「星が、きれいですね」

静かな部屋に一言が投げ込まれ、その波紋に静寂を害されたトキヤはゆるりと顔を上げた。机の向こうに座っている少年はこちらを見ておらず、視線は窓の外に奪われていた。青いシャーペンが楽譜の上に投げ出されている。

「普通は月が綺麗ですね、と言うのではありませんか」

徐々に影へ食まれていく月を、名前は食い入るように見つめていた。カーテンの開かれた窓から感じる冷気。トキヤの瞳は再び机の上へと戻る。

「それに、最終オーディションまでもう時間がありません。起きている気があるのなら曲を書いてください」

コピーされた数枚の楽譜、少しずつ違う音符のひとつひとつに何パターンかのことばが乗る。トキヤの曲作りはとても繊細だ。名前は立ち上がるために一瞬だけ机を見た。こうしてわざわざ俺の粗さを繕って、つたない俺のことばをすべてすくい上げてくれる。立ち上がる少年の横顔はとても遠かった。

「月が消えてしまうのに、綺麗っていうのは、短絡的じゃあないか。月が望んでいるのはそんなことじゃないよ。きっと自分に当たっている灯りを弱くして欲しいんだ。それは綺麗なんかじゃない」

ひやり、窓の冷たさが糸車の針のように少年を咎めたが、そんなことに構わず、名前はついに窓を開け放ってしまった。冬特有の、少し低い空。通り抜ける風が頬と前髪を掠める。名前はいつだってとても美しい。トキヤはため息をついた。彼はなにひとつ分かってはいないのだ。故に自分なんかには到底理解できないくらいにひどく、美しい。

「ねえ、トキヤ」

少年の声が少年の足を呼び寄せた。通る風の警告も、もはや聞こえない。少年は少年の少し後ろに立ち、空を見上げた。大きな影が、月だけを覆っていく。

「星が、きれいですね」

不意に、少年が振り返った。名前の瞳に、トキヤが映る。トキヤの瞳に、名前が映る。切れ長の瞳が、ほんの少しだけ見開かれた。瞳に映る星が瞳に映っていた。美しい。ため息さえ漏れない静寂。星の空。これが、月の望みなのか。少年はぼんやりと思った。

「ええ、そうですね」

細められた瞳の奥に、月は映っていない。

望みの月

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