最近になって気が付いたのは、俺はどうやらお人好しということらしい。加えて適応能力も極めて高いんじゃねェかということ。そうでなけりゃ今のこの状況をすんなりと受け入れられるはずがねェ。肌寒い朝、家の中に漂うのは香ばしい味噌の香りだ。

「まぁた冷蔵庫空っぽですよ、荒北さん。卵が一つもないだなんて、食生活どうなってるんですか」
「昨日ラスト一個だったんだヨ、バァカ」
「あ!そんなこと言うとおにぎり砂糖で握りますよ!」

生意気な口を利きながらも、楽しそうに台所に立ち作業をするのは、なまえ。こいつと俺の関係を説明するとなると、一言では言い表すことが出来ない。友達…ではねェし、知り合いっつーのもなんか違う気がする。ほとんど使うことのなかった来客用のカップに、熱い緑茶が並々と注がれている。

「できました〜。さ、食べましょ」

朝飯の準備、俺は茶を淹れることしかしていない。この部屋の住人は俺だが、別にこいつに作れと言ったわけではない。油揚げとネギのみという、簡単な味噌汁ではあるがその香りは食欲を誘う。俺だって味噌汁ぐれェ作るが、やっぱり違ェ。俺が作ったんじゃ、こんなにウマそうな匂いはしねェ。それに綺麗な三角に握られた握り飯。見た目からしてふっくらとしていて、ウマそうだ。中身は確か梅干しだとか言ってたっけか。本当は目玉焼きか卵焼きも作りたかったらしいが、生憎うちの卵は切らしている。昨日買っておけばよかったと、こんなに後悔したことはねェ。それでも俺は、この朝飯に十分すぎるほど満足していた。

「あのさァ、この間の浅漬けだっけ?あれどーやんの?」
「え、美味しかったですか?」
「…まァ」

そんなに楽しい質問はしてねェのに、こいつはとても楽しそうに、嬉しそうに浅漬けの作り方を教えてくれた。話の内容は勿論だが、俺はこいつの曇りない表情の方に、夢中になっていた。

「飯食ったらシャワー使っていいからァ。変なとこ触ンなヨ」
「変なもんあるんですか?」
「ハイハイ俺も準備しねーと遅刻すっから、遊んでられねェの」

泊める気なんてなかった。こいつがもう「そういうこと」をやっていないと知った昨日の夜、駅までくらいなら送ってやるつもりだった。「説教されたかった」らしいこいつは、あれからわんわん泣いて、泣いて、それから疲れて寝ちまった。誰かがあんなに、自分の目の前で声をあげて泣くなんて。俺がそんな風に泣いたのは、いつが最後だったか。そんなどうでもいいことを思った。昨日のこいつはとてもぼろぼろに見えて、ベッドに運び寝かせてやった。そんなわけで俺の買ったビールは、今もきちんと三本揃って冷蔵庫の中だ。やましいことをしようとかそんな気持ちはこれっぽっちも思わなかった。朝こいつも目が覚めた時、意外にもこの状況をすんなりと受け入れていた。もっと言えば、俺が起きるより前に飯を作っていた。勝手に台所を触られることに対しても、俺は何も思わずとりあえず茶を淹れたっつーわけだ。



どっちみち方向は一緒というわけで、駅までの道のりを隣で歩く。今この場を誰かに見られたとしても、大学の後輩だとか、適当に答えりゃいい。こそこそしてる方が神経を使っちまう。そんな風に思っていた矢先だった。

「あら、荒北くん…と、そちらは…」
「先輩…」

適当に答えりゃいい、だ?馬鹿野郎、今この時は、こいつとさっさと別れればよかったと思った。俺はつくづく運がない。

「…あ!この間の彼女さんかしら?可愛らしい子ね、初めまして、私…」

にこりと、いつもの自信ありげな表情で、俺の隣にいるガキに笑いかける。以前までの俺なら気づかなかっただろう。でも今は、今は分かる。この人の視線に含まれているものが。それはきっと、俺の勘違いじゃねェだろう。

「…ブス」
「………え?」
「私が嫌いな女。まずうるさいブス。どっからその自信が来るのか知らないですけど自己顕示欲が強くて、男に媚び売ってイライラする声で話す。学はあっても頭が弱そう。それから、人のこと値踏みする目で見るの止めてもらっていいですか?私のこと下に見てるんだって、バレバレで逆にかっこ悪いですよ。おばさん」

体温が、そう血の気がサーッと引くのを感じた。何か言おうにも、唇の端がひくつくだけで、声が出ねェ。何を言っても間違っているような気がした。隣のこいつは、ポーカーフェイスなんてものじゃなく、明らかに不機嫌そうな顔をしていた。

「な、何を…」
「おばさん、荒北さんのこと狙ってるって匂いがぷんぷんする。その香水もくっさいですけど」
「…て、てめっ」

ようやく出た声は、言葉と言えるものではなかった。10以上も年の離れた女、よりにもよってこの先輩にここまで言う、こいつの口を慌てて塞いだ。

「…生意気な子」
「…?」

先輩の呟いた言葉はよく聞こえなかった。だが明らかに先輩も、さっきまでとは違う雰囲気をまとっていた。

「私そろそろ行くわね、それじゃ。お嬢ちゃん」



どういう修羅場かと一時はハラハラしたが、とりあえず先輩が行ってくれて助かった。あの目は明らかに、敵意を含んでいやがった。まァあんな事言われたら当然か。…つーか。


「おい、さっきのアレ、何だよ…って、お前…」

駅前、通勤通学ラッシュのこの時間。そいつは人目もはばからず、ぽろぽろと大粒の涙を零していた。当然周りの視線は突き刺さり、俺は突然のことにぎょっとしてしまう。

「私は、あの人みたいになれないから。当たり前だけど私の知らない荒北さんをあの人は知っていて、すごく綺麗な人で、自信満々で…。私の方がずっとずっとブスで、ただの面倒な子供…あんな人、あんな、人なんか…」

途切れ途切れに紡がれる言葉は、支離滅裂で、うまいこと頭に入ってこない。こんなに人がいる中で、俺とこいつは一体何をしてるんだ。周りから見れば相当滑稽だろう。俺は、こいつのことを何一つ分かっちゃいなかった。こいつが全く何も思わず、けろっとあんなことを言えるはずがねェだろ。まだ二十歳だ。ビビッて当然だ。それにしても、たとえ気に食わない奴がいてもいきなり初対面なのに、あそこまで言うか?こいつが今途切れながらに口にしている内容が、真面目なものなら…。

『私の知らない荒北さんをあの人は知っていて…』

嘘だろ、冗談はよせ。調子に乗った考えはよせ、荒北靖友。まさか、だなんて思ってンじゃねェよ。不意にその細い肩を抱きしめたい衝動に駆られたが、そんなことはしねェ。ぎゅっと唇を噛み、理性を保つ。震える自分の右手に気づかない振りをして、クソガキの涙をそっと拭った。

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