顔を上げてはいけない。それは思考ではなく、もっと深いところから来た直感的な指令だった。いま、一瞬でも顔を上げてはいけない。

高校に上がってから、俺と跡部の関わりは俄かに消え失せた。精々中の上程度の成績、目すらつけられない素行の俺と、成績優秀な生徒会長の彼。レギュラーですらなかった俺と、部長の彼。それでも唯一の接点だったテニスすら失った俺達の距離は、引退してから徐々に、しかし着実に開いて行く。

明確な終わりの言葉はなかった。明確な始まりの言葉がなかったからだ。けれど俺はいま自分の前に立つ男に、少しでもすきを見せてはならない。

「なにか、用ですか」

跡部が顔を顰める気配がした。感じてしまった自分に唇が震える。
彼はいつでも俺を守ってくれた。全ての懸念すべきことから、例えば生徒の目とか、彼の家とか、俺の経験の浅薄さまで、とにかくすべてから俺を守ってくれた。彼にとっては当たり前のことなのだ、庇護に入った人間を守ることなんて。

「……いや」

頭の良い跡部は、なんとなく気付いていたようだった。あの日、俺達の夏の最後の日、なお群衆を率いて学園へ帰ってきた彼が差し伸べた手を振り払った、俺達の綻びに。けれど、どうしてなのか、どうしたら良いのか、跡部には知る術がなかった。けれどその理由はきっと、もう知っているのだと、彼の次の言葉が息をもって俺に伝えてきた。

「すまない」

彼は王だったのだ。君臨し統治し率い庇護する王。誰もが妬み敬い憧れる王。独り孤独に戦い続ける、氷の帝王。

「ごめん」

彼の寵愛を享受していれば良かったのだろうか。俺は手入れの行き届いた廊下の床の上にある、跡部の靴を見つめた。後宮で帰りを待っていれば、神殿でただ祈りを捧げていれば良かったのだろうか。ただ1人愛したひとの隣を歩き、共に戦いたいという願いは、そんなにも罪深いものだったのだろうか。制服のズボンの裾を握る。
いや、確かに俺が悪いのだ。そうしていれば傍に置いてくれると知っていながら、あの手を振り払ったのは俺だ。それでいて今でも同じくらい、彼の面影を、後ろ姿を、足跡を愛してやまなかった。自分の中の矛盾を自分で飲み込むことも、王たる跡部に押し付けることも出来ない。俺は女よりも少しだけ強かったが、どんな美女よりも遥かに弱かった。
磨かれた靴が遠ざかっていく。その音ですら美しくて、視界の端に映るズボンの皺から手を離すが、やはり顔は上げられなかった。

「……ごめん」

それでも彼は、俺の弱さを戒めはしても、咎めはしない。跡部景吾がいまでも、王たる所以だ。

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