった。

「今日、あいつと俺がコート整備の当番なんだよ。なのにHR終わって教室いったらいねーからさ」

くそくそ!と向日さんが毒づく。恐らく当番なのに芥川さんがいない、ということで、同じ当番の向日さんが探しに行かされ、芥川さんが起きなかった場合強制的に連行するために樺地と共に行動しているのだろう。口数が少ない樺地は代わりに説明してくれる向日さんに任せることにしたのか、俺の前からいなくなり、大きな身体をゆらゆらと揺らして中庭の木やベンチの裏を覗き込んでいる。秋に差し掛かってきたこともあり、木々は青々としているというよりも、少しくすんだ色で包まれていた。一応ここに来るまでに芥川さんを見かけていない旨を伝えると、向日さんはそっか、と溜息をつき、旧校舎の方にはいかないはずなんだけどなあ、と呟いた。

「去年はどうしてたんですか?」
「あー、そういや去年は跡部が直接探しに行ってたな。侑士も正レギュだったけどあいつはなんつーか、センスがねえんだ」

からかうような口調に気だるげに校内をうろつく忍足さんを想像して、少し笑ってしまう。忍足さんと芥川さんは比較的仲が良いように思えるが、それは恐らく忍足さんがトリッキーなもの、自分の理解の範囲外にあるものを好むタイプだからであって、分かり合っているという訳ではないようだ。

「今年からは樺地が入ったからって押し付けやがって、たまには自分で探しに行けっての。なあ樺地」
「……此処には、いないようです」

跡部さんを真似た向日さんの問いかけに、樺地はいつものような短い返事ではなく、ゆっくりとした言葉で応える。そこはウスじゃねえのかよ、と唇を尖らせる向日さんに気付いているのかいないのか、樺地は黒めがちな瞳で俺を見ながら続けた。

「もう準レギュラーの……方たち、も、集まってた」
「うわっ……すみません、失礼します!」

少し不機嫌そうな表情の向日さんに頭を下げて、秋に差し掛かった中庭を駆け抜ける。このままでは先輩にどやされてしまうかもしれない。そのことばかり考えていた俺の背中を樺地の視線が追っていたことなど、俺には知る由もなかった。





4 王のいないコートはいつもより騒がしかった。

秋の終わりが見えてきた頃、跡部部長はジュニア選抜の合宿に参加するため、一週間ほど学校を休んだ。ジュニア選抜強化合宿に招集された中学生は跡部部長を含めて四人ほどしかいないらしく、そのことは俺たちに跡部部長の強さを再確認させると同時に、今の氷帝には王の隣に立つことの出来る人間がいないのだという事実をも痛感させた。

部長がいないからといって、部活がないという訳ではない。むしろ部活がなくなるのだったら跡部さんは選抜合宿に参加しなかっただろう。一年も共に過ごしていない俺でもわかる。跡部部長はそういう人だ。

しかし、跡部さんは俺たちの予想の範囲内に収まるような人ではなかった。部活が終わる時間になると、普段は部活動自体に顔を出すことの少ない榊先生がコートに現れ、跡部部長からの伝言だと言って口を開いた。跡部部長が帰って来るまで、部活後に普段よりも長くコートが使えること、そして自主練の面倒を見てくれる臨時コーチが10人ほどいるので各自活用するように、以上。榊先生が校舎に戻っていくのと同時に数人の大人がコートに入ってくる。普段の部活は生徒会から出る予算と部員からの部費を合わせた額で回さなければならず、遠征や合宿が多く、備品の消耗も激しいテニス部では、準レギュラー以下のためのコーチを雇うことは出来ない、と前に榊先生が言っていた。つまりこのコーチの方々は跡部部長のポケットマネーで雇われていて、コートは跡部さんが部活とは関係なしに学校から借りて、部活とは関係なしに俺たちに貸したという扱いになっているのだろう。

「利用しない手はないな」

隣で話を聞いていた日吉が呟いた。新人戦のあとに準レギュラーに上がってきた日吉は、俺たちの代でもとりわけ向上心が強い。新人戦個人での試合をお互い楽しみにしていたのだが、あと一勝すれば、というところで双方負けてしまい、対戦は叶わなかった。今は新しいプレイスタイルを開拓している最中で、三年の先輩がいなくなってからは、俺は日吉の付き合いで部活後の自主練をすることが多くなっていた。休日や部活のない日は家の道場の方が忙しい彼にとって、部活後の練習時間を増やせるというのはかなりの朗報のようだ。散っていく先輩や同期の間を縫ってコートに戻る日吉の足取りは軽い。

「でもさすが跡部さんだなあ、テニス部のためにお金を使うなんて」

俺よりも骨の細い背中を追いかけながら茶色い後頭部へと掛けた言葉に、日吉は普段良くやるように息だけで笑った。

「どうだか。コーチ代は知らないが、学校に入る金はどうせあの人の家に返るんだろう」
「返る?」

足を止めることなく、日吉が軽く体をこちらに向ける。適当に切りそろえられた長い前髪の間から覗く眉が顰められ、それからひとり合点したようにああ、と呟いた。視界の端で誰かがコーチに話しかけ、もう一人がその横でトスを上げている。手から離れるテニスボール、青いコート、取り囲むフェンスと遮るネット。それらを背にして、日吉は続けた。

「お前、後入組だから知らないのか。今のうちの学校の備品のほとんどは、跡部さんが中等部に入学するときの寄付金で、跡部グループの各会社が新しく作ったものだ。門も廊下も机椅子も、チョークからあのテニスボールに至るまで、俺たちの手に触れるもの全てな」





5 凍り付く。

小学校の頃から経験してきたことだが、春のクラス替えは何度やっても慣れない。特に俺たちのような「後入組」、中等部から入学した生徒にとって、クラス替えは死活問題だ。「幼稚舎組」と俺たちでは知り合いの数が違うし、何より持っている情報量が圧倒的に違う。俺たちがプリントでようやく知る年間行事の詳細だって彼らにとってはとっくに分かりきっていることで、それどころか中等部に入る前から教師同士の関係性やテストの傾向だって知っている奴もいる。クラスの幼稚舎組とどう上手くやっていくか、それは後入組の生徒にとって、学生生活を左右する死活問題だ。

少し肌寒い四月は、運動をするのにはちょうど良い。ゴールデンウィークを過ぎるまでの仮入部期間、ヒラの三年の先輩達は新入生の指導を行い、経験のある新入生は、コートで試合形式の練習を行っていた。準レギュラー用のトレーニングルームの中、与えられたメニューをこなすべく、バタフライマシンのパッドを押しながら、去年の自分を思い返す。テニス経験のあった自分は今ちょうど一年生が表でやっているようにコートで打たせて貰っていたが、まさかその間、コートを占拠された準レギュラーが室内に押し込められることになっていたとは、思いもしなかった。
「集合時間十分前です。記録用紙を提出してください」
記録係の同期がボードを手に入り口の前に立ったのを見て、俺はマシンの横に置いていたタオルを取り、液晶に表示された番号と回数を個人用の記録用紙に書き写す。今日のノルマはなんとか達成出来たようだ。額の汗を拭いながら、入り口に向かっていく先輩の波に続いて紙を提出し、シューズを履き替える。外に広がるのは空調の効いたトレーニングルームよりも少しだけ湿っぽい四月の空気。外も暑くないというのは素晴らしいことだな、と深呼吸をしてから、既に整列している新入生の後ろに並んだ。

備品の片付けは残った者がやること、放課後の自主練は準レギュラーのみ可、明日は通常通り朝練あり。跡部部長の声が春の空に響く。解散、と言う声にお疲れ様でした、と返せば、今日の部活は終わりだ。新入生が部室に戻って行く姿を見てこれでようやく自分の練習が出来る、と溜息をついた。出来たらコートで少し打ちたい、いやしかし。手にしたタオルで口元を覆う。今日は一日トレーニングだったからラケットは部室だ。取りに行っている間にコートが取られている可能性を考えると、自主錬の時間を無駄にするよりは、コートは諦めて潔くトレーニングルームに戻り、バタフライ以外の器具を確保した方が良いような気もする。もちろん、ボールを打ちたいという気持ちも充分にあるのだけれど。

「跡部!」

背後から聞こえてきた声が、悩む俺の思考を止めた。集合した場所のまま、三年の先輩と何かを話していた跡部さんが顔を上げる。その口が「萩之介か」と動いたのを見て、俺は声の持ち主が滝さんであることに気が付いた。跡部さんと別れて部室へ向かう先輩のために道を開けるように身体を開き、そのまま跡部さんの視線を辿って後ろを見る。目が合った滝さんに頭を下げると、彼は穏やかに会釈を返した後、跡部さんに向かって手にしていたボードを軽く掲げた。

「今日試合してた一年のデータ、下校までに入力済ませたいから、チェックして貰えないかな」

どうやらあれは経験者の新入生のデータのようだ。滝さんは正レギュラーながら、氷帝では珍しく他人の世話や雑務が得意な人で、跡部さんの圧倒的影響力ゆえに導入できなくなったマネージャーの代わりにデータの管理やドリンクの調達などを任されていることが多い。また、後輩と話すの好きなんだ、と俺たちが一年だった頃にも言っていたので、新入生が使っているコートにいるのも苦ではなかったのだろう。いつもより軽い足取りで俺の前を横切っていく。

「今年は経験者が多いようだが」
「ああ、幼稚舎組は特にね。跡部の影響なんじゃない?」

その言葉に小さく笑う部長。去年より入部希望者も多くて、とにこやかに続ける滝さんの話を聞いている跡部部長の表情はいつものように不遜で、けれど嬉しそうな、どこか照れたような雰囲気さえ感じる笑みで、思わず二人の様子を凝視してしまう、その直後の出来事だった。

滝さんがさし出したボードを受け取ろうと、跡部さんは手にしていたラケットを左手にもちかえ、右手を伸ばす。しかし、ふと左手に渡ったラケットを見た瞬間、今まで穏やかだった跡部部長の表情が凍りついた。
一瞬の、あまりに大きな変化にまったく反応出来ずにいた俺は、そのまま跡部さんのことを無遠慮に見つめてしまった。跡部部長は伸ばしかけていた手を下ろし、ラケットのある左手を右手で押さえながら半歩、後ろに距離を取る。ボードの紙をめくりながら成績の良かった一年の名前を上げている滝さんはその異常な動作に気が付かない。さらりと揺れる髪の向こうでグリップを睨みつけている目は、先ほどまで談笑していた人のものとは思えないほど、冷たい光を帯びていた。

一体何が起きたんだ。滝さんの言動に、跡部さんの気に障ることがあったとは思えない。背後の喧騒もいつも通りだ。まさか腕に何か不調でもあるのだろうか。確かにラケットを握った拍子に左手に痛みが走った故の行動だとしたら、おかしな反応ではない。しかしあの視線と表情は、痛みに耐えているというより、何かを必死に押さえつけているかのような。跡部?と、様子に気付いた滝さんが声を掛ける。呼びかけに応じようと顔を上げた跡部さんの瞳が滝さんを、続いて俺を捕らえ、それからはっとしたように見開かれた。表情にも色が戻る。

「先に部室に行っていてくれ。すぐに行く」

滝さんは跡部さんの様子に少し返答を迷ったような様子を見せたが、跡部さんが理由を説明することはないと思ったのかそのまま正レギュラー用の部室へと歩いていく。跡部さんは小さく息を吐くと、もう一度ラケットを握り直し、俺や滝さんを一瞥することもなくコートの方へと歩いていってしまった。





6 触れたところから。

氷帝は多くの施設が充実しているが、取り分け音楽系のサポートは、普通科の学校だとは思えないほど充実しているように思う。しかしそれを持て余してしまわないのは、ここに来る生徒のほぼ全員が楽器を扱えるからだろう。比較的裕福な家から来ている人間が多いため、女子だけではなく男子も、七割以上は少なくともピアノは弾けるはずだし、弾けない残りの三割で最も多いのはバイオリン、次いでヴィオラを弾ける人間だ。テニス部にはあまりそういったイメージのない先輩もいるが、あの向日さんはお姉さんの影響でエレクトーンの腕前は確からしいし、宍戸さんは声楽ではとても綺麗に歌うんだ、と別に聞いてもいないのに鳳が言っていた。

ピアノに向かう鳳の指は絶え間なく動き回り、音を紡ぎだす。音楽実技中間テストまでの間、学校の楽器を使ってテストを受ける生徒には順番で、練習の時間が与えられる。第三音楽室に向かっていた俺の腕を掴み、聞いてアドバイスをくれ、と鳳が言ってきた時は正直嫌味かと思った。本人に悪気がないから余計に。しかし一回聞けばあとは俺の指導をしてくれると言うから、俺はすぐさま未だブレザーを着込んでいる鳳の横を通り抜けて第一音楽室の扉を開けた。ここまでレベルが違えば教えを乞うことに恥ずかしさなどない。
普段の鳳からは想像もつかないようなダイナミックで抑揚のついた曲、最後の和音を目一杯伸ばして、鳳は鍵盤から指を離す。ふう、とどちらともなく漏れる溜め息。楽器のために整えられた空調は少しだけ暑いらしく、弾き終えた鳳はジャケットを脱ぎ、譜めくり用の椅子に掛けた。この学校にはピアノを弾ける人間は数多くいるため、俺なんかでは「ピアノを弾ける」と口にすることすら躊躇われる。氷帝でいう「ピアノが弾ける人」というのは、鳳のような人間のことを指すのだ。

「どうだった?」
「どうっていわれても、凄かったとしか」

音楽留学したような奴に、俺のレベルで口を出せることなどないのだが。鳳は照れたように笑う。

「じゃあ、中盤の、転調したところは?」

ピアノに立て掛けられた楽譜を手渡される。学校指定のシャツから伸びた鳳の手が軽く鍵盤を叩き、眼下にある楽譜と同じ音を流した。

「楽譜通りだな」
「やっぱり?俺的にはちょっとゆっくり弾いたつもりだったんだけど」

些か投げやりな俺の回答にも神妙な表情を浮かべる鳳。そうなのか、もう一度楽譜に目を落とす。ゆっくり弾いた、と言われても、俺は右上に書いてある数字を見るだけではテンポを想像することが出来ないので、良くわからない。

「このピアノすごく弾きやすいから、ちょっと走り気味なのかも」

ぽろ、また鳳が鍵盤を叩いた。このピアノがなんとかっていう高いピアノだということは聞いたことがあるけれど、俺にわかるのはうちにあるピアノよりもでかい、という程度のことだけだ。楽譜から顔を上げて、黒光りする楽器を見つめる。ピアノの端のプレート、年号と、彼の人の名字。先日の出来事が頭に思い浮かぶ。あの日、自主錬後に会った滝さんに跡部さんのことを聞いたところ、「宍戸と喧嘩して虫の居所が悪かっただけみたいだから気にしなくて良いよ」、と言っていたが、実際のところどうだったのだろうか。

「ピアノも跡部さんが入学するときに寄付したやつなんだろ?やっぱ高い奴の方が弾きやすいとかあんの?」
「高いから弾きやすいって訳じゃ……」

苦笑しつつ差し出された鳳の手に楽譜を返す。早々に夏服へ着替えた俺の腕から楽譜を受け取り、律儀に鍵盤の蓋を閉じた彼に促されるまま、俺は指導者用の椅子から腰を上げてピアノに向かった。

「特にこれは跡部さんがイギリスで使っていたのと同じ品番で、急に日本に輸入することになったから、音楽家の中ではちょっと話題になってたみたいだよ」
「急に?」
枚数の少ない楽譜を置き、蓋を開けようとしていた手を止めて、鳳を見上げる。

「跡部さんの帰国って、前々から決まってたことじゃなかったのか?」

俺の言葉に、かなり高い位置にある目を丸くして、鳳はうん、と頷いた。ひやり、直前まで鳳が弾いていた楽器からは、底冷えするような冷気が伝う。

「跡部さんのお父様は家族で日本に住むことを希望されていたんだけど、跡部さんは厳格なお祖父様に詰められていたお稽古で忙しくて、とても日本語の勉強なんかしている暇はなかったらしいんだ。でも2年前、お祖父様が急に亡くなられて、それで氷帝に来られるようになったんだって」





7 夏が始まった。

氷帝テニス部員にとって、氷帝コールは義務ではなく権利だ。今の氷帝では、テニス部の練習試合や大会は学校行事のようなものであり、部員以外の多くの生徒もその勇姿を一目見ようと、あるいは皆の流れについていくために、もしくはただ便乗して騒ごうと、コートを取り囲む。そんな中、フェンスに一番近いところで応援をする権利を持つテニス部員は、氷帝の中心である跡部さんに最も近い群衆となることが出来る。前方のフェンス越しに見える跡部部長やその他の選手が闊歩する姿と、後方に感じる他の生徒からの羨望を帯びた視線の間で生まれる、陶酔、崇拝、優越感。跡部さんのことをどう思っているかなんて関係ない、閉ざされたコミュニティの中で絶対的な存在感と影響力、権力のある跡部さんを追随する「その他大勢」であるからこそ感じられる喜び。故に、跡部さんに一番近い場所で彼を応援できることは、氷帝学園の生徒であるテニス部員にとって、義務ではなく権利なのだ。

響き渡る氷帝コールをBGMに、木の陰でその幹に寄り掛かりながら、睨むように空を見上げる。氷帝コールは義務ではないから、逆に言えば、部員であっても最前線であるフェンス近くから抜けることも容易だった。首に掛けたタオルで顎を拭う。多くの生徒が集まり声を上げるおかげで、まだ五月だというのに、氷帝が試合するコートの周りはまるで炎天下のような熱気だった。試合自体は出来たら見ていたいのだが、暑さには耐えられそうにない。何とかここから中の様子は見えないかと、幹に後頭部を押し付けて、コートの方を見つめる。

「おい、大丈夫か?」
「!?」

見事に女子生徒の後姿しか見えないなと思っていたところで、コートの逆側から掛けられた声に振り返ると、そこにはラケットを片手に、俺と同じようにタオルを首に掛けた宍戸さんが立っていた。少し乱れた長い髪に今日のオーダーを思い出し、慌てて佇まいを直す。いくら抜けても平気だとはいえ、これから試合をする先輩から見れば俺のような態度は気持ちの良いものではないだろう。宍戸さんはそんな俺を、良いって、と軽く笑い飛ばした。

「今日の相手は雑魚だし、俺の試合でストレートだろ」

ウォームアップを終えたばかりらしい先輩はそう言って笑う。その姿はとても頼もしくて、素直に同意を示した。宍戸さんは正レギュラー入りは遅かったものの、今最も勢いのある先輩だ。今日の相手は控えめに言っても強敵ではないし、宍戸さんが出れば試合時間も短くなってしまうに違いない。宍戸さんは熱狂する女子生徒たちを鬱陶しそうに見つめたあと、右手の中でラケットを回しながら呟く。

「お前もベンチに入れるようになれば、こんな暑い思いしなくて済むのにな」

呆れを含ませながらそう言った宍戸さんに、新人戦でベンチに入ったことはあるが、別段涼しかった印象はないような、と思っていると、先輩は俺が訝しんでいると思ったのか、軽く目を逸らしながらかみ締めるように続けた。

「跡部の野郎がいると違うんだよ。コートの外が暑い分、ベンチはすっげえ寒いんだ」

瞬間、わあ、と歓声が大きくなる。氷帝、氷帝、と叫ぶ生徒たちの声。ダブルス2もうちの学校が勝ったようだ。同時に、前方から三年の準レギュラーの先輩がラケットを振りながら走ってくる姿が目に入る。恐らく、宍戸さんのアップに付き合っていた先輩だったのだろう、宍戸さんは俺の目線の先にいる先輩に気付くと、やべえ!と言って、コートの方へ駆け出していってしまった。





8 掲げられた手に違和感を覚えたのは俺だけだろうか。

結果から言えば、氷帝学園は関東大会で敗退した。

帰りのバスの中は、しんとした空気で満たされている。正レギュラーが乗るバスに続き、準レギュラーの二、三年の乗るバスが動き出した。このバスですらこんなに居心地が悪いのに、正レギュラー用のバスの中がどうなっているのかなんて、想像したくもない。

日吉が泣いているところを見たのは、この時が初めてだった。補欠同士の試合が終わったあと、審判の声に促されるまま監督のいるベンチに戻ってきた日吉は、コートへ降りてきた先輩達から声を掛けられる前にらしくないくらい小さな声ですみません、と言うと同時に、顔を覆って崩れ落ちた。コートの一番近くで試合を見下ろしていた俺たちはただ呆然と眺めていることしか出来ず、跡部部長によって氷帝コールを促されるまで、誰も、一言も言葉を発することができなかったのだ。

窓枠に肘をついて、じとりと汗ばむ手に顎を乗せる。何もしていないのに疲れたな、と素直に思った。同じ年の仲間が泣いている姿は思いの外精神的にダメージを与えた。俺より余程日吉と付き合いが長いはずの、鳳を始めとした幼稚舎組の二年が受けた動揺は、俺とは比べ物にならないだろう。それだけではない。故障した腕を押さえる樺地の姿も、圧倒されて地に伏した先輩たちの姿も、衝撃的なものだった。けれど、跡部部長と手塚さんの試合だけは、驚きではなく、なんとなくしっくりこない、という言い知れぬ違和感を俺に抱かせた。

あの光景の、一体なにに違和感を覚えているのだろうか。こみ上げる違和感を消化することができないもどかしさ。跡部部長が全力で相手に立ち向かうようなテニスをすることは、珍しいことであるとはいえ、見たことがない訳ではない。昨年の大会で苦戦している姿を見たことはあるし、現在の中学テニスの勢力図から見ても、手塚さんと跡部部長が試合をすれば、どちらが勝ってもおかしくはない試合になるということは予想の範囲内だ。流れていく景色を眺めながら、頭の中では壊れたレコーダーが延々と跡部部長の試合を再生していく。長い持久戦やタイブレークまでもつれ込む流れも、相手を追い込んだギリギリの状況を好む跡部部長の試合には、良く見られる展開だった。流石に部員に対して相手の故障を誘発するようなプレイをすることはないが、故障がつきものであるテニスにおいて、それをカバーする義務があるのは故障を抱えている側であり、相手の弱点を知った上で攻めることは戦略として普通に行われることである。相手の弱点を見抜き攻めて、切迫した状況で相手と対峙する。跡部さんのテニスは普段と同じように、見ているだけで背筋が凍るような冷たさだった。

やはり自分の気のせいなのだろうか。ただ、あんなに息の上がった跡部部長を見ることは少ないから、見慣れなさから違和感を覚えているだけなのだろうか。途切れ途切れに再生されていた記憶の中の試合が、最後の風景へと差し掛かる。凍りついた手塚さんの腕、転がるボール、割れるような歓声、立ち尽くしていた二人がゆっくりとネット際に歩いていく、交わされた握手の後、高く掲げられる、二本の腕。肩を上下させたまま、観衆に取り囲まれる二人の男。

そうだ。ぐわりと、思考が熱を持つ。

跡部さんが、あんな風に長時間誰かに触れているところを、見たことがないんじゃないか。

ショートしたようにぐるぐると回り続ける頭が、氷帝での一年半の記憶を手当たり次第に引き出していく。卒業した先輩達の言葉、初めて跡部部長に受けた指導、談笑している正レギュラーの面々、組まれた両手、試合前の短い握手。無作為に思い起こした記憶の中の跡部さんは確かに、隣にいる樺地にすらまともに触れていない。いやしかし、そんなことは不可能だ。バスの冷房を受けながら、背中に汗が伝って行く。俺はテニス部での跡部さんしか知らないが、部活でだってテニスの指導があり、試合があり、準レギュラーと正レギュラーで行く合宿だってあった。日々の授業や、生徒会の活動だってある。その間、数瞬以上誰にも触れないで一年半、もしかしたらそれ以上を過ごすなんて、そんなことが、本当に?

バスが校門を越えて、静かに停車する。荷物を纏めて降車すると、既に正レギュラーが整列していた。後に続いて適当に並び、後続のバスを待つ。良く見ると前方で一言もなく整列しているのは跡部部長以外の三年生正レギュラーだけのようで、鳳と日吉、樺地は跡部さんと共にまだバスの中にいるようだった。今回の敗北に、日吉や樺地は責任を感じているのだろう。ヒラの部員が乗ったバスが停車し、部員達が全員降車し終わっても、三人は出てこない。無理もない、と思いながらも、三人は跡部部長が誰かに触れているところを見たことがあるのだろうか、正レギュラー入りが早かった鳳や、共にいる時間の長い樺地は、俺と同じような違和感を抱いているのだろうか、カーテンの閉められたバスの窓を見ながら考え込んでいるうちに、俄かに周囲がざわついた。鈍い音と共に正レギュラー用バスのドアが開く。ラケットバックを持たずに降りてきたのは、跡部部長だった。ぞくりと肌が粟立つ。

何か聞きたい、何か言いたい、いやそうでなくても、跡部さんかから何か言葉があるのではないかと、俺を含む誰もが思っていたに違いないのだが、バスから降りてきた跡部部長は明日朝練がない旨を告げただけで、すぐに樺地を引き連れて迎えの車に乗り込んで行ってしまった。



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