「エクスキュゼモア、ムッシュー」 飛行機の中で勉強したフランス語を、とりあえず口にしてみた。きっと通じると分かっていたから。長い長いフライトだったけれど、全然平気。正直身体は疲れていたけれど、時差ボケだって気にならなかった。 「へったくそやねぇ」 ほら、ちゃんと通じた。くるりと振り返ったその人は外国にいても長身な方で、だけどまだ猫背は直っていなくて、すぐに分かった。 「あは。久しぶり、翔くん」 「ん。メトロ、大丈夫やったん?」 「うん、なんとか微妙な英語で」 「空港まで行けへんでごめん」 数か月ぶりに会うというのにこの淡白な反応。周りに日本人は少ないって言っていたし、私との再会にもう少しリアクションしてもいいと思う。ということを彼に求めても無駄ではあるので、敢えて言わないことにした。なんにせよ私が彼に会えて嬉しかったのは本当だからそれでよかった。 「家、こっからすぐやから」 「うん、楽しみ。あ、ありがとう」 すっと、私のスーツケースを無言で持ってくれる彼。持つよ、とかそんな言葉を言わないところが、相変わらずだなあと思って笑顔が出た。夏のパリは思ったよりも暑くて、でも日本より当たり前だけど湿気はなくて心地良い気温だった。 「私エッフェル塔行きたいなあ」 「なまえちゃんはミーハーやねぇ」 「だって初めてだもん」 「ええよ、明日行こか」 「えー今から行こうよ、近いんでしょ」 「あかん。ろくに寝てへんのやろ」 「…」 久しぶりに会う恋人は、いつも通り過ぎて、本当にいつも通り過ぎて。だけどその優しさにしばらく触れていなかったせいか、それが妙にくすぐったかった。何気ない一言なんだろうけれど、とても嬉しくて仕方がなかった。 メトロの駅から10分歩いたか歩いていないかの距離に、翔くんの住んでいるというアパルトマンはあった。すぐ隣には噴水のある小さな公園。都会だけれど、閑静な場所にひっそりと佇む建物だった。エレベーターはなくて、スーツケースを一生懸命3階の部屋まで運ぶ翔くんにもう一度ありがとうと言った。自転車は速いけど、力はそんなにないもんね。と言えば、「運ばへんで」と怒られた。 「わー…殺風景だねぇ」 「必要なもんしか置いてへんだけや」 まあ予想はしていた様な部屋だった。白い壁に、少ない家具。海外、というのもあるだろうけれど、それにしても生活感の薄い部屋だった。 「あ、」 小さな机の上にぽつんと置かれた写真立ての中には、高校のインターハイの集合写真が収まっていた。翔くんの初めてのインターハイ。石垣先輩達と、そっぽを向いている翔くん。京伏のジャージが懐かしい。マネージャーだった私も隅っこの方に写っていて、なんだかこの一枚が眩しく見えた。まさかこんな写真を飾っているなんて思わなかった。 「…懐かしいね」 「…あぁ、その写真…。…せやね」 「翔くんまた髪坊主にしないの?」 「気ィ向いたらな」 「えー」 「なんやねん」 どうしてこの写真を飾っているのかなんて、野暮なことは聞かないでおこう。だけど石垣先輩には教えてあげようかな。きっと目をキラキラさせて喜ぶと思うから。あ、でも岸神くんは怒るかな?僕はいなかったんですか!って。そんなことを一人思うと、思わず笑みがこぼれた。 「なんか飲むやろ」 「なんでもいいよ、ありがと」 目の前にことりと置かれたのは、綺麗な透明のグラスに入ったオレンジジュースだった。暑かったから嬉しい。すぐに一口流し込むと、爽やかな甘酸っぱさが口の中に広がった。特にクセもない味で、とても美味しかった。 「翔くん、オレンジジュース飲んでるの?」 「…キミ好きやったやろ」 「え、うん…!わ、わざわざごめんね」 「別にたまたまや、気にしなや」 ジュースを自分からぐびぐび飲んでいる翔くんは、確かに記憶の中にいない。いつも健康に気を使っているし、飲み物も水とかお茶、たまにスポーツドリンクとか。基本的にそういったイメージ。そんな翔くんがわざわざ私のために(?)、お店でオレンジジュースを買ってくれている姿を想像すると、とても可愛くて仕方がない。一口一口をありがたく飲むことにした。 「翔くんも飲んだら?」 「ボクは水でええ」 「ふーん」 そう言って冷蔵庫から取り出したのは、緑色のボトルが特徴的な炭酸水。日本でもよく見かけるそれは、パッケージが可愛くて私も好きだった。翔くんって意外と可愛いものを選ぶんだなあ…。新たな彼の一面が見れて嬉しかった。ボトルごとそれを飲みながら、小さなソファ、私の隣に腰掛ける。私は日本でのこと、翔くんはフランスでのこと。本当に何ということはない話をしていくうちに、眠気が私にゆっくりと押し寄せた。どうやらその波に私は気が付かないまま眠っていたらしい。 「おはようさん」 目を開けると、太陽が燦々と輝いていた。夕方頃パリに着いて、翔くんと会って…それから、あれ?どうしたんだっけ。もしかして。 「どうしたん?まだ寝ててもええで」 翔くんのその言葉で確信した。そっか、私、寝ちゃってたんだ。オレンジジュースを飲んだことは覚えている。それ以降の記憶が曖昧。だけどしっかり寝ていたみたいで、身体はすっかり元気になっていた。何より大好きな人と一緒にいるからか、気持ちはそれ以上に元気で、早く外に飛び出したかった。 ◇ 「わー、メルシーしか分からなかったよ」 私がずっと行きたいと言っていた、シャンゼリゼ通りのカフェ。メニューは英語表記も置いてあるけれど、それもろくに見ないで翔くんに頼りっぱなしだった。注文は言わずもがな、全部翔くんがしてくれたわけで。なまえちゃんも住んだら、それなりには話せるようになるよって、簡単に言うけどねえ…。よく分からないけれど、翔くんのフランス語は上手らしい。物怖じしない性格だからか、堂々と(ちょっと偉そうとも言う)していて、店員さんの対応も他の観光客よりも優しかった気がする。 「翔くんこういう所よく来るの?」 「まさか。たまーにその辺の店行くくらいや」 運ばれてきた器は白地に薄いピンクの縁取り。その上にちょこんと乗せられている苺タルトは、私が注文したもの。メニューは文字だけだったし、ろくに見ていなかったので、その可愛らしさに思わず声が出た。 「かっ…可愛いいい…」 きゃー…、と瞬きするのも忘れてしまうほどに素敵なタルト。一緒に運ばれてきたカップには、美味しそうな紅茶。嗅ぎ慣れないその香りは少し甘酸っぱくて、ベリー系。ピンクがかった色も、視覚で楽しませてくれた。 「…あ、」 ぱっと顔を上げると、ストローをずずーっと吸う翔くんがいた。だけどケーキやマカロンは何もなくて、ただそれだけ。食事制限中…なのかな。彼の前にあるグラスの中には、しゅわしゅわと泡が浮かぶ透明な飲み物。表面にはミントの葉。それにレモンの輪切りが飾られていて、とても爽やか。こんな暑い日にはぴったり。 「レモネード?」 「ん」 「美味しそう」 「飲んでええよ」 「え、やったあ」 催促したみたいで申し訳なかったけれど、(実際飲みたかったんだけど)遠慮なく頂くことにした。ビー玉みたいに綺麗な氷が入っている。冷たくて、炭酸も強めで、美味しい。きゅっと喉に染みる。 「ありがとう、あ、そうだ」 「?」 フォークを手にして、タルトの一番上に乗っている小さな苺をぷすりと刺す。食事制限って言っても、ビタミンは必要だもん、いいよね。と自分に一瞬問いかけて。翔くんの口にぽん、と苺をくっ付けた。 「お礼にどうぞ」 「…」 あ、これ少し恥ずかしいかも。翔くんの表情が変わらないのが、これまた気まずいじゃない。レース中みたいにすごい顔でバク!!って食べてくれたらいいのに。あ、 「おおきに」 「…」 「まあまあ甘いで」 「そ、そう」 「レース終わったらボクもここのタルト食べよぉかな」 「え、」 「苺の」 小さな苺はもう既に彼のおなかの中。私は差し出したフォークをさっさと引っ込めればいいものを、いつまでも空中に留まらせていた。「なんや」と、私をその綺麗な黒い目で見つめる彼。会えなくても慣れちゃえば平気だって、正直思っていた。日本にいたって、メールも電話もできるし。だけどいざ会って、声を実際聞いて、一緒の場所で同じ空気を吸って。当たり前のことをすごく、今すごく幸せだと思ってしまった。どうして今なのかなんてよく分からない。夏の暑さに頭がやられているせいかな。今翔くんの顔をもう一度見たら涙が出ちゃうかも。そんな感傷的な気持ちを隠すように、私は苺のなくなったタルトを見つめていた。 20150503 forさなえ様 |