09

 円との電話に気を取られて、なにも考えずに足を進めていたらしい。右手に扉、左手には窓がずらりと続く廊下に立ち尽くす。
 窓からは美しい中庭が見えるけれど、部屋を出たときの景色なんて覚えていないから見える庭から部屋を割り出すことはできない。
 また迷ってしまう可能性があるから円に電話することもできない。廊下の壁に飾られている絵は知らないものだ。
 事前に配られていた屋敷の地図を思い出す。半分に折るとぴったり重なるようなシンメトリーな構造をしていたように思う。確か中庭も二つあった。
 思わずため息を吐いた。迷子なんて何年ぶりだろう。迷子は円だけで間に合っている。
 下手に動けばもっと迷うかもしれないけれど、じっとしていても何も始まらない。最悪、午後の練習が始まるまでにテニスコートに着けばいいかと歩き出した。
 小さく鼻唄を歌いながら足を進める。迷子だということを抜きにすれば、さまざまな美術品の飾られた廊下や美しい中庭は心踊るものだ。
 通り過ぎる扉からは時折、僅かだけれど賑やかな声が聞こえる。
 円と私の部屋の近くでは特に他の声は聞こえなかったように思うから、一応男女で部屋は離しているのだろう。
 まだまだ部屋は遠いかと思いながら歩いていると、どこからか扉が開く音がした。 
「うわっ、」
 ふいに背中に衝撃。同時に後ろで小さな悲鳴とくぐもった何か割れる音が聞こえた。
 傾いた身体を支えて振り向けば、尻餅をついた少年と割れた花瓶。
「ごめん、大丈夫?」
 慌てて駆け寄って、尻餅をついたままの少年に声をかける。部屋から出てきた少年とぶつかって、その拍子に花瓶を落としてしまったというところか。
「おん、これくらい平気やで!」
 大阪の訛りで元気に答えた少年は、割れた花瓶を見つけると途端に笑顔を崩して大声を上げた。
「あああかん、割れてもうてる! どないしよ、オーサマに怒られる……!」
 オーサマと言うのはこの屋敷の持ち主である生徒会長のことだろうか。慌てた様子で割れた花瓶に触れようとする少年を手で制する。
 毛足の長い絨毯のおかげでそれほど破片は散らばっていないようだった。破片も大きい。取り敢えず拾い集めてしまおう。
「名字さんも危ないから触らんとき」
 聞こえた声に花瓶に触れようとした手を止めた。顔をあげれば四天宝寺の部長。名前は確か。
「白石!」
 そうだ白石君だ。彼を呼び捨てているということは、少年は三年なのだろうか。それはないか。
「なあ白石、わいどないしたらええ?」
「そら謝りに行かな。跡部君やったら、ちゃんと謝ったら許してくれるはずや」
 泣きつく少年を白石君は慣れた様子で宥める。まるで兄弟みたいだ。
「跡部君の部屋は分かるやろ? 片付けはしといたるから、はよ行ってき」
「おん、行ってくるわ! おーきに、白石!」
 白石君の言葉に泣きそうだった表情をころりと明るいものに変えると、そう言い終わらないうちに少年は駆けていった。引き留める間もなく、あっという間に廊下の彼方。
 少年に気付かなかった私にも、花瓶を割った責任はある。彼一人だけ怒られると言うのは私の気がすまない。
「生徒会長、……あー、跡部君の部屋ってどこ?」
 問うと、白石君は不思議そうな表情を浮かべた。
「追いかけるん? 名字さんのせいとちゃうんやから、別にええねんで」
「や、気付かなかった私も悪いし。あの子だけ怒られるってのはなんか納得いかない」
 そう言うと白石君は感心したような顔をして、生徒会長の部屋を教えてくれた。真っ直ぐ行って、一番大きくて豪華な扉。何とも分かりやすい。
「ごめん、片付け、よろしくお願いします」
 白石君に小さく頭を下げて、遠くの背中を追って走り出した。

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