『...もっと柔らかい表情...できる?』
彼はキャンバスの向こうから言った。
音もなく空気さえ動かない彼のアトリエは、彼がキャンバスに向かうと同時にいつも時の流れを引くように止めるのだ。
「柔らかい顔...」
私は少し考えた後、もたれたアンティークソファの上で言われた通りの表情を作ってみせた。彼は相変わらず流し目で、骨格まで見透かすような目線を私に向けている。
「こう?」
顔を真っ直ぐに上げる彼。
こんなにまじまじと、幼なじみの顔を見るのは何年ぶりだろうか。私は僅かに気恥しさを覚え、彼の姿からさりげなく目線をそらした。
『ちょっと...ちゃんとこっち見て』
「...っ!」
私は眼球しか動かしていないはずなのに。
しかしそれすら違和感とばかりに、彼は低い声で言い放つ。
「...ごめん」
『いや......えっとね、もう少し...』
********
──言葉遣いのせいか、顔立ちのせいか、幼馴染みである彼は今でもどこか幼い印象を残す。
名門寄宿学校の監督生になったと手紙で知ったときは驚いたけれど、休暇で帰ってきた彼は相変わらず重苦しい外套を羽織っていて、変わらない姿に私はすぐに安堵した。
「少し背が伸びた...?」
『...たぶん』
親同士も仲が良い私たちは、休暇になると彼の邸に呼ばれるのが恒例だ。彼の寄宿学校の話が聞けると、私は胸を踊らせて彼の住む邸に向かったというのに、彼が晩餐会の場にいたのはわずか数分。スープが運ばれてくる頃には彼は消えるようにいなくなり、私は密かに嘆息をもらした。大人達に聞いてもああ、あいつの事だから、と気にも止めていないようだ。
──久しぶりに会えたのに。
大人達に囲まれひとり顔を引きつらせる私も、頃合を見てこっそりと廊下に出る。
「...ひとりにしないでよ...っ!」
姿を消した幼馴染みにひと通り悪態をつく。勝手知ったる彼の実家、私は迷うことなく休憩室を目指し歩き出す。蝋燭の心許ない灯りしかない廊下は薄暗く、先は朧気にしか見えない。絨毯が足音を吸収して、辺りは不気味なほどの静かだ。
ふと、向かいから歩いてくる人影が目に入る。片手には大きなパンを持っていて、シルエットからすぐに誰だか分かってしまう。
『バイオレット!』
「......あっ」
私は影の正体に気付くとすぐに駆け寄った。立ち止まった彼は悪びれる様子も見せない。唇を尖らせる私からふと目線をそらし、何か考えている様子だった。幼い頃からするように彼に飛びつけば、至近距離で彼と目が合う。
『もう...ひとりにしないでよ、話し相手がいなくて寂しいじゃない!』
怒ったフリをして言えば、彼はふふ、と苦笑してフードを取る。
『...どうにも、あの場は苦手でさ』
...やっぱり、以前と纏う雰囲気が違う。元々整った顔立ちはしていたけれど、今はどこか大人びた顔つきになっている。思わず言葉を詰まらせる私の目を見つめて、彼は言った。
『...マリア、ちょうどよかった』
「っ、何よ...」
『今からちょっと僕のアトリエに来てくれる?』
それだけ言うと彼は私を引き剥がし、アトリエへと帰っていく。私は一瞬の後、彼の姿が闇に消える前に後ろ姿を追いかけた。
「待ってよ、バイオレット!」
*******
そんな彼に絵のモデルになって欲しいと頼まれ、晩餐会に戻りたくない私は二つ返事で了承したわけだ。
『............』
「......もう少し......?」
『こう...なんて言うのかな...』
彼は表現に迷っているらしい。手を止め目線を左下にそらせば、目元により濃く影が落ちる。私は身じろぎもせず彼の言葉を待った。
「.........」
『......甘い顔...って言うのかな...』
「えっ?」
思わぬ言葉に顔を上げる。
ただでさえ慣れない雰囲気に緊張している私に追い討ちをかける言葉。誤魔化すように苦笑したけれど、彼はいたって真剣な眼差しで私を凝視していて、私はあがった口角を再び強ばらせた。
「......甘い...?」
『...そう、恋人に向けるような感じの...なんて言うんだろう...』
恋人という言葉に、心臓がどくんと跳ねる。取り繕うように、私は意地悪に笑って彼に言った。
「分かんない...お手本見せてよ」
ややあって、僕ができるわけないでしょ、と苦笑を浮かべる彼。彼の表情の変化に呼応するように、彼の傍らに置かれた時計が静かに音を立て始める。
『...とにかく甘ったるい顔、してみて』
「.........」
『......僕を恋人だと思ってさ』
*
私はあからさまに戸惑った。
目の前の風変わりな友人は冗談で言っているわけではない。至って真剣な面持ちで、早くしてと言わんばかりに私を見つめて、目を細めて私にピントを合わせて。
再び秒針は進むのをやめ、一体どれほど経過しただろう。彼は少しだけため息をつき、いつまでも表情を強ばらせる私に言った。
『...できない?』
「...そんなこと...いや...えっと...」
『.....やっぱり難しい...か...』
困ったように少し首を傾げる彼。やっぱりダメかな、いやでも、とぶつぶつ呟いて、数回首を横に振って。
「ごめん、上手くできなくて...」
『...ううん...』
モデルの私が表情を上手く作れないなんてまるで話にならない。押し潰されそうな気分は、まさに恋人に振られようとしている女のそれに似ている。
...少し時間があれば出来るかもしれない。やっぱりマリアじゃダメ、なんて諦められたらきっとちょっとだけヘコんじゃう。
私は時間を乞うように、シラけた顔をする相手を見た。
「私、頑張るから...もう少し待って...」
ダメな私に見切りをつけたのか、投げやりに相槌をうち席を立つ彼。下書き用の木炭を乱雑に置き、俯く私にゆっくりと近づいてくる。
「......ごめんなさい...」
でも私は彼の性格を知っているつもりだ。
────自分の絵に関しては、妥協することを一切知らない彼の性格を。
*
彼は私の前で立ち止まり、髪を一度だけかきあげ私を見下ろした。白い壁に囲まれたアトリエはスタンドの光を増幅し、彼の狼眼を煌々と照らす。
『......君は描き手泣かせだね...』
ギィ、としなる背もたれ、近付く彼の顔。唇が触れそうな距離まで近づいて、ようやく私は我に返った。
「っ...何よ、仕方ないじゃない、そんな顔、貴方にできるわけ...」
『...だからさ...』
抵抗する間もなく顎をすくわれ、気付けば彼の口付けを受け入れていた。何が起きたか分からないまま、数秒。驚いた私は彼の肩を押し返し無理矢理体を引きはがした。
「...っ...なにするの...っ!?」
『...僕を恋人だと思ってって...言ったよね』
「無茶言わないでよ、私達...っ」
幼馴染みでしょ、と言いかけた私の口を再び塞ぐ彼。
「ふ...ぅ....っ」
『...ここまでしないとだめなの...?...マリア...』
呆れたように言う彼。器用な彼の思いの外慣れた舌使いに翻弄され、徐々に抵抗する力をなくす私。
キスを繰り返す彼は、私の表情がとろけていく様を観察するように見ていたらしい。
『...その調子......』
「...バイオレット....っ」
時々私の顔を確認しては、もっと甘くと言わんばかりに口付けて。無意識に彼のシャツを掴んで、鼻にかかる吐息を漏らして。
「ん......はぁ...っ」
『...だめ、もっと甘ったるい顔...』
彼の視線が胸に落ちて、いつの間にか彼が私のブラウスの前を開いていたことに気が付く。彼の胸を弱々しく押せば、ぱしりと腕を取られ金の瞳と目が合って。
「...バイオレット...これ以上は...っ」
『...手間をかけさせるマリアが悪いんだよ...』
*
既に抵抗することも出来ない私は、彼の愛撫を受け入れることしかできなかった。強引に下着をずり下げて、彼の舌が突起を弾く度吐息が漏れて。
「や、や...だ...ぁ...!」
『ん...いい感じだね』
身をよじればさせまいと突起を甘噛みされ、私は背中を反らし目の前の幼馴染みに痴態を晒してしまう。
「ひゃ...ぁ...っ!」
『...そう、こんな顔...』
マリアは綺麗な顔してるからね、と満足げに笑う彼。息が止まりそうな程の興奮と開いたままの口、静寂に響くのは私の荒い息遣いだけ。
既にふたりを包む雰囲気は幼馴染みのそれではない。ぼやけた視界で彼を睨めば、靄がかかった彼の姿が目に映る。
「バイオレット...っ」
...もういっそ彼に身を委ねて、流されてしまおうか。全てを諦めてしまおうか...。
身体が求めるがままに、彼の背中に腕を回そうとした、その時だった。
体に触れるか否かの所で、彼は私の手を逃れるようにすっと立ち上がった。
『...その顔だよ』
私は乱れた衣服を整えることも出来ず、惚けたように彼を見つめた。
『その表情崩さないで...いいね?』
*
彼が私に背中を向け、キャンバスに戻ろうとしている。とっさに私は彼のシャツを握り、彼を引き止めた。
振り返った彼の、普段と同じ飄々とした表情。私は少しだけ怯んだけれど、それも一瞬のこと。
──かける言葉なんて用意していない。けれど、私はたまらず彼を引き寄せた。
「いや...だ...」
『...なに』
「...続き、して...」
私は必死だった。
下着を自ら取りながら脚を開いて蜜を垂れ流すソコを晒して。誘うようにはぁ、と熱っぽくため息を漏らせば、私を視姦する彼の目つきが段々と変わっていくのがわかる。
「ねぇ...お願い...っ」
『...マリア』
再び私に覆いかぶさる彼が、私と目が合うなり困ったように少しだけ笑う。内腿に感じる彼の身体は、布越しなのにかっと熱を帯びて感じた。
『........ごめん...やっぱり、我慢出来ない...』
「...んっ、私も中途半端は...嫌...っ」
ふと気がつくと、彼が私の太腿に布越しにさり気なく何かを押し付けていることに気が付いた。その正体がわかった時、私は今日一番頬を赤く染めた。
「......バイオレット...!?」
『...もう...戻れなくなってもいい...?』
切ない彼の声色に、私は答えなかった。
その代わりにひとつだけ、彼の首を引き寄せ、形のいい薄い唇にキスを施した。繰り返すキスの合間に、生々しい灼熱が私の秘所をこっくりとなぞる。
「はぁ、あ...グレッグ...!」
瞳を開いたその時、目の前にある幼馴染の瞳の奥が情欲にとろけていることに気が付いた。
『......マリア、抱くよ』
そして私は、幼馴染みの「男の顔」を見た。
end
bkm