「……マジで何しに来た」
突如訪れた静寂、二人だけの空間はこんなにも静かなものなのかと、言葉を放った後の無音が耳に痛かった。
しんとした空気に肌は冷えたが、中身ばかりがまだ沸き立っている。
「そんなに怖い顔をしないで下さい。先輩の代わりに止めようとしただけじゃないですか」
「結局止めてねぇじゃねぇか」
「先輩が諦めた顔をなさったからですよ」
「お前……」
「諦めていたんですよ。否定をしたいのであれば、私が彼の腕を捉える前に、押しのけてでも先輩が先に掴むべきだった」
くそ、だから来るなと言ったんだ。
俺は頭を抱えたが、僅か憂いを含んだ雷光の笑みが正論を語り過ぎていて、俺は何を言うことも出来なかった。
「何を云っても結局は自分のもとに帰って来る宵風への甘えがあるのですか? それとも、彼の代わりと成り得る人間が他にも居るから、ということなのでしょうか」
「テメ……!」
「そうでないと、説明がつきませんから」
くすりと声を漏らした雷光に、先程までの嫌味ったらしい笑みはもう見あたらなかった。
更に憂いを深めた穏やかな顔が、他でもない、俺に向けられていて、やはり俺は肩すかしを喰らう。
「誰も代わりにはなれない。貴方は良く知っているはずなのに、私が来ると貴方は酷く安堵した顔をする。ご自分では気付かれていないようですが、だから宵風は私が来るのを嫌がるんですよ。知っていましたか?」
俺が押し黙って訪れた沈黙。
やつは何も追求しなかった。
鉄を響かせアパートの階段を下りて行くかかとの音が、徐々に遠ざかって聞こえなくなっても、俺たちは追えずにただひたすら立ちつくす。
追えない。
でも雷光は爪に残る赤い皮膚もそのままに、玄関につっ立ったままで上がる素振りも見せなかった。
西洋式の履き物は脱ぐのも履くのも一苦労ですので、などと屁理屈を述べて、履き慣れたしわが味を出す皮ブーツの埃を自慢げに払っただけで、壁に寄りかかっている。
先輩がお世話をして下さるんでしたら話は別ですね、と、冗談で言っているのかもそうでないのかも分かりかねる場にそぐわない言葉を俺にふっかけて、でも顔は笑っていなかった。
何をしに来たんだ、本当に。
三回目の質問はまたも無視をされて、こいつ、何が何でも答える気はないらしいと、やっと落ち着いた頭が理解した。
雷光が爪を見つめながら、訥々と再び喋り出す。
俺に何かを言い聞かせているようでもあり、また自分で何かを噛みしめているようでもあるなとこの目には映った。
「私は、誰かに傷を残すよりも、血濡れた赤い色が私の肌にこびりつくことで安堵を得るような人間です。彼が、そのうち帰っても来なくなってしまうのではといった不安は、こうして罪悪感を掌に残しておくくらいでしか消すことは出来ない」
引き留めることができぬのなら、せめてもの名残をこの手に、と。
先輩には分からないかもしれませんね、貴方はいつだって優しく居られる人だから。
雷光は続ける。
「分かりますか? どれだけ人を痛めつけても、傷が残るのも痛いと思うのも、私の方ではないんです。結局離れて行ってしまうんです。とても残念です。だからこそ私は」
「歪み過ぎてるだろ」
「先輩が綺麗過ぎるんですよ。傷つけたくないのであれば、傷つけないように捉えればいい。私には出来ない。でも雪見先輩のような人には、出来る。出来るのに」
嬉しくもない褒め言葉に返す声もなかった。
皮肉を交えてしか自分の本心を伝えられないのだろう、煽るようにしか人を諭せず、忠告もまともに言い渡せない。
ここまで来るとある種の才能だ。
馬鹿だな、不器用だ、素直じゃない。
礼に嫌味の一つも言い返そうとしたが、ヤツにとって褒め言葉にしかならないような、何のひねりも無いありふれた形容詞ばかりが頭に浮んでは消えて行く。
無視をすることがせめてもの反抗だと思いながら、今宵風を追わなければ後がないと再び焦燥に駆られ始めた俺は、おそらくヤツの思惑通り、上手く丸め込まれつつある。
不本意だが、事実だ。
「……ち、やっぱ連れ戻す」
靴に足を落とした俺と、雷光が手で先を促す仕草があまりに重なり過ぎてムカついた。
何もかもをお見通しと言ったその、俺を理解しきったような顔つきは、思わず噛みついてやろうかと思うほどだった。