がたんがたんと揺れる体、独特のにおい。普段なら特に気にもとめないのに、今日はそれらがとても不快だった。つまり、乗り物酔い。それが電車、公共交通機関だなんてついていない。何とか席には座れたものの、揺れがやけに気になる。隣に座っているおばさんの、香水と汗が混じったみたいな、酸っぱ甘い香りがまた気分を悪化させた。

(…つ、次の駅で降りよう)

目的地まではまだだったけれど、吐けと言われたら今すぐにでも嘔吐できる。そんな状態だったので、外の空気が吸いたかった。ひと駅がとてもとても遠く感じられる。まだか、まだかと思うけれどなかなか着いてはくれなかった。

アナウンスは耳にこれっぽっちも入らない。ドアが開いた瞬間私はふらふらになりながらも、ホームのベンチを目指した。冷えすぎた車内のわざとらしい空気より、やはり自然の風に限る。まだまだ田舎、とは言えない地域だけれど、つくられた空気より何倍も心地が良い。

「……う、」

倒れ込むかのようにベンチにかけ、鞄から水を探す。多分だいぶ温くなっていると思う。どこに入れたっけ、あれ。あ、あった。地面に置いた鞄から、ペットボトルを見つけてそれをなんの気なしに飲もうとした、その時。私の隣に人がいることを、今になって気がついた。

目が合った、というよりは、その人は初めから私のことを見ていたらしい。とても涼しげな目をしていて、綺麗な男の子。いきなりふらふらしながら、青白い顔で隣に座ってきた変な女。制服を着ているから、彼は高校生なんだと思う。手には青いブックカバーのかけられた文庫本。

「…君、その、大丈夫か」

彼の口から出た、控えめな言葉。他でもなく私に向けられたもので、だけど私はそれに対して気の利いた返事が出てこなかった。夏の暑さが乗り物酔いに拍車をかけて、目がかすんでしまう。ペットボトルを握る手に力が入らない。なにか返事をしなくちゃ、そう思って頭を一生懸命働かせる。

ぼとん、とまだ中身のたっぷり入ったペットボトルが音を立てて落ちる。「あ、」と辛うじてそういう声は出るものの、それを拾おうと身を屈めるとまた吐き気に襲われた。

「いけない、俺が拾おう」

すっと転がるペットボトルを拾ってくれたのは、隣にいた彼だった。少し長めの黒髪が頬にかかる。汗をかいているからか、首に少しだけ張り付いていた。

「…あ、ありがとう」
「いや、それより早く涼しい所で休んだ方がいい」

それから彼は私を駅員さんの所まで連れて行ってくれた。「中途半端なことをしてすまなかった」と、言いながら去って行ったけれど、そんなこと私は思わなかった。駅員室はとても涼しくて、迷惑だと分かってはいたけれど皆さんとても優しくて、乗り物酔いと熱中症気味だった私の体調は回復した。あのままベンチに座っていたらきっと悪化してそれこそ倒れていたと思う。だから、あの制服の彼がいてくれてよかった。

日の長い夏だとはいっても、もう空は茜色で時間の経過に驚いた。親切な駅員さん達にお礼を言って、自販機でまた水を買って、私はまた電車に乗り込んだ。



「美味しい!」
「よかった〜。この旅館とっても評判よくてね、あなたも気に入ると思った。到着が遅いから心配したのよ」
「ううん、大丈夫。ありがとう、お母さん」

母と二人で温泉旅行、の前にあんなことがあってどうなるかと思ったけれど、無事合流できてよかった。予約してくれていた旅館は予想以上に立派な所で、料理も雰囲気も素敵だった。夏野菜の天ぷらはさっくり揚がっていて、素材の旨みを活かしている。それなのに全然しつこくなくて、天つゆとの相性もばっちりで、料理へのこだわりを感じた。

「それよりよかったの?彼との旅行は…」
「…別れた」
「ま、」

全く悪びれる様子もなく、「あらまあ」なんて言う母の反応は有難いのかそうじゃないのか。私もそんなに、引きずってはいなかったけれど…いや、嘘。別れたって言っても私が振られたんだもん。それなりに引きずってる。母には言わないけれど。せっかく二人で旅行に来てるんだし、楽しまなくちゃ損。体調だってもう万全。そんなことを思って別れた彼のことを考えないようにした。



冷房はもちろんついているけれど、なんとなく眠れなくて部屋を出た。手入れされた中庭は、ぼんやりした灯りがともっている。藍色の夜に優しい橙色。宿泊客の姿は深夜ということもあってほとんど見かけない。山間の立地だけれど、やっぱり外は暑い。むわっとした空気、ぬるい風が頬を撫でる。

「…あ、つ」

備え付けの浴衣は知らない香りがして、非日常の今を盛り上げてくれる。せっかく温泉に入ったのに、また汗をかいてしまった。昼に比べれば全然マシだけど、流れる汗はあまり気持ちのいいものではない。首に髪の毛が張り付く。束ねてくればよかったかな。ふ、と空を見上げれば期待していた光景が広がっていた。満点の星空。晴れ渡っていて、無数の星たちが見える。星座なんて分からないけれど、ひとつひとつ光を放つそれに神秘を感じて、自分の目がもっとよければと思わずにはいられない。もっと星の光を見たいと思って、私は躊躇いなく旅館の外へと出た。中庭よりもそこは暑かった。それでも私はきらきら光る星たちを見たかった。

「…おや、」

誰もいないはずの夜に、静かな声がした。後ろから聞こえたその声の方を、そっと振り返る。暗くてよく見えないけれど、手にはぼんやり光る提灯を持っていた。この時代に懐中電灯ではなく提灯を持っているなんて、と思ったけれどその人物の着ていた羽織に、「東堂庵」という文字を見て納得した。旅館の見回りの人、かな。こんな夜に、暑いのにご苦労様です。

「こんばんは」

無視をするのもおかしなものなので、会釈と挨拶だけをした。「こんばんは」と柔らかな声が返ってきた。顔は見えない、だけど随分若い印象を持った。夏休みだし、学生のアルバイトかな?特に気には留めないで、視線を再び空へと向けた。何度見ても綺麗な空、こんな空、好きな人と一緒に見たかったな。なんて、くだらないけれどそんな風に思った。感傷的になりたくてここに来たわけじゃないのに、振られたあの人の顔が浮かんできてしまう。私は本当に好きだったのに。一緒に星を見たり、海に行ったりしたかった。そうじゃなくても、もっと一緒にいたかったのに。母の前では笑って見せたけど、一人になると思い出してしまう。あ、嫌だな。なんだか泣きそう。

「あの、眠れませんでしたか?」
「え、」

すっかり感傷的になってしまっていた私は、少し距離のある隣から聞こえた声で我に返った。きっと私が星を見ていたことを分かっていて、邪魔をしないようにかゆっくりと、静かな声でその人は話した。

「いえ、その、なんとなく外に出たくて」
「はは、お客様は冷房よりも自然の風の方がお好きですか」
「ええ、暑いけど、とても星が綺麗ですね」
「それはよかった」

話をするつもりはなかったけれど、彼のゆっくりとした、どこか人を惹きつける話し方に自然と返事をしていた。今人の顔を見たら、泣きそうになるのを分かっていたから彼の方は見なかった。暗くてよく見えないけれど、視線は彼の持つ提灯へ。彼の視線も私には注がれていないみたいだった。

「ごめんなさい、灯り、消してもらえませんか?」
「ああ、構いませんよ」

ぽろぽろと零れる涙は多分きっと見られていない。予想以上に暗くなって、先ほどよりも綺麗に星が見えた。それはとても素敵だけれど、私の気持ちはちっとも「素敵」じゃなかった。振られて落ち込んでいる、残念な女。こんなところで泣いてしまう自分が腹立たしかった。綺麗だった星も霞んでよく見えない。

「…あの、」
「………」

隣にいる彼から声をかけられたけれど、返事はできなかった。喉の奥がじんと熱くて、しゃくりあげてしまいそうだったから。いくら暗くて顔がよく見えないからといっても、初対面の人の前で泣くだなんて。この人も、私だって、困ってしまう。だから、聞こえないふりをした。

「…体調は、大丈夫ですか」

私の返事を待たずに発せられた言葉に、私は思わず彼の方を見た。暗闇に慣れてきた目は、なんとなくだけれど目の前にいる人物の顔を認識する。私は、彼の顔を知っていた。少し長い黒髪に、涼しげな目元。

「あなた、」
「すぐ分かりました。うちのお客様だったんですね」

あの男の子だった。昼間とは違う口調だったので、気が付かなかった。とても驚いたけれど、私はなぜか冷静だった。色んな気持ちがぐるぐると渦巻いていたからかもしれない。頬に流れた涙は生ぬるい風で乾いていた。

「昼間は、ありがとうございました…」
「いえ、大事に至らなくてよかった」

声は思ったよりも震えなかった。それでも、泣いていたということは知られてしまったと思う。

「余計なことだとは思うのですが、…泣いていたの、ですか」
「…なんだ、見えてたんですね」
「すみません…」
「…」
「……」
「…暑すぎて馬鹿になってるの」
「…え、」
「…私、彼氏に振られちゃって。だからって知らない人の前で泣くなんて、普段はしないのに。ああもう、やだ、なんだか私話しすぎみたいですね」

泣いていたことを見透かされて、恥ずかしくなって、言葉は駆け足。だけどどうでもよくなって、もう部屋に戻ろうと彼に背を向けて歩き出した。本当に、話しすぎてしまった。昼間も、今も、この子を困らせただけじゃない。せめて明日になったら、私のことを忘れてくれていたらいい。顔は、よく見えていたのかな。

「あの、」

後ろから、声がした。振り返ろうかと思ったけれど、また泣きそうになると思ってそれはしなかった。私、こんなに涙腺緩かったっけ。やっぱり今日は、馬鹿になっている。

「暑さのせいでなくても、俺はあなたと話がしたい。昼間見たとき、また会えたら、なんて思っていたと言ったら…俺を馬鹿だと思いますか」

20150804
「暑すぎて馬鹿になってるの」
story with 八坂 san
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