十四話


「雨、止まないね」
「せやね」

雲は重たく広がって、しとしとと雨を落とすばかり。観光客も随分減ってしまって、物悲しい雰囲気に包まれる。丁寧に巻いた髪の毛は、湿気で元に戻ってしまっていた。化粧もさっきトイレで確認してきたけれどやっぱり崩れていて、アイラインは滲んでいた。私の隣に立っている彼は先程と何ら変わらない表情で、灰色の雲を見つめている。私の変な態度に気がついていなかったのか、それとも気づかないふりをしてくれていたのかは分からない。だけど何も言われなくてよかったと、一人心の中で安堵した。だってまさか涙が滲むだなんて、そんなこと思ってもいなかったから。それを彼に悟られていなかった、というのはいいものの、気持ちはざわざわしたまま。どうしたって私はもう、もうすぐ、帰らなければ行けないのだから。ここにはもういられない、その当たり前の事実がぎゅっと私の胸を締め付けた。

「御堂筋くん、三日間ありがとう」
「…べぇつにボク何もしてへんし」
「そんなことないよ。お財布探すの手伝ってくれたり、こんな風に私の旅に付き合ってくれたり。すっごく楽しかったから、ありがとう」
「……」

返事はなかったけれど、唇を少しだけ噛んで、そっぽを向く彼は照れているように見えた。私の都合のいい解釈かもしれないけれど、本当にそんな風に見えた。だから全く嫌な気なんてしなくて、むしろ素の彼が見られたみたいで嬉しかった。

「ね、一緒に写真撮って」
「…写真?」
「うん」

一瞬「めんどくさい」という様な顔をしたけれど、彼は例の気だるい態度で承諾してくれた。理由も何も聞かなくて、「ここでええの?」と、言うので私はそれにただうんと答えた。



「…変な顔ぉ」

たまたま近くにいた老夫婦のご主人がシャッターを押してくれたんだけど、見事に私は目を瞑っていた。確認してもう一枚、と頼めばよかった。だけど生憎の雨に周りにいるまばらな人達もそれどころではない、みたいで何となく躊躇われた。

「う…知ってるよ」

何度見返しても私は目を瞑っていて、あまりにもいけてない。御堂筋くんは、そのままの御堂筋くん、だった。さすがにこれはちょっと…と思い、スマートフォンのインカメラを起動した。

「…何」
「……インカメ」

はぁとため息ひとつ。それでも彼は腰を屈めて、カメラに入ってくれた。にこりともしないで、だけどそんなのどうでもよかった。ぐっと近付いた距離に私の肩や頬が熱を持つ。…知らない、駄目、そんなの分からない。

思いの外綺麗に撮れたそれを間違うことなく保存。満足そうにする私を、少しだけ冷ややかな目で彼は見ていた。

「もうええ?」
「はい、ありがとう」
「何でそないに写真ばっかり撮るん」

深い意味なんてない、そんな抑揚のない声で彼は問いかけた。似たような質問を前にもされた気がする。御堂筋くんに。

「思い出を残したいから、だよ」
「………ふーん」

当たり障りのない、至って普通も普通な答え。何か反論されると思っていただけに、彼の淡白な反応に少し驚いた。だけど冷たい、とかひどい、なんてことは感じなくてむしろ居心地がいいと思った。今のこの、彼の隣が。柔らかな空気、私の大好きな京都の優しくて穏やかな空気。その空気は私が今「京都」にいるから、感じているのは勿論だけど何より御堂筋くんの隣にいるから感じているもの、だと思う。彼の発している空気には色がついているみたい。何色かと聞かれたら、……よく、分からない。清水寺で感じた桃色も、嵐山の柔らかな緑も、伏見稲荷の朱色も、本当は全部全部気のせいだったのかもしれない。目に見える色じゃなくて、感覚的な「色」。私が御堂筋くんに感じていた「色」はそういうもので、とても分かりずらいものだった。こんなこと、誰も分かっちゃくれない。だからもしかして私のこの感覚は、気のせいなんじゃないか、そんなことも少しだけ思った。だけど、だけど。

また喉の奥がきゅうっとなって、涙が滲んできそうになる。いやだな、こんなの。いきなり気持ち悪いよね。隣にいる彼は言葉を発そうとしない。雨音と観光客のはしゃぎ声だけが耳に入る。私は自分の小さな鞄へ視線を落とす。意図したわけじゃなくて、それはたまたまだった。

「…これ、」

かさりと音を立てて取り出したのは、昨日嵐山で買った飴だった。透明なころんとした手毬形に、溶けたリボンのような色とりどりの線が入っている。子供の頃に好きだった、ビー玉やおはじきのようで思わず手に取ってしまったもの。

「三日間お世話になったから、あげる」

自分のために、と買ったものだったので包装はごく簡単。特別高価なものでもないけれど、私の考えていたイメージを今一番具現化してくれている気がした。抽象的な、空気の持っている「色」。透明な手毬にすっと溶け込んだ色とりどりの赤や黄色が、こんな曇り空なのにとても眩しく見えた。口に入れてしまえばそれこそ溶けてなくなる。だけどその儚さが余計に魅力的に思わせた。

「いらん」
「あはは、言われると思った」
「君のやろ」
「お礼、だよ。それに何だかこれ、御堂筋くんに似てるかなって」
「ハア?飴とボク?意味分からん」

案の定不思議そうな顔をしているけれど、それには大して触れず、彼の手に半ば無理矢理飴を握らせた。払いのけるなんてことはなく、とりあえず手に収めてくれた。

「…いらんて」
「……あげるて」
「…真似すなや」
「あはは」
「…」
「……」

雨はまだ止まない。また私達の間には沈黙が流れる。息苦しくはなかった。

「まぁえええわ、おおきに」
「…うん、ありがとう」

私が彼に感じた「色」のことは敢えて言わなかった。言ったところで何になるわけでもなかったから。そうだけどまた、それを感じてしまった。何色かは相変わらず分からない。だけどやっぱり、柔らかな色。

「あまい」

いつの間にか袋を開けて、口の中に放り込みコロンコロンと音を立てる。「ふるーつ味」って書いていたけれど、ただあまい、だけなのかな。じっと彼の口元を見つめているとその視線に気が付いたのか、「ん」と私にも、一粒差し出してくれた。

口に含んだそれは、あまかった。ふるーつ味だと言われればそんな気もするし、違うよと言われても別に気にしない。よく分からないけれど、いちごの様な、ももの様な、お花の様な。とにかく、あまくて女の子が好きな味。だけどしつこくなくって、お上品な味がした。小さな手毬は口の中でゆっくり溶ける。ときどきコロンと転がしては、音で遊んだ。彼も私も無言で飴を舐めて、なんにも言わない。雨音がする。コロンコロンと音がする。

少しだけ小降りになって、どちらからともなく歩き出した。向かっているのは、駅の方。本当は行きたくないけれど、足は止まらない。隣をまだ御堂筋くんは歩いてくれている。駅まで、送ってくれるのかな。そんなことは聞かない。どうしよう、寂しい。口の中に溶けて消えた飴の味はもう忘れてしまっていた。