ホイッスルが、だだっぴろい体育館に鳴り響いた。誰もが目を見開き、高さを失った巨人を、あるいは駆け抜けた黒を、あるいは勢いを失いながら、無意味に跳ねるボールを凝視していた。

一瞬の沈黙のあと、わっと上がる歓声の中で、息を荒げたむらさきは徐々に表情を失い、室さんはゆっくりと目を伏せる。ベンチに駆け寄る相手チームの選手と、立ち尽くす先輩たち。見知った顔が今までとは比べ物にならないほど緩慢な動作でコートの真ん中に集まって行く。その様子を見て、おれはようやく気が付いた。陽泉は、むらさきは負けたのだと。
認識した瞬間、ぞわりと、冷たいものが背筋を通り過ぎていく。全方向から押し寄せる、巨大な歓声のうねり。ありがとうございました、という声が遠くから、けれどぼわぼわと歪に膨張しておれを襲う。その中で段々と自分の呼吸音が大きくなってくるかと思うと、ついには吐いた息を吸うことが出来なくなり、天井からぐっと頭を押さえつけられているような圧迫感を覚えた。思わず激しく咳き込んだことで喉が焼け、その渇きを押し上げるように何かがこみ上げてくる。心臓の音と呼吸音と歓声で頭が割れそうだ。隣の家族が何かを言っているが、なにも聞こえない。

「あ、あ」

覚えがある。この感覚は。

思考が追いつくよりも先に限界が来たのか、おれは考えるよりも先に席を立ち上がっていた。眼下のコートから目を逸らし、前後左右から押し寄せる拍手と歓声のうねりを避け、長い階段を駆ける。更に息が上がり両手で口を押さえつけていないと、自分の呼吸音にすら食い殺されそうだった。
階段を上りきったところの通路に溢れている小さな子供、その手を引く親、スーツを着た背中、見覚えのある制服と学生鞄。出口は、と立ち止まって考える間もなく、本能的に人の流れている方向へと走り抜けた。天井がおれを押し潰そうと追いかけてくる。人ごみで思うように前に進めず、このままでは、焦る程に心臓の音がうるさい。すべてを強引に掻き分けて、体育館の出口に向かってひたすらに足を動かす。

許されないだろう速さで駆け抜けること数分、なんとかあの恐ろしい空間から逃れることのできたおれは、入り口から少し脇に入ったところの植え込みのレンガに腰かけることでようやく呼吸を取り戻した。息を吸い込めば、冬の冷たい空気が肺を満たす。こみ上げるような気持ち悪さが少しずつ引いていく。練習でもしたことがないくらいの全力疾走のおかげで笑っている膝、外に出てもまだ止まらない汗。遠くからざわめきや何か揉めているような声が聞こえるが、眼前の体育館を見ても、もう先程までのような圧迫感はない。
はあ、と息をつき身体の力を抜くと、視界の端で、肩に引っ掛けていたバッグがずるりと地面に落ちた。限界だ、と思っていたけれど、どこかで冷静な自分もいたのだろうか。

やっぱり、おれには無理だったんだ。汗がタイルの上に染みを作る。むらさきのような、圧倒的な強さを持っているやつさえ、簡単に押し潰してしまえる程おそろしい場所に足を踏み入れるなんて、もうおれには不可能なことだったのだ。崩れ落ちたむらさきの姿、意識を持っていかれる一瞬前に見えた表情がぼんやりと浮かび上がり、いつかの自分の姿と重なった。手からすり抜ける勝利、地面に叩き付けようと迫ってくる天井、意識を失う前の、割れるような人々の声。思い出さないようにしていた恐怖で震えそうになる身体を、息を長く吐くことで押さえつける。むらさきすら押し潰してしまう恐ろしい空間で、どうして戦っていられるのだろう。あの中で、立つことすらままならないじゃないか。


そうしてだらしなくうなだれたまま、どれくらいの間荒くなった息を整えていただろうか、不意に頭上から、大丈夫かい、と聞き覚えのある声がして、おれは重い頭を動かして目線を上げた。

「室、さん?」
「名前くん」

室さんは陽泉のジャージを着たまま、何故か傷の付いた顔でおれを見下ろしている。少し視線を動かすと、室さんの彼女だろうか、金髪の女の人が不思議そうにこちらを見ていた。年上の人に対して失礼にあたると思い、立ち上がって挨拶をしようとしたけれど、室さんに制される。その間に、女の人は室さんに何かを言われて、体育館の入り口へと歩いて行った。もう一度座り直すおれの足を見て細められる切れ長の瞳。

「見に来てくれたんだ、ありがとう。みっともないところを見せてごめんね」
「謝らないでください!」

急に声を荒げたことで、また咳き込んでしまった。少し慌てた室さんがおれの丸い背中をさすってくれる。その手の大きさと暖かさに、何故だか涙が溢れてしまいそうだった。

「謝らないでください、おれは、おれ……」

良いんだよ、室さんが小さく笑った気配がして、ぎゅっと拳を握り締めた。

おれはむらさきの強さに惹かれていたけれど、それはつまり、室さんのことを心のどこかで馬鹿にしていたのと同じことなのだ。おれにとってむらさきは勝利そのものだった。むらさきの横にいることで、力を享受出来ればそれで良かった。あの暴力的なまでの強さがあれば、押し寄せるプレッシャーに押し潰されることも、いわれのない言葉に傷つくこともない。まして、負けることなんか、絶対に。そんな存在に立ち向かうなんて、考えられないどころか、なんて無茶で、愚かなことをしているのだろうと、蔑んでいたに違いないのだ。そしてきっと室さんは、おれよりもずっと、そのことを知っていた。

むらさきの横にいるだけで、強くなれるはずがない。立ち向かわなければ、追いかけなければ、いつかおこぼれの勝利すら享受出来なくなるに決まっているのに。

「アツシに、会っていくかい?」

耳元で室さんの優しい声が聞こえる。試合をしている時とは、まるで別人だ。おれを上から抱き締める形になったことで頬を掠めていく黒髪。至近距離の黒は、誰もがイメージするような爽やかな男の人の香りではなく、制汗材の強引なにおいがした。冷たい空気と共に慣れ親しんだにおいを吸い込んで、ああ、とため息が漏れた。試合をしている時とは、じゃない。においも、声も、柔らかく細められる瞳も。この試合を終えるまでの室さんと、今の室さんが、まったくの別人なのだ。そしてそれはきっと。

「今は、会えません」

何とか発した声は、先程の室さんの声とは比べ物にもならないような、みっともなく震えていて、小さく掠れた、酷い声だった。けれど、至近距離にいた室さんには何とか届いたようで、彼はおれの背中を摩っていた手を離し、中途半端に曲げていた腰を伸ばす。それに習い、震える膝に手を付いて立ち上がる。まだ足に力が入らず、腰を上げた瞬間に後ろに倒れこみそうになったが、支えようと動いた室さんの手を制し、足を開いてなんとか踏みとどまる。いまここで立ち上がらなければ、一生立ち上がれなくなってしまう。一生地面に這い蹲ったままになってしまう。一生、むらさきに会えなくなってしまう。そんな予感がした。自分の力で立ち上がり、背筋を伸ばして室さんを見る。心配と安堵が入り混じった片目がおれを見つめていた。

息を深く吸う。冷たく乾いた空気が、頭の中まで落ち着けてくれるような気がした。それからゆっくりと、室さんの顔が見えなくなるまで、頭を下げて。

「むらさきのこと、よろしくお願いします」

むらさきが好きだと言ってくれるおれに、別れを告げる時が来た。


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