「名前、くん?」
生徒達が帰っていく放課後、デジタルワールドに行くと言っていた大輔くんの様子を伺いに、パソコン室の扉を開ける。
電気がつけられていない薄暗い部屋にはゴーグルを着けた少年と青い電子生命体がいるはずだったのだが、特有の不自然な光を発しているパソコンの前には、肩胛骨辺りまで伸びる赤みを帯びた髪、白く細い手足、見覚えのある後ろ姿が見えて、恐る恐るその名前を呼んだ。三年前当時小学三年生、今はこの学校の六年生、つまり僕より一つ年上の少年はゆっくりと振り返り、灰色の瞳に僕を映してああ、と息を漏らす。
「タケルくんも行くの?」
決して柔らかいものではない薄い笑みが日本人離れした彼の儚さを一層際立たせた。自分や兄もよく日本人離れした容姿だと言われるが、僕達よりも二倍異国の血が濃い名前くんの様子は僕から見ても圧倒されてしまうほどに目を引き、時にはこれ以上は近付けないといったような透明で威圧的な隔たりさえ感じさせる。こくりと喉を鳴らしてからようやく、僕の声は音を持った。
「いや、僕は」
「名前は何してるの?」
言葉を遮る高い声と共にバッグの中から翼のような大きな耳を持つ薄茶色が顔を出す。それを見た僕は咄嗟に身体を部屋の中に入れて、中途半端に開いていた扉を後ろ手に勢い良く閉めた。ばたんという大袈裟な音の後、耳を押さえているパタモンと扉に寄り掛かりながら溜め息をつく僕を見て名前くんはようやく、小さな笑いを見せた。
「みやちゃんに急用が入っちゃったらしくてさ、ゲート開くの手伝ってくれって、大輔くんに頼まれたんだ」
光子郎さんの幼馴染みである彼は京さんや光子郎さん程ではないがパソコンの扱いに慣れており、デジタルゲートを開くのにパソコンを使う僕達を助けてくれることも多い。
青白い光に照らされながら右手でカタカタとキーボードを打つ名前くんは、いつの間にかパソコンとパソコンの間に腰を落ち着けているパタモンの頭を慣れた手付きで撫でていた。気持ち良さそうに目を細めるパタモンを見て、僕が撫でてもそんな表情しないくせに、そう思いながら軽くなった鞄を適当な椅子の上に置く。
「それで、パタモン達も行くの?」
「ううん、僕達は大輔くんを見送ったらこっちで及川を探すんだ!」
そうなんだ、名前くんは小さく言うと、パタモンの羽根のような耳を長い人差し指と親指で挟んで、擦るように撫でる。
「及川の行方はまだ掴めてないんだね」
更に小さく漏れた声は普段の彼の声よりも冷たい響きを持って響く。パタモンもそして僕も、少しだけ息を飲んだ。
彼は三年前の戦いの途中、僕達が一旦デジタルワールドからお台場に帰ってきた後、ヒカリちゃんが仲間になる少し前から僕達の仲間として色々なことに協力してくれた。しかし彼とヒカリちゃんには決定的な違いがあった。1つは彼は当日も予定通りにキャンプに参加していたこと、そしてもう1つはその後テイルモンをパートナーデジモンとしてデジタルワールドに行くこととなったヒカリちゃんと違って彼はデジタルワールドに行くことはなかったこと、もっと直接的な言い方をすれば、名前くんにはパートナーデジモンがいないことだ。
お台場にいる間デジモン達を匿ってくれたり情報を集めてくれたり色々と奔走してくれた彼を僕は、僕達は大切な仲間だと思っている。しかし彼は自分にパートナーがいないことを負い目に感じているらしいと、太一さんから聞いた。選ばれし子供達ではない自分は真に仲間とは言えない、と。確かに大輔くん達が新しい選ばれし子供達になって、そのことを名前くんに言った時の彼の表情は、悲しみとも羨ましさとも悔しさとも諦めともとれるような、微妙で複雑な表情だった。
「オレね、タケルくん」
不意に彼が口を開き、僕の思考を引き上げた。ふにゃりと崩れたパタモンの表情とは裏腹に、画面を見つめる彼の表情は読み取れない。呼び掛けに答えられない僕を見向きもせず、名前くんが続ける。
「及川の言ってること、分かるような気がするんだ」
え、パタモンの短い声が響いた。少し目を見開いたパタモンと目が合う。他のみんながどうであれ、僕達は及川のことを到底許せないと思っているからだ。そんなパタモンの頭の上を、細い指が静かに滑る。
「デジタルワールドのことを知って、選ばれしこどもたちのことを知って、自分も行きたいと思うのは、オレにも分かるな」
「…名前くん」
少年は少し俯いて、人差し指だけを伸ばしてくるくると躍らせた。僕の声に返ってくるのは嘲るような空気を含んだ音のない笑みだけ。
「しかもそのこどもたちだって、ぱっと見なんの変哲もないただの子どもにしか見えない。じゃあオレにも行けるはずだ、なんでオレは行けないんだ、オレだって、」
一瞬の静けさ、彼は不意に顔を上げ、前を見た。まるで、青い光を放つ画面を睨むように。
「オレだって、行きたい」
「………」
少し震えた声、強く握られた拳。いつも通り淡々と告げられた言葉に、どれだけの内なる叫びが込められていたのか、それを表す僅かな指標だった。
名前くんはきっと三年前から、いや、僕たちが大切なパートナーと再会出来たことにより一層、苦しんでいるのだろう。僕たちに誰よりも近い彼は、恐らく何か一つまみ分の僅かな違いだけで、僕たちからこんなにも隔たってしまった。なんて声を掛ければ良いのか検討もつかない。それは彼がどうしたって僕たちの冒険の辛さを理解できないのと同じように、選ばれし子供達である僕は、彼の感情を、同情以上に理解することは出来ないのだ。
辛さ、虚しさ、奥深くにある感情は、決して。
「ああ、そんな顔しないでよ、タケルくん」
難しい顔をしていたのか、いつの間にか顔だけで振り返っていた彼が、いつものように少しだけ困ったような、それでいて何かを悲しむような瞳をする。
「オレも及川がやっていることは間違ってると思うよ。デジタルワールドにいきたいこどもたちであるかぎり、いつか、選ばれる可能性がある。でも彼はデジタルワールドに行きたいと思うばかりに他人を巻き込んでしまっている」
淡々と言葉を紡ぐ名前くんを見上げるパタモンの瞳に僅かな怯えが見えたが、僕はそれ以上彼に近付くことが出来なかった。
こちらを見る灰色の瞳にかける言葉を、僕は持っていない。孤独と戦っている彼の側に駆け寄るには僕には仲間が多過ぎた。笑みを隠した少年は、再び学校の備品へ向き直す。
「もう及川には、こどもたちである資格がない」
まるで自分に言い聞かせるように、まるで何かに祈るように、深く吐かれた息。青く光る電子で出来た世界と、彼の生きる現実世界との薄く大きな壁をその瞳で睨み付けて、彼はごく静かに、続けた。
「オレは全ての、選ばれざるこどもたちの代表として、及川を許す訳にはいかないんだ」