「名前」

頭上から掛かる声に顔を上げれば母親の影響だろうか、厚手の黒いコートにマフラーと手袋といった完全な防寒具に身を包んだ要が見えた。俺は薄手のトレンチコートを一枚羽織っているだけで充分なくらいだと思ってはいるのだが、着込んでいる人を見るとなんだか寒いような気がしてくる。深夜0時直前の公園は刺すような寒さだった。

「やあ、早かったね」

にこりと笑いながら言うと要は視線を逸らし、俺が座るベンチの左端に腰掛けた。俺の家の通りの小さな公園、その奥にある小さなベンチの端に座っていた俺と逆の端に座った要との間には0.5人分程の隙間がある。0.5人なんてどうやって数えんだという要のツッコミ。

「お前のバイト、終わるの遅いんだよ」

はあと白い溜め息を付きながら、彼はマフラーを口元まで引き上げる。まあね、なんて笑いながら俺はクリスマスイブ限定バイトの必需品、赤い帽子と財布とケータイだけが入っている薄いカバンを俺と要の間にずらした。

「まだ要達の方が終わってないかと思ってさ」

「ガキが何人かいるからな、サンタが来る前にって言って解散になった」

「そっか。なんて言って家出て来たの」

「サルが忘れ物したって」

「ああ橘か。確かに、しそう」

要の家で行われていた騒がしいクリスマス会を思って俺は顔を伏せる。よくつるんでいる彼らがクリスマス会をやるだろうことは予想はついていたし、だからこそ俺もクリスマスイブ当日にケーキ屋の臨時バイトを入れておいた。それに俺と要の仲は、高校というデリケートで狭い共同体の中で公言出来るはずのないものだ。クリスマスなんてイベントを一緒に過ごせるはずがない。それくらい承知の上での付き合いだった。



名字は良いの?

冬休み前最後の日に浅羽、双子の兄の方だが、彼が俺の所に来てそう言った。弟の方とは全く面識がないが、浅羽とは高1で席が近かったことや同じ班だったこともあり、クラスメイトとしてそれなりに交流があった。会話をしたのはおよそ一年振りくらいだろうか。けれど俺は浅羽に対して嫌悪感を抱かなかった。それはそうだ、仮に中学でクラスメイトにそんな嗜好の奴がいて、しかも自分の幼馴染みと付き合い出したら、俺だって間違いなく黙っちゃいなかっただろう。それまでの長い友情の蓄積がある要とは違い、俺が浅羽達と出会ったのは高校に入ってからだ。しかし偶然浅羽に要と手を繋いでいる所を見られた後、浅羽は俺に何も言ってこなかったし、俺がクラスで孤立することもなかった。ただ俺を避ける、という対応で済ませている浅羽を俺は好意的に捉えている。

良いも悪いもないだろ?

俺は通学鞄にプリントを詰め込みながら言った。卑下しているつもりはない、ただ一般的な見解を尊重しているだけだ。きっと明白な理由もなしに俺達が、俺が悪い、そういうことになるのだろうから。黙々と支度を続ける俺に何かを言おうとしたのか、浅羽が口を開いたが、

悠太、何してんだこんな所で。

不意に現れた要が浅羽の背後から抑揚の欠けた声を投げてきたことで、浅羽は一瞬表情を歪めたあと口をきゅっと閉じて、いつもと同じよく分からない表情に戻ってしまう。よう塚原、俺が声を掛けると要はああ、なんて適当な返事をしてまた浅羽を見た。

もう帰るぞ。春達も待ってる。
ああ、うん。じゃあね。
じゃあな、浅羽、塚原。

一応笑みを浮かべていたはずなのだが上手くいってなかったのだろうか。その夜要から掛かってきた電話で悠太と何を話していたんだ、と聞かれた。学校でろくに会話を出来ない俺達が深夜親が寝静まった後に電話をするのは珍しいことではないが、この日は少し違った。咎めるような声は機械を通すことでより冷たい印象を与える。大丈夫、浅羽が気持ち悪いと思うようなことは言ってないよ。ただもう冬休みだねって言って、部活はいつまで?とか話してただけだから。そう言うと要は深く溜め息をついた。要は本当にあの幼馴染み達との関係が大切なんだなあ、と小さく笑みが漏れた。それから少しの間、松岡が変なことを言ったとか浅羽の弟がうるさいとか俺の部活がどうだとかそういう話をして、電話を切る間際、要は一際小さな声で言った。クリスマスイブの深夜、クリスマスの早朝に会わないか、って。俺のバイトと要のクリスマス会が終わったあと、俺の家の近くの公園で落ち合おう。要はそう言って電話を切った。



「どうだったの、クリスマス会は」

俺は左に座る要を見ずに言った。俺が未だ足を踏み入れたことのない要の家で、俺が未だ足を踏み入れたことのない要の部屋で、彼らと一緒にどんな一日を過ごしたの。浮かんだ言葉から都合の良い部分だけ抜き取って声に乗せる。要は何も答えない。視界の外側から衣擦れの音が聞こえて、要がこちらを向いた気配。ああ、俺に詮索されたくないんだな、なんとなくそう思った。要と直接話をしているとどうもいけない、電話と違って遠さが実感できないから、どこまでが俺の踏み込めるラインなのか分からなくなってしまう。俺も我儘だな、トレンチコートを塗り潰すように視界に入った白い溜め息は俺の思考を落ちつけてくれて、やっぱりなんでもないよ、そう言おうと顔を上げて要の方を見る。

「っ……!」

瞬間、ポーチの上にある俺の剥き出しの左手に何かが触れたと同時に後頭部と、開こうとしていた口にも何かが触れる。冷えきって感覚を無くしている左手が温かさを感じる少し前に、後頭部と唇のそれはすっと俺の感覚から消えた。見開いたままの目で追い掛けるように見たのは眼鏡の縁と手袋を持った左手、緩められたマフラー、俺の左手に触れる同じように剥き出しの右手、そしてレンズを通さず、無表情にこちらを見つめる要の眼。何が起きたのかようやく理解した俺はあまりの事の重大さに更に目を見開いて、震える唇を動かした。

「な、ば、…こ、ここ、外、」
「冷たい」
「なに、言って」
「もう黙れ」

要が吐き捨てたのと同時に、さっきと同じような感覚が俺を襲った。左手に触れる温かい右手、後頭部の手袋、湿っていく唇。一瞬唇が離れた直後、生暖かい何かが口の中に入ってきて、俺は動揺のあまり抵抗することすら出来なかった。ぎゅ、と左手が潰される。舌が舌を吸い撫でる感覚に背筋が震える。当たり前だ、約一年間付き合っていた中で俺と要がキスをした回数なんて片手でも多過ぎる程度だし、それだって精々一瞬が限界。もちろん要の家に足を踏み入れたことのない俺が彼と身体を重ねたことなんてない。そもそも付き合ってすぐに浅羽に見られて以来、俺達は長い間電話やメールでの交流が主であって、会って話をすること自体が稀なのだ。キスどころか抱き締め合ったことも、指先を絡めたことも、ないに等しい。くちゅり、静かな公園にいやに響く音は俺から嬉しさと苦しさと悲しさと愛おしさと恥ずかしさと虚しさと、とにかく表現のしようのないごちゃ混ぜの感情を引き出して、簡単に涙腺を弛ませた。けれど、どんなに混乱した頭でも俺は良く分かっていた。後頭部に触れる要の左手が決して素手ではないように、その手の力が少しでも身体を引けば簡単に離れてしまえる程度でしかないように、俺は彼の白い首に腕を回してはいけないし力の込められた彼の右手を握り返してはいけない。それが俺達が愛し合う為のルールなんだ。公園の電灯が瞬くのと同時にちゅ、と音を立てて、俺は長くて短いキスから解放された。熱がうつった唇、軽くなった後頭部、左手から離れていく要の熱。乱れた息の合間に何かを言いたいのだが、何も言ってはいけないような気がして、ただ黙って呼吸を整えた。前髪の隙間から見上げた要は、こちらを見てはいない。赤くなっている俺の手と、横にある白い手。吐き出される一層濃い白が視界を更にぼやけさせる。

「明日、さ。春たちと出かけるんだ」

「うん。俺も、部活の奴らと会う予定ある」

「ああ。……だから」

そこまで言うと、要はベンチから立ち上がり、手袋をはめなおしながら公園の出口へ向かって歩き出した。

「あんまり、遅くまで出歩くなよ」

じゃあ、マフラーの中に呟いて、要は公園から去っていく。死んだ芝生、土、コンクリートを踏みしめ、俺を囲うフェンスの向こう側へ。古い電灯に照らされた背中が遠ざかって行くのを見つめることしか出来ない俺を嘲笑うように、クリスマスの空気が肌を刺した。冷えきった身体の中で唯一熱を失わない唇が、はやく帰ろう、他人事のようにつぶやいて、一人になった左手がトレンチコートを握る。
不毛だと、意味のない想いだと、誰もが言うだろう。どんなに熱を持った唇から吐き出された白も、ただ時間の中に溶けて消えゆくのみだと。
でも、この冷たい恋が、俺の青春の全てを掛けた大切な恋だということは、


No one can deny it.
(誰にも、否定出来ない)

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