扉の中に男の姿を認めた瞬間、天使とまで評される程美しい相貌の歪みを感じていながらも、少年は表情の形成を抑えることが出来なかった。

おかえりなさい、と発せられた声は、プリプレップの友人の別荘で見たヒナゲシのように控えめな温かさに聞こえて、跡部は一瞬腕にこびりついた血液の赤を隠すのを忘れてしまいそうになったが、彼は何とか腕を身体の陰に入れ努めて明るく、ただいま帰りました、と鈴を鳴らすことに成功した。
声を受け取った青年はその挙動に気付いているのかいないのか、ただにこりと笑みを返しただけで手にしていた本を膝に置き、身内用のセーブルをソーサーから引き上げる。その隙に、少年は部屋の奥にいる執事と視線だけで会話をして、パーラーを通り抜けた。細められる黒い瞳、追いかけるように残ったアールグレイの香り。

数々の絵画に見つめられた厚い絨毯を踏みしめながら跡部は、自分のミスだ、と血の香る唇を噛み締める。
当時まだ幼かった跡部少年には、青年は先代が年老いてから作った庶子であり、娘に引き継がれる財の全てを手に入れんと目論む跡部の父との仲は触れれば裂けてしまうほどに凍り付いていたが、実母を亡くし先代の財産から零れ出た資金で生活しているが故、家に顔を出さざるを得ない状況にある、などということに考えが及ぶべくもないが、しかし今朝執事に客人が来ると言われた際、いつものように夕食を共にするのだろうと高をくくっていたことが、このような失敗を引き起こしたのだ、と彼は認識した。

部屋に入り、靴を履き替えて、ベッドの脇に置いてあった服に袖を通す。普段は執事が受け取る服を椅子の上に並べ、代わりにチェストの前にある濡れたタオルで唇の端を拭う。きつく絞られたアビスがあらかじめ用意されていたことは釈然としないが、これがなければ執事は目配せをしたところで部屋までついてきただろうと思うと、自分の行動がある程度予測されてしまっていることも受け入れるしかない。少年は長いパイルに吸い込ませそうになった溜息をぐっと堪え、身を整えていく。


ブラウスのボタンを上まできっちりと締めた跡部が客間に戻ると、客人は先ほどと変わらぬ様子で手元の本に目を落としていた。ティーポットを持った執事の目から、特に変わったことはなかったことを読み取った少年は、部屋の入り口で丁寧に腰を折る。

「申し訳ございませんでした、おもてなしもせず」

彼はまだ年若かったが、父母がいない屋敷では自分が主となることを良く知っていた。言葉を選び丁寧に紡がれた発音は、年に似合わず固い印象を与える。顔を上げた青年は黒い瞳をゆるく細め、向いに置かれた椅子に座るように跡部を促した。
すかさずテーブルに置かれるもう一セットのセーブル、やわらかな皮に沈む少年の身体。

「私の方こそ、慣れない英国で迷ってはいけないと早い飛行機に乗ったのですが、思ったよりも道が空いておりまして」

退室した執事の背中を見送った青年は、跡部が聞き取れるように努めて爽々と、しかし晦渋なまでの丁寧さを持って続ける。

「日本語の勉強をなさったのですね。以前に伺った際は苦手だと仰っていたように思うのですが」
「最近、日本の友人が出来たので、日本語の勉強を増やしているのです。まだお聞き苦しい点も多いかと思いますが、ご容赦ください」
「いえいえ、とてもお上手で」

青年の言葉に、跡部は言葉の少ない友人を思う。学校や他の習い事で知り合いは多くいるものの真に心を許せる友人がほとんどいない跡部にとって、彼はまさに四葉のクローバーだったのだが、青年に対して友人が父や家のこととは関係のない、本当に大切に思っている友人であることを正確に伝える言葉を探すのはとても困難なことであるようだった。
ぱたり、閉じられた青年の本が、テーブルの端に寄せられる。
ぼんやりとした言葉の海の中、空と泥を思わせる二色がアール・ヌーボーの朱と緑で結ばれた装丁が、オケージョナルの濃い天板の中に入る様を見つめていた少年は、青年の次の言葉で、ぽんとはじかれるように顔を上げることになった。


「テニスでは、少々やんちゃをなさっているようですが」


思わず見開かれた青、ツイスト脚の向こうで無意識に交差された腕を、青年は見逃さない。

「旦那様や奥様が心配なさるのではないですか?」

やはり隠し通せなかったか、と跡部は咄嗟に左のカフリンクスに触れてしまった細い指を握り込む。
今日は近くのアッパースクールに通う大柄な男がラケットで乱暴に風を切っていて、テニスではなんとか勝ったものの、その後結果が気に食わなかったのか、ベンチに戻ろうとした瞬間に突き飛ばされ、咄嗟に受身を取った左前腕を強く擦ってしまった。今日は食事で何が出ても、跡部がローズカラースタッドを外すことは許されない。名誉のない負傷を家族であっても他人に見せるようなことは、跡部には生を受けた瞬間から許されていなかった。

青年は表情を変えずに、アールグレイの香りの向こうにいる跡部を見つめ続ける。彼にも少々意地の悪いことを言った自覚はあったが、当人の預かり知らぬ所で数年のうちに渡日することが決められているハイブレッドに、聞いておかなければと、心に決めていたことがあった。

少しだけ伏せられた瞳の色の薄さに、青年は自分に残されなかった父親の面影を見る。同じだけ異国の血を流しているはずの肌のなんと違うことか。覆う睫毛の震えすら溜息が出るほどに美しい。
それすら、彼の意志とは関係ない誰かによって美しいと定められたもので、跡部の意思からは完全に切り離された場所で生ずるものだ、青年は外側に遊ぶ跡部のフラスクンブロンドを視線で追いながら思った。跡部が生まれながらに持つその暴力的なまでの幸福は、青年の知っているかさついた寒さとは、全く異質なものに思えた。とはいえ青年も自分を不幸だと感じてはいなかったし、跡部が不幸であるかどうかはまだ跡部の手のうちでは決められないだろうことも、理解しているつもりだった。

青年の考えを他所に、開かれた窓から入り込む西日に照らされたローテーブルの端で、少年は地面から見上げた男達の表情を思い起こしていた。殴り返したいと感じたことがないか、と聞かれれば間違いなく跡部は首を横に振るだろうし、コートに行く道で引き返そうと考えないのかと聞かれれば口を紡ぐしかない。けれど行くのを止めろと言われれば、きっと次の日もラケットを握って、練習をしに行くだろうと、少年は思った。それは他の誰のためでもなく、自分のためだ。
いつかあの場所で一番強くなる日のために、強くなって、あのコートを変えるために。

握り込んでいた手を開き、かさぶたに覆われた膝の上に置く。隠しておけなくなったことはその瞬間説明しなければならなかったこと、説明すべきことに変わる。大人に囲まれて育った少年はそう考えていた。跡部は背筋を伸ばして、目の前の男と対峙する。

「試合以外の方法で対戦相手に傷をつけるのは、卑劣なやり方だ。暴力で反撃しても、尻尾を巻いて逃げても、あいつらと同じになってしまう。だから練習して試合をして、テニスで、一番強くならなくちゃならない」

跡部の舌に馴染んだ言葉が自らの敗北を包み隠す響きを帯びていなかったことに、青年は一瞬驚きを見せる。強く、と紡いだ少年の瞳に揺らぎはない。この時、他人にまで発揮されるものだとはまだ誰も知らなかったが、跡部の強さは、もっと強くなれると信じ切ることが出来ることだと青年は初めて認識したのだった。

きっと彼ほど聡明な子供であれば、自らの体に傷をつけることなくコミュニティで生き抜くことなど容易だろう。人間が数人集まればどこでだって、道を開けるしかない者たちと、真ん中を歩く者の世界になる。そして、跡部は今その間に留まっている状態、足を止めれば前者になり、身体を引き裂きながら進めば、いつかは後者に至る。跡部はまだ無意識にではあるが、頭の奥では分かっているようであった。

自然と伸びていく自分の背中がソファーの皮と擦れる音をどこか遠くで聞きながら、淡く白いゲストルームの壁に浮かび上がる少年からの強すぎる直球に、年長者は生活の中で身に付けた柔らかな笑みで応対する。

「しかし、貴方が強くなり、頂点に立ったからと言って、彼等はまた同じことを繰り返すだけかも知れませんよ。貴方の目の届かない所で、また貴方が生まれているかも知れない」
「俺に向かってくれば良い」

再びの瞠目。跡部はアールグレイがまだ少し湯気を上げていた時の、視線を揺らす沈黙を忘れ、青年の言葉に悠然と自分の答えを突きつけた。

「頂点から俺を引き摺り降ろさんと、皆が頂点を見ていれば、弱い者を虐げることに意味はなくなるはずだ。勝った奴も負けた奴も不当に虐げられることなく、あるのは圧倒的強者である頂点へ向けた羨望と、敵意だけ」

少年はまるで先ほどまでの青年をそのまま真似るように、目を細め、頬を持ち上げ、口角を上げ、少しだけ首を傾けて。プリメイドドールの相貌に笑みを形作った。ひとつひとつ、少年の洞察力に優れた瞳が捉えた特徴を丁寧に順序良く再現した笑みは、元となった青年のものとは全く違う性質を帯びている。それは大人と呼ばれる種族が用いる霧の魔法でも、母が纏う暖かな空気でもない。叩きつけられる答えに、青年は黒い瞳を細めて幼い笑みを見つめ返した。
正しく、為政者が玉座で世を語るが如く。


「そういう風に、俺が世界を変えてやる」


たっぷりとした間を持って、青年は未だ完全には耳に馴染まない異国の言葉を咀嚼した。
跡部は自分の強さと美しさを、秩序のために利用しようと言うのだ。そして神風によらない彼自身の力で、秩序を変えて見せようと。青年は英国の癖の強い紅茶に慣れていない自分のために用意されたカップを持ち上げて、咀嚼した言葉とともに丁寧に飲み干した。

現在、青年の異母姉弟である跡部の母の血筋が日本に持っている別宅は、青年が母の死後譲り受けた屋敷のみである。跡部の会社が所有するマンションもあるはずが、長くカントリーハウスで暮らした義姉の肌には合わないだろう。必然、青年の住む屋敷で一家が暮らせるように、子供には見えない何らかの力が働くことだろう。それに抵抗する気持ちは、青年は存外持ち合わせていなかった。

むしろ、青年が先代から連絡を受けてわざわざ渡英してきたのは、黒い髪と黒い瞳を持っている青年ですら、父親がおらず少々目鼻立ちが良いというだけで後ろ指を刺されながら青春を送ってきたのに、異国の色が濃い跡部少年では、もっと様々な目線が投げつけられることになるに違いないという危惧からであった。青年は、まだ数回しか会ったことのない甥が、自分の手の届かない範囲で決められたことにより、深い傷を負いながら青春を過ごしてしまうかもしれないということを、誰よりも案じていた。

普通の人が朝から晩に至って身心を労する問題は皆喜劇である。
青年は声に出さず、傍らに寄せた鮮やかな書に手を置いた。やはり長らく会っていない自分などが余計な気を回し、思い悩む必要などなかったのだと、黒髪は悟った。子供はどこでも傷つきながら、けれど大人が目を逸らしてしまいたくなるほど急激に、成長してしまうものなのだ。

満開を過ぎたヒナゲシは、肩を軽く震わせて小さく笑う。向かいの少年も先ほどまでの青年の笑みと違うことを悟ったのか、肩の力を抜いてソファーに凭れ掛る。大げさなことを言ってしまったとは思っていたが、大層なことを言ったつもりはなかった。ただ普段悶々と考えていたことをこうして言葉にすると、どれほど自分の呼吸を助けるか、彼は始めて自覚した。とにかく、今は強くなろう。そして自分が一番強いと言えるほどになった暁にはすぐに、俺が一番だと宣言してしまおう。跡部が言うと、人間離れした少年にも存外気の短いところがあるのだと、青年はおかしそうに笑った。そして、青年も初めて自分の言葉で跡部と対峙する。

二人はまるで普通の子供同士がいたずらを企み合うかのように、約束と笑みを交し合ったのだった。


「なら、その理想が奇跡じゃないってことを、君の手で証明して貰わないとな」


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