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初めて自分で買った化粧品は、ピンク色のグロスだった。口紅、というものはなんとなく大人がするもので、幼かった私にはそれを手に取るのは躊躇われた。だけどグロスはキラキラしていて、キャンディみたいに甘い香りがした。色付きリップクリームの延長程度に感じていたけれど、それを持っているというだけで自分が少しお姉さんになった気がしていつも肌身離さず持っていた。制服のポケットに小さな手鏡なんかも入れて、放課後は口にさっと、だけど丁寧に塗った。

淡いピンク色の口紅に、ラズベリー色のグロスを重ねた。この二つの組み合わせが好きで、だけどいつもはしない。特別な日に使いたくなる化粧品って、きっと女の子なら誰しも持っているんじゃないかな。さっき確認したばかりだというのに、またハンドバッグから鏡を取り出す。うん、大丈夫。崩れていない。


「なまえチャアン」
「あ、」

ぱたんと鏡を閉じたのとほぼ同時に声をかけられた。その声は私がずっと待っていた人のもの、とても大好きな人のもの。「悪ィ遅れた」と言って私の手を自然に握る。シャイな人だと思っていたけれど、それなりに女の子の扱いには慣れているみたいで驚いた。私は荒北先輩が初めての恋人…だけど、きっとこの人は違うんだなんて考えると少しだけ切ない気持ちになった。

「どうかしたァ?」
「いえ、えっと」

隣を歩く先輩の顔をちらりと盗み見る。すっと通った鼻筋、長い下まつげ。何に対してもさほど興味がなさそうにも見えるその目つき。だけど部活には一生懸命で、誰より真面目。高校時代のことは詳しく知らないけれど、『野獣荒北』なんて言われていたみたい。あ、でも元ヤンだったっていうのは、知ってる。(アルバムを先輩の友達に見せてもらった)

「さっみィ」

春休みに入ったものの、まだ風は冷たくて上着を片付けることはできない。温かい日もあるけれど、今日みたいにとても寒い日もあって、寒暖差はどうにかしてほしいと思わずにはいられない。しばらく歩いたけれど、体が温まるどころか体感温度がどんどん下がって手も顔も冷たい。ただ熱を持っているのは、先輩に握られている左手だけ。

「あれ、あのアパートです」
「へー、俺ンとこより綺麗ダネ」
「あ、そうですね」
「否定しねーのかヨ」

寒空の下先輩を迎えに行ったのは、私の家に初めてお招きするため。先輩は自分で行くからいいって言ってくれたけど、少しでも一緒にいたくて外に出た。少し寒さで鼻を赤くした先輩がなんだか可愛い。普段の部活の時やキャンパス内で見かける時の先輩とは、なんとなく違って見えた。

「上がってください」
「邪魔すんねェ」

靴を私のパンプスの隣に、綺麗に並べて家の中へと上がる先輩。当たり前のことなんだけど、それを自然にやってのける先輩が素敵だと思ってしまう。盲目だというのは百も承知だからあえて言わないけれど。ごちゃごちゃしていない、シンプルな色味とデザインのスニーカーが先輩らしくてお洒落だなと思った。家の中も寒いけれど、風の冷たい外よりは何倍もマシだ。暖房を入れて、部屋の中を軽く見渡す。昨日一生懸命片付けをしておいてよかった。

「なまえチャン、これ落ちってっけど」
「え、あ。私のリップ」
「俺も持ってんヨ、ソレ」

きちんと片付けたと思っていたけれど、どこかにころんと落ちていたのだろうか。変なものじゃなくてよかった…いや、変なものなんてそんなに無いけど…。メントール系のシンプルなリップクリームは、家でも外でもよく使うリップだ。男の子でも確かに使っている人をよく見かける。先輩もこれを使っているなんて初耳。お揃いということが分かって少し嬉しかった。

「先輩、リップ使うんですね」
「めんどくせーけど、高校の頃から新開が塗れ塗れってるせーんだよ」
「ああ、あの、セクシーな唇の方ですよね」
「ハッ、何なまえチャンもあいつみてーなタラコ唇派なわけェ」
「タラコって…」


写真でと、あとはレースで何度か見かけたことがある。お話したことはないけれど、新開さんは荒北先輩の高校時代からのお友達で、あと、とてもモテる方ということで知っている。女の子たちは新開さんの甘いマスク、特にあのぽってりとした唇に夢中みたい。だけど私はー…。


「別に、タラコ派じゃ、ないです」
「ソ、俺ミート派」
「…」

私たちは何を言ってるんだ。タラコ派って、タラコ派って!パスタの話じゃないよ、別に。だいたい失礼だよね新開さんはタラコ唇なんかじゃないし…。ん?それに今のなに、荒北先輩ボケたの?ミートって。え、面白くなっ!!

「…お、おもしろ〜い…?」
「…気使わなくていいからァ…」
「もう、せんぱ、」


俯き気味にしていた顔を上げると、意外と近くに先輩の顔があってびっくりした。何が言いたかったのか全く分からないまま、何か次の言葉を言おうとうーんうーんと考えを巡らせる。それなのに言葉がなかなか出てきてくれない。こんなに近い距離で話をしていたということに今更気づいて、意識して、急に恥ずかしくなる。先輩はいつもと何ら変わらない顔で私の言葉を待っている。意味もなく気まずい。この空気をつくったのは荒北先輩なのに!

「なまえチャンさァ」

口を開いたのは荒北先輩だった。 距離を取るでも詰めるでもない、そのままの位置で私を見下ろしながら言う。はい、と応えることさえも何故かできなかった。

「いつも口、色塗ってンの」
「化粧、はしてますけど…」

口に色を塗る、なんて無粋な聞き方。この人の口から口紅、だとかそういうものを聞きたいわけでもなかったけれど。さっきのふざけたような口調とは全然違って、妙に緊張する。同じ荒北先輩の声、なのに。

「今日も?」
「は、い」

今日は先輩が初めて家に来るからお気に入りのグロスを塗っている。何度も変ではないか確認したし、破滅的に化粧も下手ではないはずなんだけど、何かおかしかったかなと考える。

「へェ」
「あの、」

ひた、と頬に冷たい感触。それが先輩の手だと分かるのに時間はかからなかった。細くて綺麗な指が視界に入る。するりと今度は頬全体を撫でられて、体が反応してしまう。電気が走ったみたいな、というのはこういことを言うのだろうか。一歩、先輩が距離を詰めてくる。たった一歩だけどその一歩はとても大きなもののように感じられた。先輩が真面目な顔をしているものだから、茶化して逃げる、ということはできない気がした。

「わり、」


頬を滑り、先輩の親指が私の唇をなぞる。ぞくりとした感覚が私を駆け巡る。初めて感じるもので、それには思わず身じろぎしてしまった。

「キラキラしてんネ」


そう言って何度か私の唇をその親指で拭う。先輩の指に私のグロスが付いて、キラキラしている。私はこの奇妙な光景に、動けずにいる。


「荒北せんぱ、」
「…ん?」

その目は、その目はずるい。いつものように鋭い目だけど、熱を帯びていて、色っぽい。やめて下さい、そんな風に言おうとしていた言葉はどこへ行ってしまったのか。唇に丁寧に塗っていたグロスは多分もう、ほとんど取れてしまっている。先輩の指にそれが付いていると思うと、恥ずかしい。

「…何で黙ってンの」
「っ…」
「いいのォ?」

それには、静かに頷くことしかできなかった。先輩が何をいい、のか聞いているのが分からないほど私も鈍感ではなかった。それを期待していた自分もいたけれど、そんなことは言えやしない。それに先輩は嬉しそうに小さく微笑んで、また私の唇を優しく拭って、そしてぐっと自分の唇を私に押し付けた。今までの優しい手つきとは違ったその感触に頭が、体が着いていけない。呼吸ができなくて、先輩の顔が今までで一番近くて、それは近い、なんてものじゃなくて。私たちに距離などなかった。少しカサついた先輩の唇は、私の唇にぴったりと合わさっており、熱を感じた。先輩の右手は私の頬を撫で、もう片方の手は腰を掴んで彼の方へと寄せていた。私はどうしたらいいか分からなくて、ずっと目を閉じていた。

「…」
「…顔、赤過ぎじゃナイ?」
「…だって、」

自分の唇を自分の指で触る。先ほど先輩が触っていた時とは全く違う感触。もっと、ぞくりとした感覚でいっぱいになった。唇にキラキラはきっともう付いていない。口紅の色も落ちちゃっている。私の何も塗っていないそのままの唇の色だ。

「これ、甘い匂いすんネ」
「…ぎゃ!」
「ぎゃって、お前…」

ぺろりと指に付いた私のグロスを舐めてそんなことを言う先輩。そんなあざといこと、どこで覚えて来るんですか…。その姿も色っぽくて真っ直ぐ見ることはできなかった。

「なまえチャン」
「は、い…」
「ヤだった、?」
「い、いえ…その、う、嬉しかった、です」
「…」

ちらり。恥ずかしくて下を向いていたけれど、返事が返って来ないので、先輩の方を見てみた。

「荒北先輩、顔、」
「ッセ!!!見んな!」

あんなに大胆で色っぽいことをしておきながら、そんな表情もしてみせるなんて。荒北先輩の顔はきっと私のと同じくらい、赤い。先輩は色が白いから、余計それが分かる。女の子慣れしていて、余裕な態度を見せていた先輩も少なからず私と同じ気持ちなんだと分かってそれがとても嬉しかった。

「せ、先輩」
「…ナァニ」
「お茶、いれますね」
「…ん」


20150310
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テーマ「人外ファンタジー」
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