08

 それからしばらく手持ちぶさたに怪我人に備えていると、気が付けばそろそろ午前の練習が終わる時間になっていた。昼食の準備をしないと。円と合流して食堂に向かう。
「名前、みんなの名前覚えた?」
「氷帝と青学はなんとか。円がくれた紙のおかげだよ」
 そう言うと円は嬉しそうに頬を緩めた。立海と四天宝寺の分もあるらしい。ありがたい。
 食堂の扉を押し開くと、美味しそうな香りが鼻をくすぐる。くう、と可愛らしく鳴ったお腹に円は照れ笑いをした。
 つまずきそうになる円にはらはらしつつ、学校ごとに分かれた丸いテーブルに食器と水差しを並べて、出来立ての料理が盛り付けられた大皿を運ぶ。
 午後も練習があるから料理の数や量は控えめにしていると言っていたけれど、私からすれば十分多いように思えた。
 夕食は明日の練習に向けてスタミナをつけるために数も量も多くなるらしい。この量でも苦労したと言うのに。骨が折れそうだ。
「次はちょっとはやめに食堂来よっか」
 円の提案に頷いていると、扉が開いてぞろぞろと部員たちが入ってきた。お腹空いたと口々に言っている。私たちも氷帝のテーブルに向かう。
 生徒会長の軽い挨拶のあと、手を合わせた。
 左隣は円。右は例のおかっぱ頭こと向日君。彼は左利きらしく時折腕が当たってしまう。丸テーブルでは仕方がないことで、誰かが犠牲にならなければいけなかった。それが私になっただけ。
 さりげない動作で円の方に身を寄せると、何事もなかったように食事を続けた。テーブルの向かいから一瞬だけ視線を感じたけれど特に気にしなかった。
 午前中それほど動いていなかったことや、元々食が細いこともあって、すぐに満腹になった。ごちそうさま、と手を合わせる。
「名前もういいの?」
「うん、あんまりお腹空いてなかったし、もう十分」
 食事の片付けはしなくていいから、見上げてくる円に先に戻ってるねと告げると、各テーブルで賑やかに食事を楽しんでいる食堂を後にした。
 昼食のあと一時間ほど、食休みとして時間が設けられている。はやく食べ終わった分を合わせると、午後の練習が始まるまでまだたっぷり時間がある。ゆっくりしつつベースを弾こうと部屋に向かう。
 浮かんでくるフレーズをぽつりぽつり指で弾いていると、携帯が震えた。円から着信。
「もしもし?」
 携帯を耳に当てると、電話越しに涙声で名前を呼ばれる。
「円? どうかした?」
「……迷っちゃった、みたい」
 弱々しい声で告げられた言葉に、ああいつものことかと思った自分に内心苦笑した。完全に慣れてしまっている。
 どうして氷帝の誰かと部屋に戻らなかったのかと言う疑問はひとまず放っておく。迷える円を迎えに、ベースをベッドの上に置いて部屋を出た。
「今どんな場所にいるか分かる?」
 廊下を進みながら、円に問いかける。どこにいるのか分かれば迎えに行けるかもしれない。
「えっと、窓から中庭が見えるよ」
「それどこからでも見えるんだけど」
「じゃ、じゃあ、あっ、『最後の晩餐』の絵が飾ってあるよ。あっちの絵も見たことある! これ誰の絵だっけ、フェルメールかな?」
 さっきまでの不安そうな態度はどこへやら、興味津々に屋敷を歩き回っているようだ。好きに動かれたら余計に迷子になると慌てて静止の声をかける。
「ちょっと、円。無闇に動いたらだめでしょ、余計に迷う、って、聞いてる?」
「え、なあに? あっ、これ名前の好きな絵だよ! ゴッホの『夜のカフェテラス』!」
 忠告は届かず、電話の向こうの円は自由に歩き回っているようだ。それが迷子になる原因だと言うのに。
 思わず額に手を当ててどうしようか考えていると、あれ、と円が声をあげた。
「どうかした?」
「……ごめん、名前。部屋、着いちゃった」
 電話越しに申し訳なさそうに言う円に、次からは一人で出歩かないように釘を刺すと電話を切った。
 さて戻るかと後ろを振り向いた瞬間、あることに気付いた。
「ここ、どこ」
 いつの間にか知らない場所に立っていた。

top