少し高い宿の、これまた少し大きな部屋で、自らが運び込んだ荷物を前にして龍之介が溢した溜め息を聞き流す。芹沢さんがこの場にいたなら、きっとまたあの鋭い眼光を更に鋭利にしただろうが、今はどこかへと飲みに行ってしまっておりその心配はない。つまり、不逞浪士を取り締まるため、というこの小さな遠出の間で、龍之介が気を休めることの出来る僅かな隙間だ。

荷物を角によせ、大きな鹿子に染め抜きされた風呂敷の中を雑に整理を始めた龍之介を横目に、今しかない、そう思って小さく、髪を結わいてやろうか、僕がそう言うと彼は些か訝しげにこちらを振り返った。

「ぼろぼろになっているよ。さっき芹沢さんにひどく殴られたからかな」

生傷の絶えない顔が、先程痛みに耐えていたときよりも悲痛に歪んだ。一瞬目を細めそうになるが、笑みで誤魔化した手招きをして、龍之介を無理矢理自分の前に座らせる。

「……じゃあ、頼む」

面倒なことを避けるための、そっけない口振り。龍之介のいつもの癖だ。
目の前で無造作に束ねられている髪はぽろぽろと髪紐から零れ落ちて、だらしなく垂れ下がっていたり、首筋に貼りついていたり、頬や口元の紅樺色に触れて色を濃くしてしまっている部分さえあった。不自然に膨らんだ後頭部を撫でてから留める紐を解き、瞬間重く広がる藍の髪を手櫛で軽く纏めていく。

芹沢さんは前々から龍之介達や商人に暴力を奮うことがあったが、最近はその回数が急激に増えた。以前はその暴力を奮う瞬間に、理不尽ながらも逆らいがたい、刀のような一本の鋭さを持っていたが、それさえ今ではまるで切れ味のない、叩くための鈍器になってしまっている。その上、屯所の中でも外でも、強い酒を浴びている時間が増えた。口には出さないものの、芹沢さんを慕っている龍之介にとっては、心を痛める変化だろう。

そう、あくまで龍之介にとって、なのだ。

大半の隊士にとってはそうではない。もちろん、こうして芹沢さんの監視の為、土方さんに同行を命じられた僕にとっても、この変化は心ではなく頭を痛める変化だ。いよいよ芹沢さんをこのままにはしておけない。それはつまり、龍之介をこのままにはしておけないということと同義だ。そして、出ていけ、と言うには、二人は多くを知りすぎている。

紺の間に健康的な薄桜がちらつき、ため息を噛み殺す。それなのにこうして簡単に首筋を晒してしまう龍之介の甘さに、歯噛みしたくなるほど嫌気がさすが、同時にどこか羨望のような、不思議な好感も覚えるのだ。

されるがままにしている龍之介の髪束を纏め、何とか左手で掴む。あちこちに跳ねる切っ先は、咎めるかのように僅かに僕の手を刺した。取りこぼした髪を集めた右手へ束を移し、また左手へ。纏める力を徐々に強くしていくと、龍之介はそれにつられるように声を漏らした。

「珍しいな、あんたがそんなこと言いだすなんて」
「そうかな」
「そうだよ。名字って、斎藤ほどじゃないけど静かだし、それに手先が器用にも見えないしな」
「髪を結わくくらいは出来るよ。昔は、一よりもすこし長いくらいだったから」
「……想像出来ない」

龍之介は小さく笑う。腰ほどまである彼らとは違い、僕のくすんだ茶色は、どれも肩に付かないくらいの長さであるからだろう。

「でも確かに、器用ではないね……昔は親に良く怒られたし」
「親に?」
「ああ、言っていなかったっけ。僕の家は、尾張で紺屋をしていたんだ」
「紺屋って……染め物を?」
「そう……僕が家を出てしまったから、今でもやっているとは言いきれないけれど」

そうか、と言って俯きかけた龍之介の頭を、髪を軽く引っ張ることで真っすぐに戻せば、彼は痛えと言いながらこちらを振り返ろうとする。
更に動きを制し、動かないで、あんたが悪いんだろうが、わかったから前を向いて、会話をしながら気取られないように、左手で髪束を押さえ、右手に掴んでいた彼の髪紐を懐に、代わりに懐から、浅葱よりも薄くなってしまった、淡い藍の髪紐を取り出して、良く染められた紺藍の束に素早く巻き付ける。
二、三回巻き付けて、端をきつめに結べば、綺麗に、とはいかないが、先程より少しましになった。髪紐は髪に埋もれ、その藍と同調する。

「器用、なんだな」

束ねられた長い髪の先を確かめるように引っ張る龍之介の姿は、どことなく獣の子供のような愛らしさがある。期待してやった訳ではないが、少し褒めるような言葉を紡ぎながらも礼は言わないところが彼らしいと感じた。僕が小さく笑みを盛らすと、龍之介は肩越しにこちらを見上げ、確かに犬のような丸い瞳で僕を見つめてくる。
何か気に入らないことでもあったのだろうかと首を傾げると、龍之介はそのまま、ゆっくりと左手を伸ばし、不意に僕の耳の前あたりで遊ぶ茶色を掴んだ。
父の愛す藍でも、母が大切にしている紅花でも染まらない、くすんだ空五倍子色。布を美しく染め上げることのない、古い時代の喪色。決して美しいと評されるものではないそれを見つめながら、ぽつりと自然に、水が滴るように。

「あんたも髪、伸ばせば良いのに」

ああ、何故彼は、
何故、彼なのだろう。

「そう、だね。そうしようかな」

開き掛けた口を閉じて、吐きそうになる言葉と想いを飲み込んでから、代わりに差し出した声の震えは彼に気付かれない程度だったのだろうか。
それを聞いた龍之介は、手を戻しながら小さく笑い、同じ手で顔の横に流した自身の髪を梳かした。光を含んだ髪が縹に、そして一瞬浅葱に見えて、思わず目を逸らす。足りない技量と余り物の材料で作った薄浅葱の髪紐などなくても、龍之介には浅葱が染み付いているというのに。左手に甦る藍色の髪の感触。その痛みを掻き消すように懐に置いた一振りの愛刀を握って立ち上がり、その冷たい藍の刀を腰に差しながら、こちらを見上げる龍之介を一瞥する。濃藍、山吹色の瞳、薄い浅葱の髪紐。その色彩を目に染み込ませて。ゆっくりと瞬きをしてから、そうだ、と僕は声を上げた。

「寝る前にさ、龍之介に付き合って貰いたい場所があるんだ。ちょっと、良いかな」


藍に染められた瞼の裏、ひそやかに君を想おうか

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