十五話


いつの間にか雨はやんでいて、雲の切れ間から青空が見える。蒸したような空気が私たちを包んで、爽やかとは言い難い。それでもしとしとと降る雨よりは、明るい気持ちになれる気がした。何も言わないで御堂筋くんは私の隣を歩いてくれる。

駅は歩いてすぐだった。まだまだここにいたいけれど、それはできない。新幹線の時間だって決まってるし、たとえ決まっていなかったにしても、どっちみち私のいる場所はここじゃないのだから。

「送ってくれて、ありが…」
「ん、御堂筋?」

さようなら、を彼に言おうとしていた私の言葉は第三者によって遮られた。呼ばれた名前は私じゃなかったけれど、声のした方を見やる。優しげな凛とした瞳で微笑んでいたのは、石垣くんだった。

「雨大丈夫やったか?俺、天気崩れる聞いとったからロード置いてきてん」
「…キモォ」
「それより、みょうじさんですよね?なんや偶然やなあ。今から帰りはるんですか?」

誰にでも好かれそうな石垣くんは、昨日と変わらず爽やかで、そして礼儀正しい。御堂筋くんはべぇっと舌を出して面倒そうに話しているけれど、なんだかんだで仲がいいような気がした。

「また会えたらええですね。今年やったら、俺まだあそこの高校おるんで!」

そう言って自分の歩いてきた方を指さす石垣くん。冗談でも、そんな風に言ってくれることが嬉しかった。私はできれば、冗談じゃなくて本当にまたみんなに会えたらいいなって、思ってる。だけど連絡先を聞こうとか、そんな風には思えなかった。彼らもそれは望んでいないし、きっと迷惑だと思うから。こうやって話をしてくれただけで、十分。楽しい思い出を一緒に作ってくれたんだもの。

「あはは、ありがとう。受験、頑張ってね。私多分またふらっと来ると思うから」
「いつでも来て下さい。あいつらにも言うときます」
「またまたぁ。でもほんとに、ありがとうね。とっても楽しかった」

まさか石垣くんにもまた会えるなんて思っていなかったから、落ち込んでいた気持ちが明るくなれた。もちろん帰るのは寂しい。それでも楽しくて、嬉しい思い出の方が大きいから。きちんとにっこり笑って「さよなら」を言わないと。暗い顔をしていたら、誤解を与えちゃう。

「はい。ほな、元気で」

私の乗る電車がホームに到着して、降りてくる人や乗る人で、ごった返す。私も行かなくちゃ。あれ、おかしい。二人の顔が滲んで見える。どうしてだろう。「さようなら」って、言って帰らないと、電車に乗らないといけないのに。

「さ、さよな、ら」

声は驚くほど震えていた。滲んでいたのは私の涙のせいだった。二人に気づかれていないといいんだけれど。くるっと振り返り、電車に飛び乗った。ぎゅうっと噛んだ唇が痛い。痛いけれど、そうしていないと今にも涙が溢れて止まらないと思った。

「みっ…!!」

後ろから石垣くんの声が聞こえたのは、気のせいだろうか。せめて手を二人に振ろうと後ろを振り返った。電車のドアが閉まる。

「石垣クン、デローザ、汚したらあかんで」
「おま…っ、は…!?や、俺、これ乗れへんし…」
『ー危険ですので駆け込み乗車はおやめ下さい』

淡々とした口調で車掌さんが告げる。だんっと大きな足音を立てて車内に乗り込んできたのは、御堂筋くんだった。彼の手は私の腕をつかみ、黒い大きな瞳は私の目をじいっと見ていた。

「ハァ…ッ。キミ、何泣いとんの」
「みどうすじくん、」
「キモイ別れ方せんといて」

掴まれた手から御堂筋くんの、指の感触が分かる。骨ばっていて、長い指。力がこもっていて、正直少しだけ痛い。こめられた力は、何かを意味しているの?

「なんで泣くん」
「…わ、かんない」
「やめぇや。ボクが泣かせたみたいやろ」

そんな風に言うけれど、口調に刺は感じない。泣いている私を庇うような形で前に立ってくれている。無意識かもしれないけれど、やっぱり御堂筋くんは優しいって、こんな時にも思った。

「…京都駅まで行くわ」

バツが悪そうな顔をしてみせたけれど、それ以上何も言わないでただ一緒にいてくれた。景色がどんどん移っていく。私の思い出も巻き戻されていくみたい。巻き戻されるけれど、同じ時間をもう一度過ごすことはできない。



「…送ってくれて、ありがとう」
「別に」

どうして御堂筋くんは今隣にいてくれるんだろう。あそこで、「さよなら」をしたつもりだったのに。私はそれを口にしたことで、気持ちよく京都と、あなたと「さよなら」できた気でいたのに。電車に乗ってきてくれた時、嬉しかった。心臓が、大きな音を立てた。優しい色の空気が、流れた気がした。

旅の中で私が感じたいろいろな色。桃色、緑色、朱色。ひとつひとつ思い出せる。あなたの色は、今も何かを感じているけれど、それが何色かは分からない。飴玉と彼が似ていると思ったけれど、それは私の気持ちにも、もしかしたら似ているのかもしれない。綺麗な色はついているけれど、口の中に入れてしまえば、それは消えてしまう。優しい色は、彼に似ていても、綺麗な色は、綺麗なものは、何でもいずれ消えてなくなってしまう。忘れられてしまう。その、色が消えていくさまに、私の気持ちは似ている。今とてもここから離れたくなくて、涙も出たけれど、毎日の生活の中でこの気持ちは薄れていく。悲しいけれど、多分本当。甘い味も、忘れてしまう。「おいしかったな」と心には残るけれど、きっとそれだけ。嬉しい楽しい「思い出」という、形ないものに酔ってはいけない。だからこの、今の気持ちもきっと単にひとつの「楽しかった思い出」で割り切れるはず。そのはずなのに、視界がまた霞むのはどうして。

「あり、がと」
「…さっきも聞いたで」
「うん」

きっと思い出の人になるなんてこと、分かってる。そんなこと分かってるのにとても心がざわめく。連絡先を聞きたい、と一瞬思ったけれどやっぱりそれは口に出せなかった。

「ほんとう、に、楽しかったよ、三日間」
「ん」
「また、会えるかなあ」
「もう交番は行かへんけどな」
「あ、ひどい」

冗談を言ってくれることが嬉しかった。今はぽろぽろ落ちる涙を見られているとか、声がうまく出ないとか、どうでもよかった。言葉少なに私をそっと見下ろす御堂筋くん。

「…泣いたら、あかんやろ。これから帰るんやから」

そう言って渡されたのは水色のハンカチ。丁寧に畳まれていて、ふわりと優しい洗剤の匂いがした。「やる」とそれだけ言われて、ぐいと押し付けられる。

「返さんでええから」
「……返しても、いい?」
「……知らん」
「さよなら」
「…さよなら」

そのまま後ろを振り返らないで改札を通った。ぎゅっと彼のハンカチを握りしめたまま。思えば旅の中にはいつだって御堂筋くんがいた。初めて会った時、私を助けてくれた。次の日会えて、嬉しかった。そして今日も、会えるなんて思っていなかった。今日も助けてくれた。たくさんたくさん、思い出をつくってくれた。たった三日。彼のことなんてほとんど知らない。なんにも知らない。彼も私のことなんて、何も知らない。だけど、知りたいと思ってしまった。思い出の人にしたくないと、そう思ってしまった。このハンカチを返したい。そしてもっと、もっと。できるのなら話をしたい。人目があるにもかかわらず涙は止まってくれなくて、はらはらと零れ落ちるばかり。

「みどうすじくん」

口をついて出たのは彼の名前。気だるげな視線、猫背、ぶっきらぼうだけど優しい声。笑った顔。全てが鮮明に思い出されて胸がつまる。こんな旅になるなんて、思ってなかった。大好きな、大好きな京都。次ここに来る時、嫌でもあなたのことを思い出してしまうじゃない。綺麗な色も匂いも、景色も、人も、何もかも、いずれはなくなってしまう。移ろい行くものだってこと、誰もが知ってる。それでも、それでも、あなたのことだけは、思い出にはしたくないの。あなたに感じた優しさの「色」が何色か、知りたい。だからきっとまた私はここに、京都にずっと、恋をする。


おわり