「お前に言われたからじゃねぇからな、止めるところをテメーが邪魔したんだよ」

「ええ、そうですね、そうでした」

 重いドアを開ける。

「――先輩」

「何だよ」

 その瞬間までまるで振り向く事もしなかった雷光は、ここに来てなぜか、宵風にしたのと同じように俺の腕にギッと爪を立てた。
 細い指からは想像もつかない、幼い頃から刀を握り続けてきた人間特有の握力だ。
 が、しかし――
 雷光は俺の腕に爪あとを刻み込んで笑う。

「これくらい、力を入れないと傷は付きませんからね」

 赤く充血はしたが、血は出なかった。
 言っているよりも力ないように感じられるのは、気のせいじゃない。
 そう、結局お前もそういうヤツなんだよ。

 皮肉な褒め言葉の裏に隠したいのは、何だ?

 誰への感情?

 誰への嫉妬?

 俺に力加減を分からせようなんて、とってつけたような言い訳だ。
 自分で宵風を追うように促しながら、思わずといったように俺を止めた、どうせそれがこいつの本音だろう。
 本人は気付いてもいないようだが、それが無意識であればあるほど、幼稚で、純粋で、憎むことが出来ないからタチが悪い。
 
 お前が追いかけたいのは、俺、それとも宵風か?

 どっちでもかまわねぇ。
 
 こいつはただ歪んでるだけじゃない、歪み過ぎて、一周して、結局誰よりも愚直だ。
 お前だって、何も自分のことを分かっちゃいない。
 そう、気付けないでいるなら、周りが分かってやるまでということか。
 少し笑って、捕まれた腕を逆に俺が指を食い込ませて引いてやった。
 痛くはないだろう、雷光が俺に与えたのと同じ力だから。

「先輩?」

「お前も行くんだよ馬鹿」

「……私も、ですか?」

「さっさとしないと置いてくぞ」

「あ、行きます」

 虚を突かれたように一瞬呆けた雷光だが、咄嗟に返って来た返事は素直で、本当は望んでいたのだろうことがすぐに分かった。
 屈託のない笑みは、恐らく後から付いてきた感情だ。
 ったく、嬉しそうに笑いやがって――



 アンバランスな関係。
 たった一つ要素が欠けただけで、不安定で居ることすら出来なくなる脆い俺ら。
 失ってはいけないものを失いかけている不安が今ここにある。
 一度瓦解したら何人も組み立て直すことも出来ない、入り組んだ関係の一構成である重み。
 ガキみたいに破顔した雷光の、イラつくほどに無邪気な瞳の色も、不確かなものばかりの俺の周囲を支えてきた一つのかけらだと思えば、無くしてはならないものなのだと思えもする。
 腕を引かれていたはずの雷光はいつの間にか、はしゃいだように前に出て、

「ほら、先輩、行きますよ」

などと急かしては、爪に残った赤色を握り締め、俺と共に走るこれからを想い馳せるのか、それともその先に待つあいつの姿を夢見るのか。

 どっちもだな。

 俺が宵風を失えないのと同じ。

 俺が雷光を失えないのと同じ。

 そう、こいつも。

 いっさいの翳り無く微笑み続けている雷光に「気持ち悪ぃぞ」と一言吐きつけたのを、スタートの合図に。

 失えないもう一かけらを探して、二人同時、全速力で階段を駆け下りて行く。