『壊れかけた白い世界で』続編です
『一曲お相手ねがえますか、レディ』
「・・・ごめんなさいね」
モーニング姿の男性は心底がっかりした様子で私の前を去っていく。私はボーイのトレイからグラスを受け取り、煌びやかなダンスホールを眺めた。
楽しそうに踊るたくさんの人々の姿。
ひとりため息をつき、ダンスホールの扉を開く。
誰かと踊る気にはなれなかった。
誰もいないバルコニーに出る。少し寒いけれど、ドレスと強いアルコールに火照った身体を休めるのには都合がいい場所だった。
「・・・はあ」
冷たい水を口に含み、一息ついた時だった。
『・・・おや、レディ。何処かでお会いしましたか』
外を眺めていた私に、背後から声が降ってきた。
*
振り返った先には、背の高い男が立っていた。
榛色の長髪に凛と整った顔立ちの男は、媚びない笑顔で私に会釈をした。
「・・・あなたは」
『久しぶり、お嬢さん』
見知った顔に私は驚く。
華やかな風貌の男は私を見てにっこりと微笑んだ。
「・・・レドモンド」
『変わってないな』
もう何年前のことだろうか。
「彼」から友人だと紹介されて知り合った男。彼の親友だった男とは、以降も親交があった。
その頃から、彼は知性を感じさせる風貌で、明るく私に話しかけてきてくれた。
「・・・あなたも」
どこか憂いを帯びた瞳は私の様子を見て、言葉を選ぶように先を続けた。
『・・・元気にしていたか』
「ええ。あなたは?」
きっとお互い聞きたいことは山ほどあるはずだ。けれど事情を知っているからこそ、聞けないこともある。
『・・・相変わらずだよ』
少しの沈黙があったのは、きっと私が人付き合いが苦手なせいだけではなかったと思う。
このまま別れてしまうのも気が引ける・・・
戸惑う私に、彼はかすかに笑った。
『・・・いや、気まずいのも仕方がないかもしれないな』
「・・・・・・」
『少し話をしないか。積もる話もあるだろう』
男が静かに歩み寄り、私の隣に並んだ。手すりに寄りかかり、星が綺麗だと感嘆する。男の気さくな様子に私の気持ちも和らいだ。
*
『あれから連絡が取れなくなってずっと気になってたんだ』
「・・・・・・・・・」
『君も・・・あいつも』
「あいつ」という男の言葉に私は「彼」の顔を思い浮かべた。
手元のグラスを見つめる。氷が溶けて音を立てた。
『・・・今までどうしてた』
「・・・・・・・・・」
『今も奴と一緒にいるのか』
私は沈黙をもって返答した。
思い出すだけで胸が詰まりそうになるけれど、私は今までの数年間を少しずつ言葉にした。
「・・・彼が今どこで何をしているか・・・私も知らないわ。生きているかどうかも・・・」
『・・・・・・そうか』
「・・・罪を償いたいって言って、どこかに行ってしまったの・・・」
『・・・・・・』
「・・・私はついて行かなかったから」
とっくに枯れたと思っていた涙が一筋だけ溢れた。隣の男に悟られないように、震える声を隠し涙は拭わなかった。
「・・・きっと何処かで生きてると思うわ」
『・・・あいつらしいな。最後まで君を心配させるなんて・・・紳士の風上にも置けん奴だ』
俯く私を見て、男は雰囲気を払拭するように少し笑う。
『・・・あいつのことだ。どこかで一人で鬱々と元気にやってるだろう』
「なにそれ・・・」
つられてくすりと笑ってしまう。
私の様子を見て男もほっとしたように、でもどこか真摯な眼差しで眼下を眺めている。
『・・・あれでも強くて一途なやつだ』
「・・・うん」
『気が済んだ頃にひょっこり戻ってくるさ』
確かめるように、懐かしむように言う男。
彼の長年の友人の言葉は私の胸にまっすぐに落ちる。
*
「あなたは・・・どうしてたの?」
男は言葉を探しているようだったが、ややあってため息と共に口を開いた。
『・・・相変わらず独り身だ。気晴らしに夜会に来てみたが・・・』
「・・・・・・・・・」
『・・・俺もこのまま一生独り身だろうな。もうそれでいいと諦めがついてきたところだ』
ふふ、と笑いグラスの酒を口に含む男。その笑顔はどこか哀しげにみえた。
気の利いた一言すら言えない私は景色だけを見つめ続けた。
『・・・俺達は命があるだけでも感謝しなければならない立場だからな』
「うん」
『・・・これ以上は望めないのさ。奴だって同じ事を思っているんだろう』
切々と語られる彼の言葉が胸に痛かった。
運命のいたずらに翻弄される彼らを、私はただ傍観することしかできないのだ。
*
・・・それから私達は色々な話をした。
彼らが在校生だった頃の話、彼から私を恋人として紹介されて驚いた話、彼らと私と共に休暇を過ごした話、友人達のその後の話・・・
『・・・ブルーアーもグリーンヒルも・・・皆、それなりにやってるよ』
「そう、安心した」
『・・・あいつがここにいればな』
重厚な時計の音が響き、気が付けば夜会が終わろうとしていた。
『・・・ああ、もう終わりか』
「・・・早いわね」
『・・・今日は君に会えてよかった』
彼が私に向き直り私の瞳を見つめた。
自由な方の手をぎゅっと握り、紳士は手の甲に軽く口付けた。
『・・・最後に。今君はどうしているんだ?』
「・・・この歳でひとりで夜会にいるのよ。分かるでしょう?」
『はは、そうだな』
こんなに誰かと話したのは久しぶりだった。
突然の再会に少し戸惑ったけれど、今日この男に会えたことはひとつの運命だったのかも知れない。
『じゃあ、また会おう』
「ええ、また」
外を眺めつづめる私に、彼は館内への扉を開けながら振り向いた。
『・・・そういえば在学中の奴はよく窓の外を眺めてたな』
「・・・なにそれ」
『大方君のことを考えてたんじゃないか』
いたずらっ子のように笑って館内に消える男の背中を見送る。
*
ひとりになった私は寒空の下、無数の星を抱える夜空を見上げ男の話を反芻した。
───彼は今どうしているだろう。
冷たい風が頬を撫で、寒い季節が近いことを知る。
「・・・バイオレット」
口に出せば愛しさが募るばかりだった。
涙をこらえ、肩にかかるストールをきゅっと締め踵を返そうとしたその時だった。
ひときわ強く吹いた風の音に紛れて、カサ、と乾いた音がかすかに耳に届いた。
ふと見ると、目の前の木に一枚の古びた紙が引っかかっていた。
私は導かれるようにうんと手を伸ばし、今にも風に飛ばされてしまいそうなそれを掴んだ。ストールが風に飛ばされていくのも構わなかった。
くしゃくしゃの紙を丁寧に開くと、それは薄い便箋だった。
紺のインクでしたためられた見覚えのある繊細な筆記体に、私は目を見開いた。
『君がこの手紙を見ることはないと知っていながら、僕はここに君への愛を綴る─────』
────そして風が、静かに消えた。
end