来賓との写真撮影やら花束の贈呈やらが終わり、景吾が完全に自由になったのは、一般の三年生が粗方帰宅してから更に30分ほど経った後だった。高校は卒業式の後にパーティーがあると聞いたことがあるけれど、大学までのエスカレーターが整備されているこの中学では、様々な理由で内部生が言う所の「ドロップアウト」を選んだ生徒か、最高峰の大学を目指してここよりも学力レベルの高い高校を受験した生徒以外、9割以上の生徒が同じ高校に進学するので、そのような催し物は開かれない。もし開かれるとしたら景吾が主催するに決まっているので、こんな時間まで雑務にかまっているはずもないのだけれど。
制服に付いた花を抜いて、ぽろぽろと帰って行く級友たちを見送りながら、僕は「卒業おめでとう」と書かれた黒板をぼうっと眺めていた。高等部に行って変わることなんて、校舎と、制服のネクタイの色と、外部組を抜いて後入組を含めた理系文系でのクラス編成くらいじゃないのか。
そうだったら、どんなに嬉しいだろう。

ガラ、と控えめな音を伴って景吾が教室に現れる。卒業証書と花束が入っているはずの鞄は誰かに持って帰らせたらしく、手ぶらの彼は卒業式後だとは思えない、まるでまだ今までの中学生生活が続いているのではないかという錯覚を抱かせる出で立ちだった。彼は残っていた僕を見つけると目を細め、行くぞ、とだけ告げて教室の中に足を踏み入れることなく踵を返す。翻るブレザーの裾が僕の幻想をやさしく諭していた。
広く逞しい背中を追いかけて、教室を出る。いつもより静かな校舎に響くまだ残っている女子のグループの笑い声。

「景吾、今日もかっこよかったね」
廊下を行く男に投げかける。
「1年の時のこと思い出しちゃったよ」

鞄を肩に掛けながら言うと、景吾は颯爽と闊歩する長い足の勢いを緩めた。僕の話に興味を持ってくれたらしい。それはつまり、今まで興味がない話にもきちんと耳を傾けていてくれていたということでもある。足を早めて、一歩後ろあたりにまで近づく。近寄り難い、そう表現してしまうのは簡単だけれど、それは周りの誰かが勝手に言い出したことであって、彼自身は近づいて来られるのが嫌いという訳ではないのだ。僕が声の届く範囲まで来たことを確認して、景吾は口を開く。

「初めて会った時のことか」
「もしかして、覚えてるの?」
「俺様が忘れるとでも?」

ふん、と笑う姿が初めて会った時の彼の姿と重なる。

検診に引っかかったことで遅れてしまった幼稚舎からの進学手続きに向かう途中、母の後ろでぼうっと歩いていた僕、ふと目をやったグラウンドは数人の大人が立ち話をしている。しかし、誰も口を開いていない。不思議に思って覗き込んで見ると、固い表情の大人たちの中心に誰かがいるようだった。僕と同じくらいか、少し高い程度の頭が、大人に囲まれながらも全く臆することなくむしろ堂々と指示を飛ばしている。色素の薄い髪、動く口元顔は、良く見えない。彼が一言二言何かを告げると、大人たちは神妙な顔でうなずき、それぞれどこかに去っていく。その時だった。さっと視界が開け、中心にいた薄い色が僕の方を見る。止まる足、遠ざかる母の背中、軽く笑い飛ばすような子供の笑顔、視界の端を彩る桜の色、春のにおい。ぱちりと視線がかち合った瞬間の衝撃を、僕は生涯忘れることはないだろう。まるでひとりでに輝いているような煌めく青に、僕は圧倒されてしまったのだ。

その数週間後、僕たちは入学式、壇上の施政者と観衆として再会を果たすのだけれど、僕にとってはあの衝撃的なスピーチよりも、ただ目があっただけの春の日の方が、強烈な印象で残っている。

「教室で景吾が声を掛けてくれた時、すっごくびっくりしたよ。覚えてたなんて知らなかったから。」

そう言っても彼は、あの顔は傑作だったな、と小さく笑うだけだった。

話しながら校舎を出て、自由になった景吾が進む先は、やはり見慣れたテニスコートだった。僕が始めて聞いた、僕だけに向けられた景吾の言葉も、マネージャーをやる気はないか、というテニス部に関することだったのだから。入学してすぐに行われたテニス部の革命により、テニス部では女子マネージャーを安全に管理することが難しくなった。お前の身体が強くないのは知っているが、まだ部活が決まっていないなら、テニス部に入ってくれないか。今思えば、あの日僕を見たことを、覚えていたからこその言葉だったのだろう。彼はその手に持っている、常人なら持て余してしまうだろうものの全てを、なりふり構わずテニスに結びつけてしまうことが出来る。
コートの横まで来ても、やはり景吾はコートに足を踏み入れることはなかった。誰もいないテニスコートに、景吾が王として君臨する姿が目に浮かぶ。みんなで走り回り、一緒に戦い、時にはぶつかり競い合い、挫折に這い蹲りながらも、少しずつ強くなっていった日々。多くの仲間ができた。同じくらい多くの仲間が去っていった。かけがえのない舞台。

けれど、そのすべてはもう、僕の瞼の裏にしかない。僕たちのあの輝かしい日々は終わってしまったのだ。
けしてコートに立ち入らない景吾の姿を横目で見る。

高校に行ったら、テニス部に入らない部員もいるだろう。後入組で新たにテニス部に入る人もいる。コートも変わるし、先生も、大会も変わる。氷帝学園中等部のテニス部は、失われてしまう。それが、とてつもなく恐ろしい。
コートを見下ろす僕の視線に含まれた躊躇に気付いたのだろうか、景吾はため息をついて、大きな手を僕の頭に乗せた。手入れの行き届いた手は、その実血まめや小さな傷跡で溢れていて、綺麗な手とは言えないけれど、だからこそ美しい。この美しささえ、もうすぐ失われてしまうのだろうか。いまだ顔を上げることが出来ない僕に、景吾は仕方ないな、と笑う。筋肉の付いた身体が後ろを振り向く気配。

つられるようにして顔を上げたその先では、宍戸、岳人がそれぞれ忍足と鳳を引き連れ、その前をジローを背負った樺地が歩いていた。少し後ろで、なんだかんだと文句を言っている日吉と、笑いながらなだめている萩。ジャージではなく制服に身を包んで、コート内ではなく観客席の入口を歩くかつての仲間。

「あとべ遅いよ!卒業式終わったらテニスしてくれるって言ってたじゃんかー!」
「そうだぞ!日吉たち引き止めるの大変だったんだからな!」

ジローと岳人が声を張り上げると、景吾はわかってるよと言い、動けない僕を置いて歩き出した。同時にみんなも景吾に近づいていく。まず二人が彼を囲んで、更に四人が追い付く、忍足と萩が困ったような笑みを浮かべ、樺地が景吾の行く先を促すように道を開ける。
そして、全員の視線が集まったのを確認してから、あの時と同じように、景吾は振り返って僕を見た。動かない足、遠い背中、彼を囲む高い頭と低い頭の間で交わされる笑み、遠くに見える桜の色、春のにおい。いつか見た光景がフラッシュバックし、消えていく。似ている、けれど何かが、決定的に違う。


「名前」
あの頃よりも低くなった声が僕の名前を紡ぐと、みんなの視線も自然と僕に移った。一点に集まる集中、笑み。それはまるで、いままでコートのなかで、仲間だった頃に交わされたものが、まだ生きているかのような。
コートにも教室にも立ち入らなかった彼の足が、仲間の真ん中にしっかりとそびえたっている。
「行くぞ」
ああ、それだけで、あの青の輝きはこんなにも違うのか!


地面に縫い付けられていた足が、引き寄せられるように青に向かう。そうだ、環境は確かに変わるけれど、僕たちに仲間がいることには変わりない。変化を恐れる僕を軽蔑することなく、手を引いてくれる仲間たち。彼らが互いに笑みを交わしあういまこの瞬間だって、はじめて会ったあの春の日では考えられなかったことだ。なら、なにを恐れることがある。この青の元で、いままでと違う、けれどきっと素晴らしい何かが待っていると、もう一度信じてみようじゃないか。
再びの春の日。巡る季節の中で、僕たちは一歩ずつ大人になっていく。


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