七話


すっと空へと伸びる竹の中にいると、不思議な気持ちになる。お茶なんかのCMでよく見る竹林の道は、都会の中にはないもので空気も美味しい。人こそ多いけれど時間が止まったみたいにのんびりとした空間だと思う。何枚撮ってもそんなに変わりはしない竹の写真を撮る手が止まらない。写真なんかより、そこにいる時は本物を感じたほうがいいのは分かっている。だけど、やっぱりそれでも残しておきたいと思う。ふっと周りを見渡してみると、みんな一緒に来ている人と写真を撮っている。外国の方も多くて、みんな嬉しそうな表情。普段あまりそんなことはしないんだけれど、なんとなく一枚だけスマートフォンのカメラで自撮りをした。…お母さんに送ろう。

行きたいところにはある程度行ったので、当てもなく嵐山周辺をぶらぶらしてみることにした。日差しはあるけれど、冷房の効いたところよりも外にいたい気分だった。歩きやすい靴を履いてきてよかった。竹林の辺りには、趣のある茶店やお土産屋さんがぽつりぽつりと立ち並ぶ。ちりん、と鳴る風鈴の音がとても心地よい。


「わあ、綺麗…」


少し先を行くだけで、人がこんなにも少ないとは思わなかった。確かにこの辺りには目立った場所はないから、みんなあまり来ないのかもしれない。こういうひっそりと素敵な場所を見つけたときは地元でもわくわくするし、旅先ならなおのこと嬉しかった。人は少ない遊歩道とはいっても、道はきちんと整備されていて歩きやすい。おそらく野生の花が小脇に咲いていて、その控えめな姿がとても可愛らしかった。そんな綺麗な景色に夢中になっていた時だった。穏やかな空気が変わる感覚がした。なんという言葉で表現すればいいのか分からないけれど、空気が揺れた。その表現が一番正しいかもしれない。

私が感じた感覚は間違っておらず、そう感じた次の瞬間目の前を走っていく何かが見えた。体に感じるのは、風だった。それは自然のものではなく、人によってつくられたもの。その「何か」を目で見て、頭で理解したのはそれが通り過ぎてからだった。

「じ、自転車…?」

綺麗な色の服を着た数人が、颯爽と駆け抜けていった。それが何人でどれ位の年の、男なのか女のかも分からなかった。その人たちがつくっていった風を私は確かに感じた。そういえばさっき、何人かランニングをしている人を見かけた気がする。ここは地元の人のトレーニング場所なのかもしれない。この綺麗な景色の中に現代的な、あの細いフォルムの自転車。その形を私は知っていた。あの不思議な男の子、御堂筋くんもそれに乗っていたから。

ここは上り坂。それなのにあの人たちは、私からしたら信じられないようなスピードで上っていた。どんな人が乗っているんだろう、こんな素敵な場所を走れるなんて、素敵だなあと、色々な考えが頭をめぐる。そういうスポーツ用の自転車があることは知ってはいたけれど、実際走っているのを見たのは初めてだった。


「…あれ?」


ぼーっと自転車が上って行った先を見つめていたら、その後ろを焦った様子で走る人がいた。その人はさっき上って行った人たちと同じ薄紫色のジャージを着て、あの自転車を押していた。大人びて見えるけれど、そのジャージには「京都伏見高等学校」という文字があり、年下だと分かった。高校の部活、なのかな。私のいた高校には自転車部なんてなかったから、珍しくて思わずじっと見てしまった。でもどうして一人だけ離れて上ってるんだろう。…え?その膝を見ると生々しい傷があり、彼の表情は痛みと上ってきた苦しさが垣間見えた気がした。赤い血が膝を伝ってだらだらと流れている。こんなに細い車輪の自転車に乗って、転倒することを想像しただけでも痛かった。

「やばいな…」
「あ、あのっ」
「…?」
「あなた、それ…」
「ん?ああ、大丈夫ですわこんなん。お姉さん観光の方やろ?気にせんといて楽しんで下さい」
「でも、えっとよかったら私絆創膏くらいならあるから…!さっきの人たちも一緒なんでしょ?」





さっき買った水、まだ飲まないでいてよかった。水道のないこの辺りで彼の膝を洗うのには丁度よかったから。どうして自分が今こんなことをしているのかはよく分からない。だけど私に親切にしてくれた京都の人に、私も何か恩返しをしたいとか、そんなことを思ったからかもしれない。私のことを助けてくれたあの彼もまた、こんな自転車に乗っていた偶然を思い出して思わず笑みがこぼれた。

「…ど、どないしたんですか?えーっと…ほんま、すんまへん」
「いやいや、なんでもないよ!井原くん?だっけ。私昨日京都に来たんだけどね、それでお財布をなくしちゃったの。その時ここの人がすごく優しくしてくれたから、私も何か返せたらいいなーって…お節介だったらご、ごめんね!」
「や!そんなことありまへん!助かりましたわ、あ…でもみょうじさんの水…すんまへん俺今金持っとらんくて…!」
「え、いいよいいよそんなの。気にしないで、なんだか逆にごめんね。これからどこまで行くの?」

井原くんは高校の自転車部で、もうすぐインターハイがあるからそれに向けて練習の真っ最中らしい。こんなところで練習ができるなんていいね、と言うと普通っすわ、と返ってきた。この景色が見慣れたものだなんて、羨ましい。私が引き留めたみたいになっているけれど、(実際そう)どうやら彼のチームメイトたちはもうすぐ同じ道を下ってくるそう。そのときに合流するつもりだから大丈夫、と言っていたけれど怪我をした仲間を置いていくなんてひどい、と少しだけ思った。

「寂しくなかった?」
「置いて行かれたことが?んー、ロードレースいうんはそういうスポーツなんですわ。それにうちのエースは特にそういうとこはシビアで…」
「そうなんだ…でも、すごく速くて、かっこいい乗り物なんだね。私初めて見たよ」
「はは、そうでしょ!めっちゃかっこえーんすよ。まあみょうじさんが見たのは俺やのうしてうちの連中の走りなんやろうけど」

道の脇のベンチに腰掛けて数分だろうか。先ほど感じた空気の揺れと音。それはもちろん井原くんも感じたようで腰を上げる。少し先にさっきの自転車の集団が見える。井原くんと同じ色のジャージ。嬉しいはずだろうに、彼の表情は少し緊張気味だった。私は邪魔にならないように、彼からそっと距離をとった。

きゅっと彼の前で止まった自転車。数台そろうとその迫力は走っているときとはまた違うものがあった。

「いはらっ…「…井原クゥン、こないなとこでゆっくり休んどったん?追いつく言うたのはどこの誰やったっけぇ?チームの輪ァ乱さんでくれるかいな?」

自転車に乗った一人が彼に心配そうな声をかけたかと思ったら、一人背の高い男の子がゆらりと自転車から降り、井原くんの目の前へとやって来た。…その声に、私はどこか聞き覚えがあった。