星のない、暗い夜だった。
ひやりと頬に貼り付く空気が雨の湿り気を漂わせて、断崖に打ち付ける荒れた波は僕らを飲まんと手を伸ばしている。
潮の臭い。
この海には、一体どのくらいの人間の血液が混ざり合っているのだろう。
果てた命の気配が漂う足下を見下ろす僕の横で、彼女は自分の着物の帯を解き、解かれた帯で僕ら二人を堅く結びつけた。
不思議だな。
人並みに互いを愛し合ったとか、そういう訳では全くなくても、人間の男と女はこうして死を共有することが出来る。
本当に、不思議な生き物だ。
「笑っているの?」
「そう」
「おかしな人ね」
「君もね」
僕は腰に巻き付けられた布を指でなぞり、どうかこの帯が、僕が確かに人であることを証明する希望に導く糸でありますようにと切に願った。
断崖の淵に並んで立った僕らは結ばれた帯の目よりも堅く右手と左手を繋いで、足下よりも、空と水平線の境目も見えないような闇の彼方を見据えた。
これで終われるのだろうか。
絶対にという確証は当然なかったけれど、きっと終われるのだと思って胸が踊った。
彼女は僕の背に腕を回し、僕も彼女の背に腕を回す。
このまま二人、誰の手も届くことのない、海の底へ――
僕は数日意識なく海をさ迷い、そして目覚めたとき、気が付けば僕の身体は砂浜に放り出されていた。
当たり前のように自然とまぶたが開いて、最初に見たのは明け方の白んだ空だった。
耳元に潮騒を聞き、口内には生臭い海の臭いが広がっていたけれど、呼吸は苦しくはなかった。
彼女の背を掴んでいたはずの手を握ると、手の平一杯の砂がかたちなく零れ落ちて行った。
(ああ……)
胴体を縛っていた帯は彼女を繋いでいた結び目だけが解け、余った部分が投げ出されて僕の四肢にだらしなく絡み付いている。
僕はその滑稽な自分を見つめたとき、あまりに自分の姿が無様でおかしくて、腹の底から笑いが込み上げるのに、笑えば笑うほどに涙が溢れた。
僕は嗚咽を砂浜に響かせながら、やっと心底から自分の不死の意味を理解し、憎悪し、決して得ることの出来ない命の果てに、血を吐く思いで恋焦がれた。
彼女はあの夜の海にさらわれた。
多分、僕が殺した。
引き潮は人をさらうと言い、彼女はその通りに海に消え、そして僕はこうして残されてしまった。
僕は、人ではなかった。
森羅万象の呪いは、僕が思っているよりもずっと、ずっと根深い。
誰か、僕を殺せる人は居ないのだろうか。
森羅万象は今、どこに居るんだ。
――見つけてやる。
必ず見つけてやる。
後何年、何十年、もしかしたら何百年かかるかも知れない。
それでも僕は――
神奈川に着く前に雨は止んだ。
「新横浜」という車内アナウンスにふと伏せていた顔を上げたとき、ビルと電線とを縫って偶然視界に入った遠くの海は、やはり雪を積もらせたような白い空の下にあった。
あれから僕はまた、人が一生を終える一巡り程の時を経てまだこの世界で息をしている。
もう十分だと思える程には長い時間を生きて来たけれど、それでもまだ発狂するには月日は足りていないようだった。
いっそ何もかも分からなくなってしまえたらいいのに。
そしたらどんなに楽だろうと思うのに、幾度季節を繰り返しても、森羅万象が僕にそれを許してくれる日は未だ訪れない。
僕は自分が理から外れた生命であると理解しながら、それでいて性懲りもなくまた人の温もりに浸り続けて、大切だと思うものを今も繰り返し得ているのだから笑ってしまう。
ああ、風魔の里に着いたら、またあの海を見に行こう。
墓を掘ろうとして骨がなく、墓標を刻もうとして名前を知らなかった彼女のため、鎌倉の海の全てが彼女を包む棺なのだと僕が決めた。
そして僕は今でも変わらずに、あの日彼女が先に発ったその場所を、僕が血みどろになって求めても決して得ることの出来ないものを簡単に手に入れてしまった彼女の元に辿り着くことを、切望し続けている。
今は決して手を届かせることの出来ない水平線の彼方に、僕の夢は眠る。
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