今年も、跡部の夏は終わったらしい。

八月も中盤に差し掛かった頃、例年通り母さんに連れられて、俺は跡部邸を訪れていた。俺の母さんと跡部のお母様は学生時代にかなり懇意にしていた先輩後輩らしく、会合やパーティーを含めれば月に一回は顔を合わせている程だった。跡部がイギリスにいた頃なんかは、観光も兼ねて一週間程跡部邸に宿泊させてもらったくらいで、跡部のお母様は母さんの後輩だから断れないだけで本当は迷惑しているのではないか、と俺はひそかに思っている。真相はまだ分からないが、跡部が日本に来ることになった際、母さん達が通っていた幼稚園以降大学まで外部生が入ってくることのない閉鎖的な女子校とは違い、富裕層が集まる学校の中でも比較的オープンな氷帝に入れるように働きかけたのは跡部のお母様だという話だから、あながち間違いでもないだろう。かくいう俺は、母さんたちの行っていた学校の男子校バージョン、と呼ばれる学校に通っている。

「でも、全国大会まで行ったんでしょう?悪くない結果だと思うけど」

母さんと跡部のお母様が話し込んでいる隙をついて、俺と跡部は広間を抜け出した。客室でポロシャツとジャージに着替える俺へ投げかけられる、扉越しの声。

「俺達の目標は優勝だ」

淡々としているけれど、はっきりとした声だった。自分の荷物から1つのテニスボールを取り出し、客室を後にする。すでに動きやすい格好に着替えた跡部は、二本のラケットを持ちながら壁に背中を預けていた。俺がボールを持っていることを確認して、跡部が歩き出す。

「二年のレギュラーはかなり育ってきたし、一年も、樺地以外にも良い奴らがいるんだ。この一年で、氷帝はもっと強くなる。来年はお前にも優勝旗を見せてやるさ」

二本のラケットが彼の手のなかでくるりと回る。俺よりも小さい跡部の背中は、敗北の後でもぴんと伸びていた。そう、と呟いて、彼の後を追う。跡部には来年がある。けれど来年の後は、どうなるかわからない。父さんの話によると、跡部のお父様の会社が日本で行っている大きな事業は、来年には大枠が出来上がるらしい。来年がある、来年で終わりが来るかも知れない。跡部は自分のやりたいように好き勝手やっていると氷帝の生徒は思っているのかも知れないが、本当は跡部の思い通りになることなんか他の生徒よりもずっとずっと少ない。
こうやってナイター用のコートに出てトレーニングすることだって、明日には禁止されてしまうかも知れない。俺たちはまだ子供だから、そうされてしまえば、どうすることも出来ないのだ。

軽く身体を動かしてから、ラケットを受け取り、古いボールを跡部に渡す。
全神経を傾けたトレーニングではなく、趣味の一環としてなら、まだ許されるのではないだろうか。向かいのコートで佇む跡部が、ラケットを構えた。そうなった瞬間、跡部はとてつもなく多くのものを失うだろうけれど。



跡部とテニスをするのが好きだった。
とはいっても、テニスだと思っているのは俺だけで、跡部からしてみれば歩くよりも練習にならない、つまらない作業だったに違いないのだが、嫌な顔一つせずにコートに立ってくれる彼の寛大さに、俺はしばしば甘えていた。

「もう少しラケットの面を伏せるイメージで打て。お前はパワーがないからな、インパクトの瞬間に面が上を向く。だから上がるだけで飛距離が出ないんだ」

彼のいた場所より遙か前、俺から見て右側に大きく逸れた球を文句も言わずに拾いながら、跡部は言った。んー、と適当に返事をして数回ラケットを振る。

他の人と比べてどうなのかはわからないけれど、少なくとも俺に取って跡部は極めて論理的に、眼で見て頭で考えてテニスをする選手だった。素人同然の俺に、どうすれば上手くなるのか、どうしてそうなってしまうのかを最初から懇切丁寧に教えてくれる。きっと部活で後輩や同期に指導するときもそうなのだろう。正直俺はスポーツに対しては完全な感覚派で、彼のやり方でどんなに丁寧に説明された所で全くわからないのだが、前にそう言ったときに跡部がひそりと溢した、そういう奴に教えるにはどうすれば良いのか俺にはまだわからない、という言葉があまりにも寂しげだったので、それからはわからなくても取りあえず頷いて、彼の言葉を参考に自力で掴むことにしている。
多分跡部の周り、部活の仲間にもそういう奴がいて、跡部はその人に対して適切な指導が出来ない自分を責めているのだろう。氷帝での跡部の統治は、一見派手で強引なように見えて、その実彼の地道な努力によって保たれている。

「次、行くぞ」
「おー」

けれどここは氷帝ではない。跡部は俺を強くする必要もないし、俺だってテニスは好きだが、上手くなる必要はない。だから俺はわからなくても頷くし、跡部も俺が分かっていないのを分かっている。それでも俺に言葉を掛けるのは、跡部の元来持つ面倒見の良さが言わずにはいさせないからだろう。
俺がラケットを構えたのを見て跡部はボールを放った。試合で良く見る上からのサーブではなく、下から打ち出された硬式球がナイター用のコートで跳ねて、動かなくても腕を振れば打ち返せる位置に飛んでくる。よし、とラケットを握り直して、そのボールを見つめた。
脇を締め、少し面を伏せるように、力は、そういえばパワーがないとは言われたけれど、力を込めろとは言われてないっけ。
がこん、振り抜いたラケットの真ん中にボールが当たり、反動でラケットが押し返される。ラケットが持っていかれないように右手に力を込めている間に、ボールは跡部のコートへと返っていた。慌てて目で追うと、コートの真ん中より少し前で、跳ねようとしているボールが目に入る。
かなり浅いがそれでも、上手く入った!
ふわりと高揚する身体とこころをそのままに、目線を上げて跡部を見る。既に走り出していた跡部はちらりとボールを見てから、「上出来だ!」と、なんだか俺よりもずっと嬉しそうな表情で、声を上げるのだ。

恐ろしく単純な話だが、俺はこの瞬間が、この上なく好きだった。跡部が腕を振り抜き、打たれたボールがこちらに返ってくる。今度は一歩ほど動かなくてはならない距離、もちろんフォアハンド側。今まで何度も、こうして跡部から来た球に向かったことはあるが、彼から、打ち返せない球を受けた事はない。もう一度脇を締めて、今度は反動で押されないようにしっかりとグリップを握る。
けれど一度上手くいって気が抜けたのか、ラケットに当たったボールは、高く上がったあと、彼のコートではなく俺のコートの中でバウンドしてしまった。そう上手くはいかないか、重いラケットを引き摺ってボールを拾いにいく。いつの間にかネットのすぐ側まで来ていた跡部の青い瞳がボールを追っていた。

「感覚が残っている内にもう一球いくぞ」

しかしその瞳が俺に移れば、青は普段の鋭さではなく美しい柔らかさを持って、笑みを形作る。ただ彼と一緒に、俺だけがテニスをするのが好きだ。彼の打ったボールを必ず打ち返すことができて、また彼も、物理的に不可能でない限り絶対にボールを返してくれる。
俺は跡部とテニスをすることが出来ない。敵を射る強い視線、えげつないショット、期待、失望、返されない為の冷たい打球を、俺は知らない。その為の努力も、傷も、誇りも。けれど借りもののラケットと昔貰ったひとつのボールでの応酬でしか分からないこともあると、俺は信じている。テニス選手ではない跡部景吾を、コートの上で見たことのある人間がどれだけいるだろう。倒そうという敵意でも引き上げようという意志でもない、ふわりとした柔らかさだけを一杯に詰め込んだボールを打ち返したことのある人間は。
緊迫した熱さも息を飲むような気迫もない、ゲームですらないこの戯れなら、永遠に続けることが出来るのだ。

「はいよー」

俺が持っている使い古されたボールを投げて渡す。跡部からしてみればつまらない作業だったに違いない、すべてを失ったあとを暗示させるような「テニス」であっても、ああして快活に笑って見せてくれる彼の寛大さが俺はこの上なく好きで、同時に、きっと来年も再来年も同じように、彼と共にするテニスではなく、独りよがりな永遠に付き合わせることでしか彼との繋がりを保てない自分の弱さが、どうしようもなく、大嫌いだった。


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