優しい死神

いつかまた彼女に会えるとしたなら
僕はもう二度と離さないと


────決めていたんだ









月の大きな夜だった。
僕は何年も過ごした広い私室を見回した。

愛用のデスクにチェスト、そしてたくさんのキャンバス。全てが手放すには惜しい気がしたけれど、それはきっと僕がこれから起きる事を知っているから。

ドアノブを回せばほら、僕は全てを捨てて前を向いて歩き出すことができる。



───僕は最期まで前向きな気持ちでいた。




**********







「────驚いた?」


久しぶりにあった彼女の第一声はそれだっ
た。



『・・・・・・・・・いや』



広大な学園の奥の奥、狩猟の練習用の森の中。
鬱蒼とした木々の狭間に踏み入れてすぐ、大きな木の陰から彼女は姿を現した。


「変わってないね、バイオレット」

『・・・・・・・・・』



あの頃と変わらない笑顔でこちらに駆け寄る彼女。泥濘む地面が泥をはね、少し僕は後ろに退いた。構わず胸に飛び込んだ無邪気な影に、全てを諦めたけれど。

すこし変わったとすれば・・・君は髪が伸びたね。




「元気にしてた?」


『・・・うん』



僕は頷いた。

彼女の瞳はこんな色だったかな、眼鏡なんてかけていたかな・・・
今になって思えばたくさんの違和感はあったはずなのに、あまりに変わらない彼女の笑顔は僕の違和感の全てをかき消した。



「・・・・・・・・・荷物、それだけ?」


『・・・・・・・・・うん』



それだけと言っても、僕はなにも持っていない。大切なものなんてとっくに全て失っている・・・

・・・・・・なんてね。
そんなことは彼女には言わないけれど。



「・・・こっちよ、バイオレット」




僕は彼女に手を引かれて森のさらに奥へ進んでいく。
真夜中の森は月明かりすら朧気で、きっと彼女の手を離してしまえば僕は暗闇の迷路をさまようことになるだろう。


『・・・暗い』


「・・・怖い?」


『ううん・・・平気』



僕はきゅっと彼女の手を握った。


この手はいったいどんな重荷を抱えていたんだろう。僕の手にすっぽりと包まれてしまいそうなほど小さな手で、いったい君はどんな絶望を遮ろうとしたんだろう・・・・・・・・・









「ん、ここら辺でいいかな」


『・・・・・・・・・・・・』



思えば随分と森の奥に来た。
こんな森の奥にこんなに綺麗な泉があったなんて、監督生だというのに僕は本当にこの学園のことを知らない。


「・・・精霊でもいそうな場所ね」


月明かりが届く閑かな水辺に飛ぶ蛍光。
光の正体はいつか読んだ書物にあった、光る虫の燐光だろう。




僕は彼女の横顔を盗み見た。


同じ色の瞳────
奥行のない瞳はただ静かに泉に魅入っていた。



『・・・マリア』

「・・・・・・なあに」



僕は再び前を向いた。


『・・・・・・・・・怖かった?』



彼女はややあって、少しだけ笑って答えた。



「・・・ううん」









彼女はぽつりぽつりと語る。
ただ僕は隣で彼女の言葉を聞いていた。


「・・・あの時は本当に辛かったから・・・死ぬことはただ唯一の救いだった」


『・・・・・・・・・・・・・・・』


「・・・だから、怖くなんてなかったよ」



目の前で蛍の光が揺らめいて滲む。
聞くことはないと思っていた彼女の思いが、空気に溶けて泡のように浮かぶ。



『・・・・・・・・・』


「でもね」




彼女が僕の顔を見上げた。その頬には大粒の涙が流れていた。


「・・・あなたに会えなくなる事だけが、怖かった」



僕は堪らず彼女を抱きしめた。

あの日と変わらないのは笑顔だけじゃない。
もう何年も前に自ら命を絶った彼女は、顔も身体も、声もその素直さも・・・すべてあの日のままで。


「・・・好きだった。あなたのことがずっと好きだった。とうとう言えないまま、私は・・・・・・」


『・・・マリア』


「・・・会いたかったよ、バイオレット。ずっと心残りだった・・・」



彼女が背伸びをして僕に口付けた。
答えるように首に手を回せば、お互いの感情が流れ込むようにキスが深まる。



『マリア・・・、僕も・・・会いたかった・・・』


「ふ・・・っ、バイオレット・・・」


『・・・好き・・・、好きだよ・・・マリア・・・』


彼女の眼鏡を外せば、潤む瞳と目が合って。
僕の言葉に嬉しそうに笑う彼女に、僕はもう一度深く口付けた。
稚拙な彼女のキスから伝わる彼女の悲しみと寂しさ、そして僕への想い。






・・・僕はもう君をひとりにはさせない
もう君を悲しませない



────あの日出来なかったことが、今の僕には出来るんだよ。







「・・・ん、バイオレット・・・」


『・・・・・・』


「もう、夜が明けちゃう・・・」


少しずつ明るくなる森と、消える幻想的な光。
僕は一度だけ深呼吸をして、隣で恥ずかしそうに微笑んでいる彼女を見た。


『・・・いかなきゃね』


「・・・うん」



もう何も怖いものはない
君が永遠に隣にいてくれるなら、僕は他には何も望まない


僕は君の手を取って
先に広がる闇を歩んでいこう




『・・・・・・・・・マリア』

「・・・・・・バイオレット」





────僕を迎えに来たのは、優しくて愛しい死神だった。






end


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bkm





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