硝子の夜の鎮魂歌 @
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『・・・綺麗』
この海は本当に綺麗だ。
遠浅の海岸は底が見えるほど澄んでいて、夕日が沈む頃には翠色の光が見えるのだ。
男は座り込み、真っ白なスケッチブックに向き合った。左手の木炭を垂直に立て腕を差し出し、右眼を閉じる。夕日と木炭が重なり、一息ついて切先を落とした。力がこもる手は、芸術家のそれとは思えないほど稚拙な線を描きはじめる。
『・・・っ』
角度の付きすぎる曲線に狂う遠近感。湿る木炭が折れそうなほど、手が震えて肩が凝る。やはり思い通りに描くことができない。
それでも下唇を噛んで、ぐっとスケッチブックを抱えた。いつもこの時間は、天才的芸術家の彼にとって己との戦いだった。
『っ!』
筆圧に負け、とうとう尖った木炭が折れる。弾けた先端は目先の波に落ちた。肩で息をする男は黙って空を仰いだ。夕日に染まる空に目の奥がじんと熱くなる。
『・・・だめだ』
囁いた独り言に目を閉じため息をつく。
もうこれ以上は描けそうもない。血に染まり汚れた手では、何かを創造することなどできないのだ。
・・・絵がかけない自分など存在する価値のない人間だと男は自身を悟っていた。徐々に太陽が夕日に変わり始め、しばらく動けずにいた男は岩礁の下に波が迫っているのを感じる。
あの欠片のように、自分もこのまま澄んだ海にさらわれてしまおうか。それでも誰も気付かなければ困る者もいないだろう。男は気付いていた。震える友人の手から凶器を取ったあの日以来、自分の未来は潰えていたことに。とっくに現実に気付いていたはずなのに、目をそらして今までただ生きてきただけだ。
『・・・もう、だめ・・・かな』
目の前に突き付けられた現実に嘲笑し深く息を吸い込んだ、そのときだった。
「そこで何をしているの?」
『・・・!?』
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