視界の端を、深い青が撫でた。

調子の悪い両替機に辟易としながら、引き寄せられるように顔を上げる。見覚えのある女の子が、入り口の左、クレーンゲームの透明な列に入っていった。
俺がここでバイトをするようになってから一年と少しした頃、春とともに現れたその女の子は、たまにふらりとやって来ては、クイズゲームや占いゲームを一心不乱にプレイする、時には夜になってから現れて深い時間までホラーゲームをやっていくこともあるという、とても不思議な女の子だった。近くの高校の制服をきており、高校生がゲーセンに入り浸るのはどうなんだと思っていた時期もあったが、彼女はいわゆるアーケードゲーマーたちとは違ってそこまで執着があるわけではないらしく、他のお客に迷惑をかけることもなければ、声をかければすぐに帰っていくため、店側としてもかなり寛容な対応をしていた。
彼女がまたやってきたのかと、ガラスの中のぬいぐるみから目を逸らそうとして、はたと、俺はその違和感に気がついた。

青。そう青だったのだ。

あの女の子を色で例えろと言われたなら、恐らく多くの人間が赤だと答えるだろう。制服の黒やソックスの白の方が面積的には大きいものの、印象としては赤に負けてしまう。赤と茶色を混ぜた髪、赤に覆われたイヤフックイヤホン、学校指定の赤染めリボン、腕に巻かれている赤く濡れた腕章、極めつけは、どこを見ているのかわからない、ぼんやりとしているようで、それでいて全てを鋭く見通してしまっているような印象を与える、赤く光る瞳。今ガラスやぬいぐるみの向こうを歩く姿を見ても、彼女の通ったあとに残るのは赤だ。
にもかかわらず、俺は先ほど、青が通ったように感じた。

最早、店長に修理をいいつけられた両替機のことなど、頭になかった。現金投入口を見ていたせいで中途半端に曲がっていた腰をまっすぐに伸ばす。なぜだか、彼女を追わなければいけないような気がした。クレーンゲームブースへと足を向ける。
あの女の子がクレーンゲームをやるつもりなら、景品の数を確認して、配置を換えてあげる必要がある。もしなにも手を出す必要がなかったとしてもこの違和感の答えさえ見つかればそれで良いのだ、擦れ違うだけで、あの角を曲がって彼女の姿を覗き込むだけで良い。それからすぐに戻って修理を続ければ良いじゃないか。内心で適当な言い訳を並べながら、壁際を通り、入り口から入った少女とは逆の方向からクレーンゲームの路地に入る。並べられたフィギュアを横目に、ゆるいぬいぐるみの詰め込まれた箱の角で曲がった、瞬間。

「わっ」
「おっと」

なにか大きなものに阻まれて、俺はその角を曲がりきることが出来なかった。顔と上半身がはじき返される感覚。思わず漏れた声。このままじゃ倒れてしまうと頭で思うより先に足を後ろに引き、プレイ用のボタンに手をつく。数歩よろめいただけで、なんとか踏ん張ることができたようだ。危うく尻もちをつくところだった、と体勢を立て直した安堵からのため息をつき、そこでようやく、自分が店員であり相手が客であることを思い出した。

「す、すみません!お怪我は」
「いえ」

下げた頭に、体格のわりに高く澄んだ声が降ってくる。

「大丈夫ですよ」

顔を上げて見上げた先では、青い青年がこちらを見下ろしていた。外国人だろうか、日本人離れした、はっきりとした顔立ちをしている。太陽光を反射する水面を思わせる銀の髪、人形のように透き通った白い肌、冷たく色のない瞳、そして海外のファッションショーで見るような、クラシカルながらも奇抜な青い服。面積の大半をしめている服だけではなく、全く関係のない色で構成されたそれ以外の全身からも刺すような青色の印象を受ける。
青。口の中だけで呟く。さっき見た青は、きっとこれだ。

しかし、今度は女の子の方が見当たらない。確かに後姿があって、それを追ってきたはずなのに。次から次へと違和感にぶち当ってすっきりしないなあと思いながら、青年の後ろを覗き、そこから壁に沿って店内をぐるりと見渡すと、今回の疑問は存外容易に解決した。クレーンの向こう、俺が先ほどまでいたところ、つまり両替機に向かって赤い女の子は立っていた。俺は人ごみを避けるために迂回してきたが、彼女はそれとは逆の回り方をしたために擦れ違わなかったのだろう。少女は鞄から財布を出し、お札を入れようとしている。

咄嗟にやばい、という言葉が頭を支配した。あのままでは彼女のお金が出てこなくなってしまう。戻らなくては。ガラスへと向けていた顔を正面へと戻す。同時に一歩踏み出して先ほどの男性と擦れ違おうとしたが、しかし、擦れ違うことはかなわなかった。視界に入ってきた男性はぶつかったときとさほど変わらない距離で、目の前にあるクレーンゲームをじっと見つめていた。その横顔の凛々しさに、一瞬呼吸が止まる。ゲームセンターでゲームをする人々はみな、真剣な表情をしているのだが、彼の表情はゲーマー達とは違ったものだ。すっと通った鼻筋や、肌の白さがそう見せるのだろうか、どこか、遠い。目を逸らすことも出来ず、俺はじっと彼の表情を見つめた。
まるで往年の女性が歳若い少女を見つめるときのような、友を乗せて去っていく電車を見つめる子供のような、なにか、求めて、望んで願って、けれどどんなに努力してもけして届かないものを見つめるときのような。


「あの、それ、とりたいんですか?」

銀の瞳を僅かに見開いてこちらを見た男性を見て、俺はそれ以上に目を見開いてしまった。何を言っているんだ、俺は。我に返ったものの、次の言葉が見つからない。何をしてしまったのか、クレーンゲームの前にいるのにとりたくない訳ないだろう、聞いてどうするんだ、というかそもそも、なんで見ず知らずのお客さんに声を。けれど、混乱している俺とは対照的に、男性の表情にあったのは、純粋に突然声を掛けられたことへの驚きだけだった。それまでの澄んだ表情とは違う、ひどく人間染みた表情。彼はそれを静めたあと、穏やかな笑みを浮かべた。

「ええ、どうしても。今日という日の思い出として」

そう言って逸らされた視線。たどった先にいる女の子はもうお金を入れてしまったらしいが、困ったような表情ではなく、いつものようにどこを見ているのかわからない瞳で、近くの店員に声を掛けている。
彼はまだここに入って日が浅い。両替機の出口についたガムの上手い取り方なんて見当も付かないだろうし、俺にそれを言いつけた店長は3階のプリクラブースだ。しばらくかかるだろうな、とそもそもの原因である自分を棚にあげて、穏やかな色をした銀へ視線を戻す。彼女のほうを見つめている青年からは柔らかい印象を受けるが、きっとそれはうわべだけなのだろうとなんとなく感じた。何を考えているのかわからない奴、普段なら絶対に避けて通っている相手だ。

しかしなぜだか分からないが、その時の俺は、やらなければいけないと、これ俺のやるべきこと、ここにいる意味だとすら感じるほどに強く思っていた。思考は一色で埋め尽くされており、少しの疑念も躊躇も覚えない。未だ少女を見守っている男を見上げて、口を開く。


「お金、持ってますか?もしよければ俺、取りますけど」

今度は言葉への明確な戸惑いを持って、銀髪の男はこちらを振り向いた。当たり前だ、とても店員のものとは思えない台詞なのだから。目が合い、銀の瞳が細められる。瞬間、店内の喧騒が遠くなり、頭にぼうっともやがかかったようになにも考えられなくなった。何かを探るような視線。霧の中で何かをはがされ、頭の中を見透かされているような感覚がした。

「では、お願いします」


男の声で我に返り、手を開くと、いつの間にか百円玉が握られていた。
何時の間に受け取ったのだろう。そう思いながらも、俺は小さく頷き、投入口に手の中の百円玉を入れた。軽快な音楽が鳴り、ボタンが光る。その前に立ったときには、もう先ほどのもやのことや、百円玉のことなど忘れてしまっていた。真ん中にぽつんとひとりで横たわる人形を、どうにか穴に落とすことだけしか頭になかった。

ガラスの向こうので横たわるぬいぐるみを見つめつつ、ひとつめのボタンを押す。ぐいんぐいんと音を立ててクレーンが動き出すと、ものめずらしさからか、隣に立つ男は小さく感嘆の声を上げた。ガラスに映る瞳も好奇心からかきらきらと輝いている。ボタンを押し続けて、クレーンがちょうど正面まで来たところで、ボタンから手を離して動きを止める。次は、と隣のボタンを押し、今度は奥に向かってクレーンを動かした。がたがたとアームを揺らしながら遠ざかっていくクレーン。このぬいぐるみはタグがないし、首のあたりにひらひらとしたものがついていて、差して取るのにも向いていない。シューターとの向き的にも、ぬいぐるみの体型的にも、頭を軽く持ち上げて転がすのが妥当だろう。人形の上にさしかかり、ここだ、と思ったところで手を放す。一度動きを止め、それからぬいぐるみを掴もうと、アームがガッと開いた。阻むもののない筐体のなかで、アームはまっすぐに唯一の獲物へと降りていく。

アームが閉じられると、狙い通り、ぬいぐるみは掴んでくるアームの間をするりと抜け、しかし自身の頭の重さで落とし穴へと突っ込んでいった。テンションの高い音、ごとりと、落ちてくる白と黒と青のぬいぐるみ。

「はい、どうぞ」

軽く腰を折って15cmほどの大きさのぬいぐるみを取り出し、男に手渡す。ありがとうございます、男は呟くように言って、ぬいぐるみを掴む。その衝撃で揺れたタグには、「ふろすとシリーズ」と書かれていた。なんのキャラだろう。引き取られていくぬいぐるみを見て、ふと思う。
そういえば、このクレーンゲーム、筐体のなかにぬいぐるみひとつしか入っていないなんて、おかしくないか。
男の手のなかのぬいぐるみとともに上がっていく視線。じわじわと沸いてくる違和感。そうだやっぱり、こんなぬいぐるみ、うちの店で見たことがない。「ふろすとシリーズ」なんて聞いたことがないし、そもそも。男の横にある筐体、つまりさきほど使ったものの隣の筐体の中には、美少女キャラのポスターの前に横穴のあいた四角い箱がいくつも入っている。俺の後ろにある筐体も同様のタイプ。そう、ここはぬいぐるみではなく、フィギュアなど箱物のエリアだ。ビギナーでも手を出しやすいぬいぐるみエリアはもっと入り口の近くであり、ここにぬいぐるみが入っているはずがない。男は手に持ったぬいぐるみを顔の横まで持っていく。ぬいぐるみの白い身体、大きく開かれた黒い口とつぶらな眼、青の帽子。青。
もしかして、最初に覚えた違和感は。


「すみません、もう行かなくては。彼女が呼んでいるようなので」

はっと、いままで考えていたことが跡形もなく霧散し、意識が引き戻される。いま、なにを考えていたんだっけ。きん、と頭が痛む。混乱する俺を見て、目の前で男がにこりと、穏やかな笑みを浮かべた。そうだ、俺は彼に、ぬいぐるみを。俺の焦点がぬいぐるみに移ったことを確認してから、男は笑みを浮かべる口を開いた。

「これ、大切にいたしますね。では」

固まったままの俺の脇を、青が通り過ぎていく。男には不似合いなぬいぐるみを胸に抱きながら、彼は両替機の前にいる少女の方へと歩いていった。気付いた女の子が赤いリボンを揺らしながら男に近づき、何かを言ったが、男は手にしたぬいぐるみを揺らすことでそれを受け流したようで、二人はゲームの間を通り出口に向かっていく。追いかけなくては、と思ったが、なぜか足が動かず、ただ二人を見つめていることしかできない。

店を出る瞬間、俺の視線に気付いた少女が振り返り、更にそれを見て男が振り返った。その様子をぼうっと眺めていると、女の子はあのどこを見ているのかわからない赤い瞳を軽く伏せて、こちらに向かって会釈をしてきた。やはり、赤だ。下げられた髪を見て思う。
なにひとつ、おかしなことなんてない。一体なにに違和感を覚えていたのだろうか。俺は店員で彼女たちはお客、それだけのはずなのに、なぜこんなにも、まるで死に行く友人を必死に引き止めようと声を荒げているかのように、心だけが焦っているのだろうか。

釈然としない気持ちながら、なんとなく会釈を返す俺、それを見て薄く笑う青い男と、腕に抱かれた青いぬいぐるみ。少女が顔を上げ、グロスを塗ったような赤いくちびるで、何かを呟いたようだが、ゲームセンターの喧騒にかき消されてしまって届かない。なにかと聞き返す間もなく、二人は再びこちらに背を向ける。
いつの間にか、追いかけようという気持ちはなくなっていた。店の中から、立ち去っていく二人を見送る。

赤い女の子と青い男の後ろ姿は、しばらくの間ポロニアンモールでひときわ目立っていたが、やがてふっと、どこかに消えてしまった。





それ以降、彼の姿を見たことはない。
紙袋に制服が入っていることを確認してから、あの日と同じように店の外を見つめる。見慣れたこの景色も、しばらく見ることはないのかと思うと急に惜しく思えてきた。
あの後、他のスタッフに女子高生と外国人のカップルの話をしたが、不思議なことに、誰一人として二人を見たものはいなかった。両替機を直してくれたやつですら、「ふっと見たらお前が放置してどっかいってやがったから、直してやったんだろ」の一点張り。女の子に言われて直したんじゃないのか、という俺のことを、怪訝そうに見ていた店長が防犯カメラの映像を見せてくれたが、あの二人は映っていなかった。両替機周辺を映した映像では、同僚がひとりで修理している姿が映っており、店の入り口の映像には、彼も彼女も、そして店先で二人を見送った俺までもが、どこにも映っていなかった。首を傾げる二人になんとか返すことが出来たのは、勘違いだったみたいです、の一言。その後、女の子の方は何度か見かけることがあったが、なぜか声をかけることは出来ないまま月日は経ち、ついに少女を見かけることもなくなってしまった。

通いなれたスタッフルームの扉を開けば、中で作業していた店長が笑顔で迎えてくれた。お疲れ様、と声を掛けてくれる壮年の男に紙袋を渡して、今までありがとうございました、と頭を下げる。そのまま軽く世間話をしながら、俺はあの日のことを思い出していた。
三年間のバイトの中で、あの一日ほど忘れられない日はない。彼女の方もぱたりと現れなくなる、三ヶ月ほど前の出来事だった。


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