「待たせたね」

 振り返ると、傾き掛けた太陽の照らす砂利道の上に雷光の姿を見つけた。

 仕事場から出てきたばかりの彼は、手ぶらの右手を軽く挙げていつものように私に歩み寄る。
 竹垣に背を預けていた私はひとつ小石を蹴ってから、「遅いよ」と、胸元を握りしめて笑顔を向けた。

 雷光の表の仕事帰りにその道の途中で彼の帰りを待つ日課、それは私が雷光に連れられ、隠の世に身を置くようになった当初から何一つ変わらない。
 雷光が出かけて行く背中を見送るのが毎日毎日怖くてしかたのない私は、今になってもまだ昔の傷を心に残しているということかも知れない。
 雷光は、居場所、時間、心、多くのものを私に与え、全てのことを満たしてくれようとするけれど、どんなに幸せな時間を過ごしても、過ごせば過ごすほど今というこの瞬間が怖くなった。

 夕方は、雷光の帰りが少しでも遅くなると不安でたまらない。
 出会って間もない頃に、連絡のないまま表の仕事から隠の仕事に移って、帰る間もなくまた表の仕事に行って帰宅した雷光を、自分でも自覚できるほどに血の気の引いた顔で出迎えたことがある。
 私を見た雷光は少しだけ困った顔をして、それでもいつも彼がする通りに私の頬を包んで、「不安なら、これからは迎えにおいで」と言ってくれた。
 私は彼のその言葉にすがりつくように、こうして彼の職場に通うようになったのだった。

 凝縮されていた感情というものが堰を切ったように溢れ出し続けていた頃。
 髪に触れられれば嬉しかったし、ケンカをすれば悲しかった。
 おいしいものを食べれば雷光に教えたくて、恐いと思ったら彼の腕の中で震えた。
 人が生きる意味というものを探すための、その出発点にやっと立ったのだと感じた。



「待って」

 私は私の前をゆったりと通り過ぎた雷光を追いかけて、そして後ろからそっとその手を繋いだ。
 雷光は私の方は見ない。
 真っ直ぐ前だけを見て、そしてその先に少し熱の冷めた太陽と、その下には帰るための家がある。
 私が少し手に力を込めると、雷光はわざと力を緩めて手を離して、それから指を絡めて繋ぎ直した。
 肢体の中で唯一、指だけが心と似て複雑に絡み合うことが出来る。
 横から見た雷光の口元は少しだけ笑っていて、私は何となく泣きたくなって砂利道に目を落とした。


 こうして長く雷光と一緒に暮らすうちに、一つだけ、気づいたことがあった。
 二人で暮らせば暮らすほど、昔生活を共にしていた彼が、雷光の日常と良く似た暮らしのリズムの中に生きていたという、そのこと。
 だからこそ私は、雷光がいつか私の側から居なくなってしまうんじゃないかと不安でしかたなく思うのだけれど、ふと、昔私が好きだったあの人は、もしかしたら今私が寄り添っているのと同じ、この世界に生きていた人なんじゃないのかなと、最近はそんなことも思うようになった。
 昼間働き、夜も働いて、時々家を空けて、そして帰らなくなる、そんな日が訪れる。
 でもそれはきっと、騙されて、裏切られるのとは全然意味の違うこと。

 彼も雷光のように、生きる信念を携えた人だったのだろうか。
 寄り添うばかりで何も信じようとせず、心を閉ざしていたのは私の方だったかも知れない。
 それでも彼の生きる拠り所は、私だったのかな?
 私はあの日、あの時、居なくなった彼を探さなかったことをとても後悔した。
 でも、卵焼きは、あげて良かったと思った。

 私も雷光のように、この世界に存在する意味を、自分自身の価値を見出せるような人間になれたら良いのに。
 そしたらもっと、世界のいろいろなことに関わって、そして世の中のいろいろなことを信じられるようになるんじゃないか。
 雷光が自分の信念を貫くためにこの場所で生きているように、俄雨が雷光の望む未来を信じて今を生きているように、私も同じように、何か。

「生きる、意味を」

「生きる意味?」

 呟いた私の声に、雷光は顔を正面に向けたままで言葉を返す。

「まだそんなものを探しているのかい?」

「そんなもの?」

「意味など、とても簡単なことじゃないか」

「私には分からないもの」

 私は目を落としたまま、歩みを緩める。
 雷光は私の手を引いて、一歩、二歩、三歩、歩みを進めてから、仕方の無い子だね、そう苦笑を漏らして、まるで本当に簡単な答えを明かすように言った。

「人は誰かを愛さずにはいられない。それ以上に、人は人に愛されずには生きてはいけないものだ」

 私は立ち止まって、雷光を見上げた。
 その顔が、少しだけ滲んでいるような気がする。
 雷光は私の頬を撫でて、手を離した。
 指が濡れている。
 私はその時初めて気が付いた。
 出会ったとき、家で出迎えたとき、幾度となく私の頬を撫でてきた雷光の手、ただの癖だと思っていた仕草、それが、

「私がお前を愛している、それでは駄目なのかい?」

 足元に雫が落ちる。
 ああ、雨だな、そう思いたくて天を仰げば、そこは見事なまでに、快晴。




fin.