ビラヴド


ミュージックホールの喧騒も届かぬ二階、片隅にある質素な部屋でひとり、眠れぬ夜を過ごすひとりの女。


扉を開け、お飾りのようなバルコニーに出る。裏手の並木道も闇夜に溶け込み見えなかった。瞳のような赤い月が見下ろすように光をたたえている。




・・・誰にだって時には眠れない夜もあるものだ。マリアは冷たい風に少しだけ身震いをし手を摩る。冷たい手すりに寄りかかり、月を抱く墨色の空を見上げた。



「今日も・・・来ないのね・・・」



独り言は静寂に溶けてマリアの胸に落ちる。思い出すのはあのじんわりとした温もり。




「──────っ」



マリアはあの日の自身の愚かな行為を思い出し、両手に顔を伏せた。



*********



ずっと好きだったのに届かなかった相手だった。


「私貴方が好きなの」

『・・・ごめんね、ボクそういうの苦手だから・・・』


───それでも強欲な私はどうしても彼が欲しかった。


「じゃあ・・・お願い、私を抱いて・・・?」


『何言ってるの・・・?』


「ほら、ここにいたって娯楽なんて何もないじゃない。退屈しのぎに・・・ね?」


気持ちが手に入らないなら身体だけでも・・・。その一心で『都合の良い相手』を演じきったあの夜。


『・・・そんなの必要ないよ』


「・・・貴方の好きな人の代わりになってあげる・・・って言っても?」


『・・・!?』


無理やり奪った唇。彼は私を押し返したけれど、私は何度も彼に甘い話を持ちかけ続けた。


「どんな酷いことをしてもいいのよ?好きなようにしてくれていいのよ・・・?」


『な、何言って・・・・・・』



ついに彼が根負けしたあの日の夜。



「・・・私を見なくていい。好きな子にしたかった事を、私にして・・・?」


『・・・意味がわからない』




前戯もなしに捩じ込まれる欲望。
まるで何かをぶちまけるかのような激しい行為。実際に抱かれてみれば愛のない情事なんてただの自傷行為に過ぎなかった。


それでも私が決定的に壊れるような抱き方をしなかったのは、彼が優しい性格の持ち主だったから。


いつか彼が振り向いてくれる・・・本当の愛に気付いてくれる・・・
ありもしない望みにもがきながら、優しい彼の冷たい背中を何度見送ったことか・・・・・・・・・



************






「私を壊してくれれば良かったのに・・・」


マリアは見つめる手の甲を爪で引っ掻いた。
痛みも辛さも何も感じることが出来なくなるほどに、めちゃくちゃに傷付いて壊れてしまいたかった。彼の手で果たされるのなら本望だと思える程、激しい恋だったから。



風に木々がざわめく。
渇ききった心がとうとうひび割れて痛んだ。



「・・・ごめんね、バイオレット」



ぎぃ、と手すりが軋む。
遠くの月は手を伸ばしても届きそうもない。

彼と最後に過ごした夜、やけに素っ気なく出て行った彼の後ろ姿を思い出す。その記憶から、既に一ヶ月が経とうとしていた。


飽きられたのかもしれない。私の下心に嫌気がさしたのかもしれない。もしかしたら・・・恋人と再会を果たしたのかもしれない。身体だけの関係などいつ切れてもおかしくないほど心許ないものだ。




「・・・もう、潮時・・・ってやつね」



マリアは落ちる涙にも構わず踵を返す。
彼のために手入れを欠かさなかった絹の髪が夜風に揺れる。

指の間を滑り落ちる恋。
部屋への扉に手をかけた、その時だった。




『─────』










ふと足を止める。振り向いても誰もいなかった。
確かに自分を呼ぶ声が聞こえた気がしたのに。そこにはただ夜の静寂があるだけだった。



「・・・なっ、何・・・?」


マリアは自分の背筋かぞわりと粟立つのを感じた。とうとう寂しさの余り気がふれてしまったのかもしれない・・・半ば自分の気を確かめるように、わざとガチャリと大きな音を立て扉を開けた瞬間。



『マリア』



今度ははっきりと聞こえた。
反射的に振り向いて、再び手すりに駆け寄る。翻るネグリジェが風の悪戯にめくれるのも構わなかった。

マリアは大きく息を吸い込む。
声の主が彼だという確証などなかった。
それでも、躊躇いなくその名を叫んだ。



「バイオレット!」









目を凝らして眼下の小路を覗き込んだ時、ようやく夜陰に紛れる黒いコートが月明かりの陰から音もなく現れた。フードを被り重苦しいシルエットをしているが、遠くからでも分かるゆらゆらとした出で立ちは間違いなく彼のものだった。



「こんな時間に何してるの・・・!?」


『君こそ・・・まだ起きてたんだね』



決して張っている訳では無いのに、自然と通る声が耳に届く。
フードを押さえて見上げる彼と目が合い、ドキリと心臓が高鳴る。


真っ黒な影はマリアの部屋の真下で立ち止まった。ここから彼のいる地面は手を伸ばせば届く高さでもなければ、飛び上がれる高さでもない。

一瞬の間があって、あろう事か彼は傍らの樹木に足をかけ器用に登り始めた。


「ちょ、ちょっと・・・バイオレット!」


『っ、しょ・・・』



さながら蝙蝠のような陰が風に煽られ少しだけふらつく。落ちるのではないか、怪我するのではないか・・・事態が飲み込めずハラハラと見守るマリアを他所に、彼は実に身軽に枝を伝ってくる。


『・・・おっと』


「危ない・・・!」



ようやく手が届く距離に彼が近付いて、マリアは精一杯細い腕を伸ばした。驚きに震える手をぐっと掴む彼の冷えた手。それでも優しい彼は彼女の手には体重をかけず、手すりに脚をかけてバルコニーに降り立った。




『ん、ありがと・・・』









「一体どこへ行ってたの・・・!?」


『・・・ちょっと用事があってね』



帰ってきたら施錠されててね、と彼は飄々と言ってのける。コートについた汚れをおざなりに払っている彼から目を逸らした。マリアはいまだ震える手を胸の前で抱え、抱き締めたくなる衝動をぐっと堪える。



「・・・馬鹿ね」


『・・・ほんとだね』



次会った時には虚しいだけの関係に終わりを切り出そうと決めたばかりなのに。こうして彼の微笑んだ顔を見るだけで、いとも簡単に加速する恋心に胸が痛い。




「・・・・・不気味ね・・・その姿」


『ほんとのボクはこんなだよ。あの姿で明るい場所にいると息が詰まる・・・』



憎まれ口に対する返答は、強がりな彼の珍しい弱音だった。彼の手が頬に触れ顔を上げる。難しい顔をした彼が少しだけ首をかしげた。


『・・・マリア、もしかして泣いてた?』


「────っ」











慌てて涙の跡を隠そうとする手を取られ、代わりに彼のコートの袖口で無造作に拭われる。ふとユニセックスのフレグランスの香りが鼻を掠めて少しだけ気が緩んだ。



「欠伸をしただけよ・・・それより釦、痛い・・・」


『あ・・・ごめんね』



・・・彼はいつだって自分勝手だ。ぶっきらぼうな物言いの裏に隠された優しさも、相手がどう思っていようがお構いなしな振る舞いも。この恋人に触れるような手つきだって、私のことが好きだからじゃない。
気まぐれな貴方に振り回される私はただの馬鹿な女。



『ん・・・?マリア?』


「・・・寒いだけよ」



恋人でもない女に抱きつかれて、いい気はしないだろう。それでもこれが最後だからと、意地を捨てて少したじろぐ彼の胸に頬を寄せた。



『・・・肩が冷えてる。中に入ろう』


「バイオレット・・・あのね」



抱きしめ返す彼がなにか言おうとしたのが気配で分かったが、口は挟ませなかった。これ以上好きになってしまったら、きっと取り返しがつかないことになるだろう。彼の腕の中でぐっと目を瞑る。そして感情が追い付く前に言い放った。



「もうここに来ないで」



彼の腕が少しだけびくりと動くのを感じる。しかし一向にマリアを離す気配はない。戸惑いつつも、一度口に出した決意を引っ込めることも出来ずにマリアは続けた。



『・・・・・・・・・・・・』


「・・・もう自分勝手な貴方の相手なんて懲り懲りよ。もう貴方なんて好きじゃないわ。・・・抱くなら他の子を抱いてくれるかしら」









・・・こんなにも冷たい夜は初めてだった。心にもない言葉を吐き出す度、身体の感覚が朧になる。きんと凍るような風が鳴る。あまりの寒さにもはや彼の暖かさすら感じなかった。


───これで全て終わり。虚脱感を振り払うかのように、彼の腕を抜け出した。まるでさなぎから蝶に変わるように、これから私は彼から羽ばたく。そして次の恋に踏み出す・・・そう考えれば悲しくなんてない。自分に言い聞かせた。



「そういう事だから」


『マリア・・・少し痩せた?』


「ちょっと、人の話・・・聞いてる?」


『・・・寂しかったんだね』


「え?」


『・・・ボクが来なかったから』





・・・わけがわからない。
さぞ自信満々に笑っているだろうと思いきや、見上げた先の彼の顔は真剣そのもの。ただまっすぐにマリアを見つめて、溢れた涙に軽く口付けて。


「な・・・何するの・・・っ」


『・・・ごめんね、ボクにも思うところがあってね、しばらく君を避けてたんだ』



呆ける私を強引に部屋の中に押し込む彼。風音が止み途端に静かになる空気に居心地の悪さを覚える。



「何よ、私はただ貴方に飽きたって・・・」


『ほら、あんまり君の部屋に来るとね・・・・・・その』


「・・・聞いてよ・・・・・・」


『・・・・・・君のこと・・・好きになっちゃいそうで・・・』



「・・・えっ?」








ふたりの間を流れる静かな空気。それは頭が真っ白になった私とフードを下げて俯く彼が醸し出す、いまだかつてない雰囲気だった。



「・・・え、なん・・・なに・・・?」


『・・・・・・あげる』



コートのポケットに無造作に手を突っ込んだ彼が取り出したのは、手のひらに乗る小さなリボンのついた紙袋。


「・・・・・・っ、これ・・・」


『キングストンのナイトマーケットで見つけたんだ・・・君に似合いそうだと思って』



中に入っていたのは、小さなピアスだった。
手の中に収まるそれを惚けたように眺めていると、不意に彼の指先が頬にふれた。



『聞いて、マリア』









『ボクの好きな人のこと・・・少しだけ教えてあげる』


「・・・え?」



・・・本当に聞いてもいいのだろうか。
表情の変わらない彼だからこそ判断ができない。それでも彼の真摯な眼差しに、私は動くことが出来なかった。




「・・・大丈夫?」


『平気だよ。君には知っててほしいから』




彼が私の手をぐっと握る。
・・・聞こう。たとえどんな話だとしても・・・
このバイオレットが、過去を打ち明けようとしているのだから。




「─────うん。聞くわ」


『・・・ありがとう』




マリアは一度だけ深呼吸をして、彼と向き合った。





『────ボクたちに後ろめたいことがある事・・・君も知ってるよね・・・?』


「・・・うん」


『あの頃のボクはまだ世間知らずで・・・何もわからないまま、人間としてしてはいけないことをしてしまったんだ。─────』








───あれほど頑なに口を閉ざしていた彼の口から初めて語られる、悲痛な過去の話。許されない過ちを犯したこと、友人のこと、罪の意識に壊れかけた彼を支え続けた彼女のこと・・・

・・・そして彼女を守るために、苦しい選択をしたこと。

同情はできなかった。ただ・・・・・・・・・・・・

・・・どんなに辛かったことだろう。
あんなにキラキラと舞台の上を舞踊っている彼が背負う、思いもよらないほど大きな荷。







『───だから・・・・・・彼女を学校に置き去りにしたんだ』


「そんな・・・それじゃ・・・」


『・・・うん。ずっと好きだった。大好きだったよ。忘れられなかったよ。』


「そう・・・」


『・・・ボクには彼女が必要だった』


彼らしい飾らない言葉に、どんなにその子のことを大切に思っていたかが素直に伝わってくる。彼の目が、声が、吐息の全てが、彼女への想いを語っていた。


「そんな事も知らないで・・・私・・・っ」


『・・・・聞いて、マリア』



金色の瞳が私を見つめる。やるせなさに流れる涙を拭ってくれる。・・・きっと本当に泣きたいのは彼の方なのに、なぜ私が泣くのだろう。



『・・・君があの日、ボクに好きって言ってくれたでしょ?』



「・・・・・・・・・・・・、うん」



『・・・戸惑ったよ。他の女なんて要らないって思ってたから。正直、ミュージックホールのお客さんと同じように、上辺だけのものでしょって思ってた・・・』



「・・・・・・・・・」



『だから本当のボクを知ってがっかりすればいいって思ってた』



「・・・バイオレット、あの」



『聞いて』



口を挟ませない彼の雰囲気に気圧される。
諭すような、吐き出すような彼らしくない口調。それでも落ち着いて切々とした語り口。

そんな彼への愛おしさに胸が詰まったマリアは、ひとつの覚悟を心にした。

・・・・・・彼がふたりの関係をどう決着させようと、全て受け入れようと。


右手のピアスは彼から渡された引導なのか、それとも・・・・・・・・・
全ては、彼の言葉にかかっている。








『───ボクはね、君が身体だけの関係を持ちかけてきた時・・・本当は断ろうって思ってた』


「・・・うん」


『きっとボクの為にならないし、何より君のためにならないだろうって。だから最初にこの部屋を訪ねた時、きっぱり断るつもりだったんだよ』


「・・・・・・・・・」


『・・・でもあまりにも君が・・・悲しそうにするから・・・・・・絶対に君を傷つけるって分かってたのに・・・ボクは・・・』


「・・・・・・・・・・・・っ」


『・・・痛かったよね?辛かったよね・・・?いつもボクが部屋を出てく時、泣いてたでしょ・・・?』


「・・・っ、気付いてたの・・・」


『・・・ごめんね。そうやっていつか君がね、ボクの本性を知って嫌いになってくれたらそれでいいと思ってた・・・君がボクに愛想を尽かすのを待とうとしたんだ』


「そんな・・・私・・・貴方の事を嫌いになれるわけないじゃない・・・!」



『・・・うん。どんなに酷いことをしても君は耐えてくれてた。ずっとボクを好きでいてくれた。最初はね、ボクも彼女の代わりとして君を見てたよ。でもね・・・やっぱり・・・』



片手で顔を隠す彼はそこで詰まる。
私はただ彼の言葉を待った。



「・・・・・・・・・」


『やっぱり君は・・・あの子の代わりになんてなれやしなかったんだよ・・・』




絞り出すような彼の声。


・・・終わった、と思った。
彼女の代わりになれないのであれば、私は彼と一緒にいる意味などない・・・

深いため息とともに俯き目を伏せるマリア。その身体を、正面から彼の腕が抱きすくめた。驚きに震える手から金色のピアスがぽとりと床に落ちる。



「バイオ、レット・・・?」










思わぬ抱擁にマリアは戸惑った。
マリアの震えが伝わったかのように、彼が背中に回す腕もかすかに震えていた。
温もりを確かめてそっと離れる腕、伏せられた瞳。



彼が床に落ちたピアスを丁寧に拾い上げ、ポストを外す。そして、そっとマリアの長い髪をかきあげ耳元に触れた。
小さな宝石が耳元で揺れる。



『・・・ごめんね。今まで辛い思いをさせたね』


「・・・ん・・・ううん・・・!」



必死に頭を振った。
たしかに辛かった。しかし、彼の思いを知った私はそんなことどうでもいいと思えた。



『・・・ボクはもうすぐ君を好きになる。彼女の代わりなんかじゃない。君のその強さが・・・ボクを変えたんだよ』


「・・・そんな・・・私、強くなんか・・・ただ貴方が好きだったから・・・!」


『ボクももう・・・彼女を忘れなきゃいけないって・・・君を見てそう思えた・・・だから・・・』


そっと頬に触れた手が首に回されて、マリアは彼のキスに身を委ねた。何度も身体を重ねていたのに、こんなに優しいキスは初めてだった。彼の気持ちが唇を通して伝わって、ずっとぽっかりと空いたままだった胸の中が満たされていく。


『・・・・・・ボクはもっと強くなる。そして彼女への気持ちに決着がついたら・・・』


「・・・うん」


『マリア、ボクと一緒になって』



「・・・・・・うん・・・!」



『・・・約束だよ』





*******





───私たちは明け方まで一緒にいた。
ただただお互いのことを語り合って、将来を語り合った。

相変わらず彼の瞳は翳っていたけれど、以前よりもずっと強い光を携えていた。

日が昇る前に出ていく彼の背中を見送っても、寂しくなどなかった。





私はこの上ない幸せを噛み締めて、だからこそ大切なことに気付くことが出来なかった。





翌朝、少しだけ眠った私は、彼の友人達から聞かされたある事実に茫然と立ち尽くす事となる。




『どうして・・・・・・!!』


『バイオレットが・・・・・・!!』




かつてないほどざわつくミュージックホールの一室から、ひとつの遺体が運び出された。

担架から極薄いストールがはらりと落ちる。



────死因は明らかにされなかった。しかし、彼の左腕には無数の鬱血痕が残っていたという。



彼が死んだのは明け方から今朝にかけてだろうとミュージックホールの医師は言った。






彼は一体どこへ向かったのだろう。
彼の語った『強くなる』とはどういう意味だったのだろう。



秘密裏に行われた彼との最後の別れの日。
彼のお墓の前に黒いレースで顔を隠した、
ミュージックホールの関係者ではない細身の女性が立っていた。


彼女が彼に手向けた花は濃紫のダリア。
・・・彼女を見たのはそれが最初で最後だった。





「ねぇ、バイオレット・・・貴方はいつになったら強くなれるの・・・?」





昇る朝日を見つめる私の両耳に、月の光が揺らめいた。




「ずっと、待ってるよ・・・」









end





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