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綺麗な字だった。こんなことを言ってはとても失礼かもしれないけれど、私の予想とはおおよそ外れていたから、ひどく彼の丁寧な字に見入ってしまったのを覚えている。なんてことはないプリントへの記名。ただそれだけ。つまりは「藤代 誠二」という四文字だけなのだけれど、それだけで彼は丁寧な人物だとそんな風に思った。私というのはなんとも単純な思考の持ち主だ。自分の字があまり好きではないからいっそうそう思い、羨ましくも思った。

「字、綺麗だね」
「え、みょうじ先輩の方が綺麗っスよ」
「そんなことないよ。私の字へにゃへにゃだし」
「部誌とかすっげー丁寧で、見やすいっスよ」
「………」

お世辞だと分かっていてもこんな言葉で喜ぶ自分が嫌だ。単純で幸せでいいのかもしれないけれど、今はどうもそんな風には思えなかった。私からすれば彼の文字の方が、こういう言い方は妙だけどとても自然で、だけど洗練されているようで綺麗だと思った。私の書く文字は、なんだか自信なさげでやっぱり嫌いだった。

藤代くんは誰にでも優しくてヒーロー性があって、サッカーは文句なしにうまくって。武蔵森だけじゃなくて他校にもファンがいるすごい男の子。そんなスーパーヒーローの彼が、こんな私の字を褒めてくれた。たかが字、されど字。自分の好き嫌いを抜きにすると、自分の分身を褒められたみたいで正直とても嬉しかった。だけど素直にありがとう、となぜ言えなかったんだろう。私って、可愛くないな。

「あの、藤代くん」
「…?はい、」
『レギュラー集合!!』
「…呼ばれてるね」
「…はい、えっと、」

もういいの、何でもないから、行ってきなよと中途半端な笑みを向けた。藤代くんは私のことを気にして何度か振り返ってくれたけど、私はそれに手を振って送り出しただけ。彼の背中にずっと嘘くさい笑顔を向けていた。今の私、絶対変な顔してると思う。

正直言うと、さっき呼びかけたものの何を言おうかなんて本当に考えていなかった。だから監督に助けられた、と言ってもいいかもしれない。監督が召集しなかったら、私は何を言っていたんだろう。何を彼に伝えたかったんだろう。



「今日の先輩、なんか変じゃなかったスか?」
「先輩、って誰だよバカ」
「みょうじ先輩」
「…あいつ?そうか?別に、普通じゃね?」

駄目だこれは。三上先輩なんかに聞いた俺がバカでしたと言えば、頭を殴られてしまった。仮にも俺、このチームのエースストライカーなんだけど。とにかく、誰に聞いても別段代り映えしない答えばかりが返ってきた。あの渋沢キャプテンでさえも、彼女の様子はいつも通りだとそう言う。俺だって人の感情に敏感な方では決してないと思う。だけどなぜだろう、今日のみょうじ先輩はいつもと何かが違う気がした。

「思い悩んでるというか、なんだか元気がないような…」

生憎俺は超能力者でもなんでもないため、人の心を読んだりなんかできやしない。みんな気がついてないみたいだけど、今日の彼女は絶対何かが違うんだ。俺の直感。それを考え出すとまさにそのことしか考えられなくて、いまいち練習に身が入らなかった。得意なPKだって、いつもより外しまくってキャプテンに心配された。変なのはお前だろって、三上先輩には笑われてしまった。違うんだ、俺はいつも通りなんだ。ただ、彼女のさっきの感じがずっと気になって仕方がなかっただけで。



藤代くんは何も考えてなさそうだなんてよく言われているけれど、そんなことはないって私は思う。何も考えていない人があんなに正確なキックを打つことはできない。試合中の真剣な表情を見ればそんなこと、言えるはずがなかった。実際にプレーをしたことはない私だけど、藤代くんは本当は誰より周りを見ているんじゃないのかな。だなんて、彼からすれば俺の何が分かるっていうんだ。って感じだけど。

練習が終わって、まばらに解散して行く部員達。後輩マネージャーの子達がなんでもてきぱきとこなしてくれて、私の仕事はごくわずか。部誌をいつものように書くだけ。今日はなんだかいつもよりぼんやり過ごしてしまって、部員達の反省というよりは、私自身の反省の方が随分多い気がする。

「…ひどい字」
「また言ってる!」

頭の上から聞こえた声は、間違いなく私に向けられたものだった。思わず見上げるとにっこり笑う後輩。泣きぼくろが印象的な彼は、私の今日の悩みの種ー…かもしれない。

「先輩、さっき何か言いかけてましたよね」

よいしょ、とベンチに座っている私の前、つまり地面にあぐらをかく藤代くん。本当に何でもないことだったのに、わざわざそれを聞きに来てくれたの?やっぱり藤代くんは、細やかな人だ。あの字と同じ。彼自身、丁寧な人。私は、私はどうだろう。部誌に書いた字を見つめる。

「ほんとに、よかったのに」
「先輩、元気なさそうだったから。てか、今も。何かあったんスか…?」

いつもの明るい声音だったけれど、どこか遠慮がちにも聞こえた。元気なさそう、だって。誰にもそんなこと言われなかったのに、藤代くんは変だよ。私自身元気なつもりでいたのに、そんな風に言われたら弱音を吐きたくなるじゃない。

「…何も、ないよ。それより今週、試合じゃない。早く休んだ方がいいよ。私ももう、寮に戻るから」

にっこり笑って立ち上がった。座ったままの藤代くんは何かまだ言いたげだ。だけどそれに気がつかない振りをして、また明日と声をかけた。彼に悪いところなんてない。私だって、何か大きな失敗をしたとか、そんなこともない。ただ、彼の字を見て、彼の人への気遣いを感じて、羨ましくなってしまった。何でもできて、みんなから慕われて尊敬されている彼のことが。私には行けない場所に、彼は今居る。こんなどす暗いタールの様な気持ちを、彼は分からなくていい。誰にも知られたくない。

「っ先輩、ペン貸して!」

え、私が声を出すより前に彼は私の手からボールペンを奪った。そしてぐっと私の左手を掴み、書きにくそうに何かを記している。

「ちょ、手のひら、くすぐったい、」
「ーーーーーよし!」

もぞもぞした感触からやっと解放され、おもむろにその手のひらを見た。そして目の前にいる藤代くんにも目を向けた。交互に見て、意味が分からなくて困惑していると、それを見かねたのか彼が口を開いた。

「アドレスと、電話!俺の!」
「…み、見たら分かるんだけど」
「…だから、そのー…あれっスよ。何かあったら、メールでも電話でもしてきて下さい、……いや、俺からもするんで相手、して下さい」

じゃ、また明日!と元気よく走り去って行った藤代くんは、私の返事を待ってはいなかった。拒否、という選択肢は私にはないのかもしれない。手のひらに書かれた字はへろへろで、お世辞にも綺麗とは言えないミミズのような文字だった。


20150531
Title by 深爪
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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