太陽が光を播きはじめる前にベッドを出て、伸びとあくびをひとつずつ。服の上から土色のエプロンを付けて、発酵させた生地を練り、オーブンに突っ込んでいく。膨らんでいく小麦粉をゆっくり観察している暇なんかなくて、焼き上がる前に次のタネにきのみを混ぜ込み、寝る前に作ったカレーにもう一度火を入れる。朝が早くて辛い仕事だと思われがちだが、スムーズに作業が進んだ時のこの気持ち良さは、朝日を背景にしないと味わえないと、俺は思う。
普段ならこの後菓子パンの生地ではなく、四角いパンを焼いているのだが、今日はそうもいかない。一昨日からこの辺りで修行している女の子も、昨日の昼すぎにここを訪れた快活な少年も、夜になる前にやってきた髪の長い少女も、やまおとこに抱えられてきた小さな男の子も、まだこの小さな町、あのポケモンセンターの中で寝息を立てているに違いないからだ。もうじき目を覚ます彼らの小さな口に入るものを、まず作らなくてはならない。
ポケモンジムのある町と町に挟まれたこの村は、そういった少年少女たちがたくさん訪れるのだ。

もういくつかのあまいパンを熱しはじめたところで、隣の部屋が少しだけ騒がしくなってきた。手を洗ってエプロンを外し、出来上がったばかりのパンをいくつか大皿に乗せる。ドアの向こうで吐き出される大きなあくびたちに、毎日のことなのになあと、明るいため息をひとつ。

「おはようみんな。ほら、ゴウカザルはハガネールのボール持ってきて。デンチュラ、いつまでそうしてるの、朝だよ。エルフーンも、トドゼルカの上からどきなさい」

それから。

「おいで、トゲキッス」

部屋の隅で丸くなっている白い塊に声を掛ける。近付いてそっと覗き込むと、俺の胸辺りの高さにある頭がゆらゆらと動いて眠気を訴えていた。別段朝に弱い訳ではないはずなのだが、この暮らしになってから、トゲキッスはずいぶんとゆったりとした性格になったと思う。先に起きたポケモン達は部屋を出て行き、店の前にテーブルを出し、小さなパラソルを立て、パンを運び出す。頼んだことはないのだが、いつからか自然にやってくれるようになった。その音をBGMに、俺は彼に笑いかける。

「トゲ、はやくおいで」

そう俺が呼び掛け、ようやく彼が目を覚ますところまでが、俺の朝の始まりだ。



いまはこうして町に腰を落ち着けている俺も、昔は彼らを連れて、少年少女たちの中のひとりとしていろいろな町を飛び回っていた。洞窟に乗り込んだり、名前も知らないポケモンにボールを投げつけてみたり、手当たり次第にトレーナーに食って掛かったり、ジムバッジを集めてみたり。「ポケモンマスター」という夢だけを抱えて、長い旅に出ていた。
その仲間のなかでも、一番付き合いが長いのがトゲキッスだ。まだ両親が生きていたころ、二人がくれた小さなタマゴを必死に暖め、一晩中話し掛けて、彼が出てくるのを待っていた頃を思い出す。旅に出てから、タマゴを孵す為には普通つれて歩くものだと知ったけれど、当時の俺はタマゴを持ち歩くどころか家から一歩も出さずに、大切にしていた。
そうして長い時間をかけて生まれたトゲピーを抱えて。俺ははじめて、この村の外へでたのだった。



「すげー!こいつらみんなお兄さんのポケモンなの!?」

朝日がしっかり顔を見せた頃、どたどたと騒がしい足音とともにそんな叫び声が投げ掛けられた。いらっしゃい、そう言って店のシャッターを開けながら横目に少年を見る。年は11、2くらいだろうか。パチリスを引き連れている彼は大きなポケモンが珍しいのか、思い思いのやりかたでパンをほうばる彼らに近付き、目を輝かせていた。ハガネールを見上げる瞳といったら、まるで「男の子」を体現しているかのような煌めきである。
こちらに来る様子のない少年の為にカレーパンとメロンパンをトレイに乗せて、パラソルの下にある丸テーブルに置く。かたんという軽い音に気付いた少年はそのまま、朝日と同じ勢いでこちらに駆け寄ってきた。

「ねえ!」

「ああ、みんな俺の仲間だよ。オレンジジュースで良いかな?」

「お兄さん、なんでこんな強いポケモン持ってんの?どこで捕まえたの?」

質問の返答を得られないことに苦笑しながら、あまいジュースを入れたコップも同じくテーブルに。その間も続く少年の猛攻を受け流して彼を椅子に座らせ、ポケモン達が使っていた大皿に1つ残ったあんぱんを口に咥えてからそれを回収する。ああ、そういえばパチリスの分を用意していなかった、これをあげれば良かったんじゃないか。そう思うがすでにあんぱんの一部は自分の喉を通り過ぎてしまっていて、仕方なく別のパンを取りに戻ろうと振り返ると、ちょうどトゲキッスが頭にクロワッサンを乗せて少年の横に降り立つところだった。バターの香りを纏うそれを持ち上げ、ありがとうな、そう言って代わりにトレイを頭に乗せる。

去っていく白いシルエットとパチリスにクロワッサンを渡す俺を交互に見て、少年が発したことばも、あんぱんと共に飲み込んで。


「こんなに強いポケモン持ってるのにパン屋さんしてるなんて勿体ないよ!お兄さんだったらポケモンマスターになれるかもしれないのに!」




その少年が荷物をポケモンセンターに置いて行ったきり行方が分からない。閉店したパン屋の扉を叩いたジョーイさんの言葉を聞いて、俺はトゲキッスだけを連れて森へと足を踏み入れた。

この時代では、常に相当数の少年少女たちが旅をしており、そしてその旅はしばしば、ともすれば命を落としかねないほどの危険を伴う。彼らの冒険に大人が手を出すような野暮なことはしないが、年若い彼らを殺してしまう訳にはいかない。そのため大人たちは、彼らが自力で乗り越えられる以上の危険に見舞われた際に手を貸すべく常に道に立ち周囲に気を配り、別の仕事が忙しい人間は、持ち場を離れられない彼らの代わりに、目の届かないところへ動き回って子供たちを捜索する。俺ももちろんそのシステムの一部である。

夜の森に響く、1人分の足音。トゲキッスを連れている俺を襲う野生のポケモンもおらず、時折向かってくるトレーナーを蹴散らして、森の奥へと進んでいく。トゲキッスは久しぶりのバトルにテンションが上がっているらしく、俺が細かい指示を出さなくとも、いとも簡単に少年少女たちのポケモンをひんしにしてしまうのだ。エアスラッシュを連発していく様など、「パン屋のお兄さんの名前」にあるまじき強さである。目を輝かせてわざを繰り出すトゲキッスは、パン屋で見るような気配りの出来る優しい白ではなく、勝ち気で、少し生意気で、困難を楽しむ事のできる、かつての煌めきを放っていた。
こちらを振り返るトゲキッスに、やりすぎだよ、と言えば、朝に聞いたのと同じ、いままで幾度となく掛けられた言葉が耳に入り、俺は薄く笑ってその場を後にする。トゲキッスは俺の変化を感じたのかそうでないのか、不思議そうに俺の後ろを着いてきた。ぱさり、厚い羽が夜の暗闇を打つ音すら、俺を追いたてているように聞こえる。


俺は彼らを裏切ったのだ。バトルに勝ちたいという自分の都合で彼らを仲間にして、彼らを強くして、一緒にポケモンマスターになるとその気にさせておきながら、父と母がパン屋を締めると聞いた時、それまでのすべてを捨ててこの町に帰ってきてしまった。
俺自身は悩んだ末の結論であったし、一人息子として両親のあとを継いだことに後悔はしていない。けれど彼らは?あの緊迫の中で出会った俺のポケモンたちは、一体どう思っているのだろう。あの緊張を楽しんでいたトゲキッスは、同情ではなく、本当に納得して俺に着いてきてくれているのだろうか。


争いを好まなかった彼に勝利を教えたのは、俺だというのに。



いつの間にか歩みが遅くなっていたのか、気付いた時には視界に広がる見慣れた白をただ追って歩いているだけになっていて、前に来ていたトゲキッスの表情は見えなくなっていた。森の中央辺りまできたようだが、まだ少年を見つけてはいないらしい。欠けた月を反射して光る白だけがぼやりと浮かぶ。かつての彼の白は自ら光っているかのような爛々とした力強い白だったな、そう思っていたら、唐突に口からなにかがこぼれ落ちた。

「お前、あの子に着いていく?」

落ちたことばは木々に吸い込まれて行く。前を進むトゲキッスは振り返らない。

「俺に付き合ってくれなくても良いんだよ。あの子ならお前の行きたいところに、きっと連れていってくれる。トゲキッスは今までずっと、俺のやりたいことに付き合ってくれていたけど、お前がやりたいことをやっていてくれる方が、俺は嬉しい」

いまさらなにをいっているんだか。吐いた息で少し笑う。彼は生まれたときから俺のポケモンなのだから、付き合うもなにもそれ以外に選択肢がなかったのだろう。だからこそ、もう縛り付けたくはない。それは間違いなく本心からのことばだ。
トゲキッスは音もなく、急に前進を止めた。大きくなった身体は狭い道をふさいでしまい、後ろに立つ俺では彼の前の道を見ることは出来ない。どうかしたのか、そう思い彼の名を呼ぼうとした瞬間、目の前の白はこちらを振り返り、翼を止めて地へと足をつけた。それでも、彼の目は俺の胸の辺りの高さにある。

「トゲキッス?」

突然の行動に動揺しながらも、努めて優しく問い掛けるが、彼はなにもいわずにただこちらを見上げたまま。いつもはゆらゆらと動かしている翼をたたみ、くちを引き結んで、まっすぐにみつめる瞳からは、普段のような豊かな感情は表されていない。ひんやりとした風が俺とトゲキッスの間を通り抜けていく。それからしばらくの間じっと俺を見上げていたトゲキッスはやがて、閉じられていた口をゆっくりと開いてちいさく、きい、と鳴いた。それは、彼がまだトゲピー、トゲチックだったころの、抱っこしてほしいという合図だった。身体がちいさい頃から好奇心旺盛だった彼が、勝手に俺の腕から飛び出しては、自分の足や翼で進むことに疲れてしまい、抱き上げて欲しいとねだるときに使っていた、俺と彼の間でしか使われたことのない合図。
けれどそれも、もうずいぶん昔の話、二人ともまだ小さかった頃の話だ。トゲキッスの目を見下ろして、震える唇を開く。

「もう無理なんだよトゲキッス、もう俺じゃあ、お前のことを抱き抱えられない」

情けなく震える声とは対照的に短くはっきりと、きい、彼はもう一度鳴いた。じっと俺を見つめる瞳はそのままに。


その瞳の強さに引き付けられるように、俺は一歩近付いて、少しだけかがみ、大きな体におそるおそる腕を回した。身体に感じる馴れ親しんだ温かさ、つるりとした白、混じる赤と青、見慣れた3つの突起。頬をすり寄せれば耳元に聞こえる、聞き慣れた声。じわりと、身体が何かに満たされて、自然にため息が漏れる。そして、その時不意に気付いた。

俺は、いつからこうしないできてしまったのだろう。どれほど長い間、彼に触れずに来てしまったのだろう。いつも抱き抱えていたこの温かさ、摘むようにつないでいた丸い手、近くにあったあのやわらかさを、いつから忘れてしまっていたのだろう。自分の選択に着いてきてくれた彼らが、生まれてからずっとそうしてきてくれていたトゲキッスが、本当はこんなことを望んでいないのかも知れないなんて言いながら、彼らの気持ちを汲み取ることを怠っていたのは他でもない俺だったのだ。
ぐわりと、背中がむず痒くなって、手足に痺れが伝わって、お腹の辺りが持ち上がって、どこか泣きたくなるような衝動にかられる。この衝動のまま、ごめんと言うべきなのか、ありがとうと言うべきなのか、だいすきだよと伝えるべきなのか、結局自分ではわからなくて、俺はトゲキッスに触れている腕に更に力を込めた。

「きぃ」

すりすりと全身を使って、トゲキッスは俺の抱擁を受け入れた。なんどもなんども、思い出させるように、彼は昔と同じ信頼の声を上げた。ことばを使わない彼らのほうが、よっぽど多くのことを伝えてくれる。その様子は昔とは似ても似つかないのに、なぜか初めて二人でこの森を通った夜を思い出させて、俺はその思い出の中で目をつむる。


ねえトゲキッス。
いつか、いつかさ、また一緒に旅にでようか。


もうつなぐことの出来ない彼の白いつばさが、ゆるく羽ばたいて俺の身体を擦った。




森道から少し外れた場所に申し訳程度の焚き火と空のリュックに寝袋があり、その中からパチリスと少年の顔が覗いていた。ここのポケモンたちは危害を加えなければ襲ってこないし、火があれば近付いてもこない。この分なら大丈夫だろう。俺とトゲキッスは顔を見合せ、控えめに笑みを漏らす。踵を返して来た道歩きだす頃には、この道を初めて歩いたあの時と同じ、どこか弾むような1つの足音と、その隣を行く羽ばたきだけが夜の森を満たしていた。


つなぐ手がなくなったって構わないさ



こわくないよ様に提出。

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