short | ナノ

外は静かに雨が降っていた。どんよりとした空は灰色。それが起因しているかどうかは分からないけれど、私の気持ちも確かに沈んでいた。狭い部屋に二人、息苦しくてたまらない。



「来週だね。…楽しみ?」
「うん、やっとだ。すっげえ楽しみだよ」

彼の気持ちは今更聞くまでもなかった。分かっていた、私は誰より、分かっていた。にっこりと笑って、もう大方終えた荷物の整理をする誠二。私はその背中を、ただぼんやりと見ている。部屋はすっかり殺風景で、この部屋の主がいなくなるという現実を受け止めざるを得ない。

「ドイツ語話せるの?」
「なわけない、一応これ。いーだろ」

そう言って分厚い辞書を見せてくれた。傷みの全くない、綺麗なカバーはまだ全然使われていないことを感じさせた。空はこんなに曇っているのに、誠二の声はいつもと変わらず爽やかで、明るくて、どうしてそんな声が出せるのって一人卑屈になった。私がそんな気持ちになったところで何かが変わるわけではないけれど。

「部屋、何にもなくなっちゃったね」
「おー」
「寂し、い?」
「…まあな」

段ボールに詰め込まれていたのは、可愛らしい包みや封筒。これらはきっと全部女の子からのプレゼント。誠二に女性サポーターが多いのなんてずっと前から分かっていたし、慣れたつもりだった。だけどやっぱりそれは、無理やり慣れた気になっていただけなのだった。嫌だな、なんてこの期に及んで思ってしまう自分の器の小ささが憎らしい。誠二がモテるのなんか、昔からじゃない。私だって誠二に憧れていた大勢の中の一人だったから、彼に向けられる気持ちが分からないわけじゃない。むしろ痛いほど分かる。だからこそ嫌だった。その箱の中はどうするの?持っていくの?なんて聞かないけど。

「本当にもうすぐ、なんだね」

言いたくはなかったけど、言っても言わなくても誠二がドイツに行ってしまうという事実は変わらない。誠二は背中を私に向けたまま。今どんな顔をしてるの。私はきっと、すごくひどい顔をしていると思う。返事は返ってこない。時計の針の音が、何もないこの部屋に妙に響いて聞こえる。ちくたく、ちくたくと規則的な音が雨音と共に鳴っては消える。外の雨はまだ止みそうにない。私の気持ちは落ちたまま。

「いつ帰ってくるの、」

疑問符はつけなかった。まるで独り言のように言ったその言葉を後悔した。引き留めるなんてみっともなくて重たい真似、したくなかった。そんなつもりは微塵もなかったけれど。誠二がサッカーと私を比べるなんてこと、してほしくなかったしそんな彼の姿は見たくなかった。彼に限ってそんなことはないだろうけれど。本当にもし、「もし」の話。私のそんな声は聞こえていないかもしれない。私は彼のベッドの上に座り、じっと下を見ることしかできない。息苦しい。

やっぱり返事は返ってこない。見慣れた背中がとても遠くに感じる。昔から遠かった背中に、やっと近づけたと思っていた。いつも私が背中を見ていた。誠二は私の背中を「追いかける」なんて考えたこともないかな。私はいつだって追いかけるのに必死だった。

「みんなさ、色々言うんだ」

ずっと黙っていた誠二が動きを止めて、背中を向けたまま話し出した。さっきまでの明るい口調じゃなくて、とても真面目な、静かな声。彼の発する言葉ひとつひとつが耳にしっかりと入ってくる。

「応援してくれる人は勿論たくさんいた。けど場違いだ、無謀だとか、そういうのもたくさん聞いた。あと、行かないでくれっていう、声も」

喉の奥がきゅっと熱くなるのが分かった。私だって心のどこかで言いたいと思っていたから。だけどそんな言葉を口にしてしまったら、誠二の足枷になる。誠二はそんな人じゃないって、サッカー選手の藤代誠二、っていう人だって分かっているけれど。

「寂しい、行かないでほしいって。日本じゃ駄目なの、なんてさ。ファンの女の子とか子供とか、泣き出してまでそんなこと言ってくれた人もいて、」
「うん」
「けど日本じゃ駄目なんだ俺。だから誰に何と言われようと、ヨーロッパに行くよ」
「うん」

大丈夫、大丈夫だよ。誰も誠二を責めたり否定したりしない。誠二の気持ちは分かるから。サポーターのみんなも、チームのみんなも、みんな、みんな誠二のこと本当は分かってるよ。きっとそうだよ、寂しいんだよ。ただ誠二が遠くに行ってしまうことが寂しいだけ。私だって本当はそう。

「俺さ、お前に行かないでって言われたらどうしようかと思ってた」

その言葉に思わずどきりとした。私のみっともない気持ちが、真っ直ぐな誠二の目に見透かされてしまったような気がしたから。私の方に振り向いた誠二の顔は、少しだけ辛そうに見えた。気のせいかもしれないけれどほんの少し、眉が下がって弱気に見えた。嫌だ、そんな顔しないでよ。どんなに相手が強くたって、試合中の誠二はいつだって笑顔で楽しそうで、そんな、そんな顔しない。これから出発しようっていうのに、駄目だよ。私なんかに弱さを見せちゃいけない。

「正直なまえに引き留められたらちょっと迷ったかもしんない。そんな生半可な気持ちじゃなかったけどさ。…お前、頑張れって一番に言ってくれたよな」
「…だって、そんなの」
「絶対結果残すよ。藤代誠二はすげーんだって、みんなに認めてもらいたい」
「誠二、」

喉が熱くて、息ができない。涙は我慢しなくちゃいけないのに、目の奥にもじんわりと熱がこみ上げてくる。時計の音なんて、聞こえない。誠二の目は怖いくらいに真っ直ぐで、弱さも揺らぎも、もう感じられなかった。

「頑張れとか、たくさん言われた。けどお前の頑張れ、が一番効いたよ。頑張るから、俺」

その言葉で、表情で、堪えていたもの全てが溢れ出た。私だって本当は、誠二が想像できないほど寂しい。かっこ悪く泣き喚いて、行かないでほしいって言いたい。寂しいよ、誠二。すぐに会えないのは嫌だよ。お前馬鹿だなあって笑って、かっこよくサッカーしてるとこ見せてよ。その手で抱き締めてほしい。優しく名前を呼んでほしい。触ってほしい。隣に、いてほしい。だけどそんなの全部全部私のエゴだ。

「見送り、来て」
「当たり前のこと、言わないでよ」
「はは、そうだよな。ごめん」
「ごめん、じゃないよ…」
「………」

我慢していたはずなのに、堪えきれなくなって頬を流れる涙は止まらない。流れても流れても、とめどなく熱いものが溢れてきて喉もつまる。言葉が出なくて、誠二を見つめているのに、ぼやけて見えない。

「…泣くなよ」
「せいじ、」
「俺さ、お前と離れんのは…寂しいよ」
「…誠、」
「けど、行くよ。俺もお前も、もういい歳で、夢ばっかり見てらんないって分かってる。けど、ガキの頃みたいに、武蔵森の頃みたいに、上ばっかり見てたいんだ、これからも。無責任かもしれないけど……待っててほしい。他の誰かじゃなくって、なまえに」

そんなの、ずるい。自分ばっかりかっこつけて、そんな目をして。私が断れるわけないじゃない。こくりと、本当に小さく頷けば、優しくて温かいこの世で一番安心する腕の中にいた。誠二の匂いがする。ずっと隣にいてくれた人。熱い涙が頬を伝う。こんなにも悲しいのに、寂しいのに不思議と心は満たされていた。抱き締め返す腕に力がこもる。少しだけ痛い、だけど離さないで。もう少しだけ、今この時間だけは、離さないでいてほしい。

「雨、やんだら散歩行こうよ」

全然やむ気配なんかないのに、そんなことを言う誠二の声は少し、震えていた。


20150611
▽「僕の知らない世界で」様に提出
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