バスケをしている紫原を見ることは稀だった。
バスケはインナースポーツだ。日々の練習もそうだが、その試合を見る為には、基本的には体育館にいかなければならない。あの圧迫的でいやに汗臭くて、まるで全ての青春と感動と挫折を無遠慮に溜め込んでふくれてしまったかのようなだだっ広い密室に。負けを認めたあの日から、おれはいつだってあの場所から目を逸らすのに必死だった。あの空気に引き込まれてしまったら、またのめり込んで、きっと同じように押しつぶされてしまう。だからおれがむらさきを見るのは、決まって体育館の外でだった。高い天井をも押し返すことの出来る大きく強い手を持つ紫原の隣で、おれはいつも、引き戻される恐怖から自分を守っていた。

バスの一番後ろで鞄を抱えながらも、おれはやはりあの空間への恐怖でいっぱいだった。周りを見回しても、冬季合宿に興奮している奴、無防備に寝顔をさらしている奴、本を読んだり音楽を聴いたりして時間をつぶしている奴。正直知らない顔ばかりだった。その中で唯一、見たことのある顔の奴が隣の男と何かを話しながらこちらを振り返り、唇を動かす。
一度上手くいったくらいで、どうしてあんな奴が。
長いバスの旅を終え、荷物を宿に置く。初日である今日は夕食まで自由時間が取られているらしい。実質幽霊部員であるおれがいなくなっても、誰も気に留めないだろう。宿の近くにある練習場へ向かう列からそっと抜け出し、一応顧問とマネージャーにメールを送りながら、栃木から東京までの3時間弱、バスを乗り継ぎ電車を乗り継いでいく。東京に来たのは二回目だったが、事前に場所と行き方を調べていったおかげで、その体育館には思ったよりも容易にたどり着くことが出来た。会場の前にはさほど人はあふれておらず時計の短針も4と5の間、陽泉の試合は今日の後半に行われることになっていると聞いていたし、なんとか試合が終わる前にたどり着くことが出来たようだ。

上がった息を整えながら中に入ってみると、そこはおれの知っている体育館とはだいぶ様相が違っていた。取り囲む大勢の観客、ゴールポストだけが聳え立つコート、整数しか表さない大きな液晶。そこに表示される二桁の得点を見て、その数字を認識した瞬間、おれは目を疑った。

うちの学校が、陽泉のバスケ部が、むらさきが、押されている……?

気付けば、おれは客席を下がりきり、一番前でひとつだけ空いている席に座っていた。隣の家族がなにか叫んでいる。ちょうどこの下が陽泉側のベンチらしく、少し頭を動かせば対戦相手、誠凛高校のベンチに向かって立っている一つ二つの頭が見えた。コートにゴールポスト以外なにもなかったのは、ちょうどタイムアウトが取られている間だったからなのだという事実にようやく頭が到達した。それからまた液晶画面に目を映す。残り時間は三分。差はたったの四点しかなかった。何回数字を見直してもその数字は変わらない。これは、いつも紫原が纏っているような圧倒的な勝ちには程遠い。それに、おれはバスケにはあまり詳しくないけれど、うちの高校は守備が優れていると聞いている。陽泉が珍しく窮地に立たされているということは、会場の空気からも、電光掲示板からも明らかであった。いったいなにが起きているんだ。むらさきが負けるなんて、そんなはずないのに。おれの動揺と会場のざわめきを切り裂くように、ホイッスルの音が鳴り響く。そして眼下に、陽泉のメンバーが現れた。見たことのある大柄な先輩たち、それを追う少し低い頭、室さん、そして、
「むら、さき……?」
室さんの後ろを歩く紫原を見て、思わず目を見開く。そこにいたのは追わずとも勝利を享受しているいつものむらさきではなかったのだ。伸びた髪を後ろでひとつに纏め、精悍な顔つきで前を見つめている。めまいにも似た感覚が通り過ぎていった。
だれだ、あの男は。これではまるで、
彼のバッシュがコートの輪郭である白い線を蹂躙すると同時に、おれはとっさに叫んでいた。

「むらさき……!」

声が届いたのか、むらさきはコートの向こう側で、半分だけこちらを振り返った。そして驚いたような表情を作り、手を振るでもなく、少しだけ眼を伏せる。思い切り叫んだことで軽く痛んだ喉が吸った息を吐き出せずに飲み込んでいく。あれは本当に紫原なのだろうか。髪を結んでいるから、それだけでは説明しきれない違和感。眼を伏せる紫原なんて見たことがなかった。ましてあんな真剣な表情で。その先で室さんも足を止める気配がする。

ごめんね、名前ちん。

むらさきが完全に振り返る。くちを動かしているようだが、この距離、この歓声ではその言葉までは聞き取れない。客席から見下ろした紫原はいつもよりも小さく見えて、その感覚がいやな冷たさを持って背中を撫でた。何か言いたいけれど、何を言ったらいいのかわからない。握り締めた拳に力がこもる。なぜこんなにも気持ちが逸るのか。意味もなく口を開くと同時に、またひときわ大きくなる歓声。誠凛の選手がコートに入ったのだろう。もう試合が再開されるのだ。思った瞬間、おれはようやく胸を割くような違和感の正体に気がついた。むらさきは、相手と試合をしようとしているのだ。勝つか負けるか分からない戦いの中に身を投じ、自分の全力を出して闘って、自分のため、チームのために勝利を掴み取ろうと必死でもがいている。ぞわり、理解すると共に全身に鳥肌が立っていく。そうだ、これではまるで、スポーツ選手のようではないか。むらさき、唇だけで名前を呼ぶ。ストライプの入った紫色のユニフォームが良く似合う大柄な男は、生まれたばかりの顔を上げ、まっすぐにこちらを見た。

俺、名前ちんの好きな俺じゃなくなっちゃった。

男は大きな手を握り締め、睨むような、困ったような、呆れたような、それでもなにかを見つけて少しだけ喜んでいるような瞳で、不器用に口端を引き上げていた。


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