彼女と出会った翌日に僕は風魔の里へと戻った。
 放浪していた幾日かの間にも風魔の里に住む皆には随分と心配を掛けていたようで、それはもしかしたら白澤という特種な存在を逃してしまったかもしれない焦りから来るものもあったかもしれないけれど、きっとそうではない者も少なからず居ただろうと思う。
 ああ、これが人の繋がりというものなんだな。
 一度交わってしまった関係を簡単に無かったものに出来るほど、人の心も記憶も浅くはない。
 それを人がしがらみと思うか絆と思うかは別にして、その時僕はそのことを知って、人の温かさを愛しいと思いながら、余計に人として生きることが怖くなってしまった。


 心の闇の少しをあの場所に落とすことを覚えた僕は、表面上は以前と変わらない里で暮らす日常に戻りながら、彼女の居る店に度々通いつつ以前に増して必死に死への道を探すようになった。
 彼女の店へ行ったときは何をするでもなく、ほんの少しの当たり障りない世間話をし、何より互いのくたびれた笑顔に安らいで、寂しさを共有して心の隙間を埋める。
 そうして僅かな休息を得ながら彼女は生きた時間を数え、僕は森羅万象を探す日々に戻っていく。

 隠の世に住む住人の僕ですらその闇を洗い流すことの出来る彼女の懐は、世の中とは表裏を成さない、もしかしたら世界のひずみとか狭間とか、そういうものなのかもしれないと思った。
 こうして息を吐くことを許してくれる彼女がここに在る内に、僕はきっと森羅万象を見つけよう。

 長い間生き過ぎてずれてしまった時間感覚の中で毎日が過ぎていくことを、僕は無意識にそうやって漠然と受け入れていた。
 永久という時間を知る僕にとって、彼女が過ごした時間なんて一瞬とも呼べるようなものだったし、彼女は僕が訪れることで彼女なりの時間を過ごし、そして暇つぶしのような人生を「生きて」行くのだろうと思っていた。
 けれど彼女にとって、過ぎていく時間との戦いはそう簡単なものではなかったのだと気付かされたのは、それから少しの後のことだ。
 有り余る膨大な時の量に堪えきれなくなって、終わりにしたいと先に口を開いたのは僕ではなく彼女だった。




 僕が店に足を向けるとき、彼女は決まってそこに居た。
 彼女は僕の顔を見ると、店の手前があるのかそれとも取り繕うことが苦手なのか、過度に明るく僕を迎え入れることもなかったけれど、いつも少しだけ照れたように笑った。
 僕はその笑顔を少し気に入っていた。

 酒を飲むこと、女性と話すこと、それを目的とした人間が集まる空間に居ながら殆どアルコールも口にせず、僅かにしか会話も成されない僕らの関係はきっと周囲にも不思議に思われていたし、僕ら自身でもいつも何処かその一時だけは特別なのだと感じていた。

 でも、僕らの関係はいつだって客と女給のそれ以上でも以下でもなかった。
 本当は互いに触れても構わないと思うくらいには近づいてはいたのかもしれないけど、けれどそうする必要もないと思っていた。
 僕らはもっと、人の営みを超えた何処か深い場所で繋がっているのだと信じていた。

 そうして二人の不思議な関係が続いていたある日、店に行くと、彼女は普段決して自分からは口にすることのない酒を初めて「飲みたい」と言った。
 顔を合わせたそのときからすでに彼女の口数は少なく、数日の間見ない内に少しやつれたようにも思った。
 何かあったのかと尋ねても彼女は何もないと答える。
「本当に?」そう追求をすれば、本当に何もない、何もないから疲れてしまったのだと言葉を紡ぐ体力さえなさそうに言った。
 僕はその言葉がごまかしじゃないなと、何となく素直に信じた。

 彼女はテーブルについてもそうして黙ったまま、ただ店の窓の外を見つめていた。
 けれど、その視線の先は僕と出会ったときのように人の波を追っているのではなく、もっとずっと向こう側の遠い場所を見ているようだった。

「何を見てるの」

「海、を」

「海?」

「この街並みを越えると、海があるでしょう?」

「そうだね」

「あの海で先日また、情死をなさった方が居るそうよ」

「心中……か」

「悲しい時代ね」

「人が命を絶つなんて、絶える話じゃないよ」

「いつの時代も悲しいのね」

 彼女はそう言いながら言葉とは裏腹に、海に消えた命と、それを包む海原を思って、まるで恋い焦がれているような口ぶりで言った。
 ああ、彼女はきっとこうして話を持ち出すことで、命を絶てる断崖に自分を連れて共に立ってくれる相手をずっと探していたんだな。
 僕が彼女に初めて会ったとき、あの暗い瞳でいったい誰を探していたのか、その相手のことと、僕がその目に捕らわれた理由がたった今分かったような気がした。

 そうか。
 ああ、そうか、そうだね。
 情死、情死か、悪くない。
 まったく悪くない。

 僕だってもう、いつ見つかるかも分からない森羅万象を探すことに、とっくに疲れてしまっている。
 海に身でも投げればもしかしたら、僕の肺は海水で満たされて機能を停止して、意識を失うことも出来るのだろうか。
 あの重たく世界にのしかかったような海の底で、酸素を得られない僕はそうして仮死状態のまま、眠るように彼女と共に大海をさ迷い続ける……。
 その時彼女の願いに魅力を感じたのは、本当に僕ら白澤に死は与えられていないのか、確かめたいという気持ちもあったのかもしれない。
 でも僕は、彼女の言葉に内包された真の願いをその場凌ぎの感情だとも思うことが出来ず、自分と同じように死に焦がれる姿に愛しさを感じたのは確かだっだ。

「――いいよ」

 僕は初めて彼女の手に自分の手を重ね、瞳のその奥を覗いた。
 彼女は切ないまでに破顔して、僕の手を握り返した。

 そして僕らはその夜、鎌倉の海へと向かった。