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いただきます 03
弟はお母さんから連絡が入っていたらしいが、納得するわけないだろう。
急に兄が現れて、その兄が家に住み込むなんて。納得できないだろう、普通の人なら。
押しかけるようにやってきたものの、俺はここに居て良いのか、悪いのか。
弟は出て行ってほしいだろうけど、ちゃんと血の繋がった兄弟なのだから、という気持ちがあって、せめて普通に連絡が取れるくらいに仲良くなりたいと思っている。
難しいだろうな。
翌日もまた、俺はパンを焦がした。
紅茶はまだ淹れていないのに、ずっと上の空だ。
シンクに物が置かれていないのは弟がまだ朝食を摂っていないからだ。まだ、この家に…弟の部屋に居るのだと思うと、変な緊張感が俺を包んだ。
弟の分までパンを焼くべきだろうか、紅茶は飲むのだろうか。自分がダイニングに居ると部屋から出て来ないかもしれない、だとか。
考えているうちに、パンは昨日よりも真っ黒に焼きあがった。
弟の部屋からは物音がしないから、まだ寝てるのかもしれない。
ならば早く食べてダイニングを立ち去ろう。
マグとお皿を並べて、椅子に腰を掛ける。
背筋を伸ばし、静かに手を合わせた。
目を伏せて、肺一杯に空気を吸う。
焦げた、パンの匂いが鼻から肺へと送られて、それを静かに吐き出すように言葉を乗せる。
「――いただきます」
お父さんは厳しい人だった。
食事の挨拶は真剣にやらないと感謝の意味が分かるか、と説教が始まり、それをまた真剣に聞かなければ普通に食事を下げられた。
もちろん食事中の会話などは一切無くて、一度だけお隣さんの食事に呼ばれたときは、自由な四兄弟の食事風景に戸惑ったものだ。
一口パンを齧ったけど、やっぱり食べれたものではなかった。
「なにそれ、食べれんの」
降って来た声に頭を上げると弟――繭匡(まゆまさ)、が立っていた。
あまりのことに、言葉が出なかった。
じっと繭匡を見つめていた。だって、自分に声を掛けてくる日が来ると思っていなかったから。
「真っ黒じゃねぇの。パン一つ焼けねえとか、かなりのお坊ちゃんで育ったんだな。挨拶もありえねくらい気合入ってたし」
「お坊ちゃんじゃない。厳しかったんだ。料理は…男だからってさせてもらえなかった」
パンくらいは焼ける、という言葉は飲み込んだ。
繭匡は俺の言葉を聞いて、ふぅん、と納得したのかしてないのか、よくわからない返事を返しながら冷蔵庫へ向かった。
冷蔵庫の開く音が聞こえる。
「ちゃんと飯食ってる?全く形跡が無いだけど」
「え、あ、あぁ。食べてる…」
「こんなところで飢え死にとか困るからな」
どこか静かに聞こえる声は、両親が一度に無くなった悲しさからだろう。
そうだ、両親が亡くなって間もないのだから、兄だと急に申し出た人間が現れたら落ち着くものも落ち着かないだろう。
繭匡が牛乳片手にダイニングテーブルに着いた。
その姿を見てハッとした。自分が座っているこの席は、繭匡が今まで座っていた場所なのかもしれない。繭匡ならまだ良い、もしも父親か母親の定位置なのだとしたら、俺なんかに座ってほしくはないだろう。
飲みかけの紅茶を喉に流し込んだ。
少し温度が下がったとはいえ、まだ熱い紅茶が流れ込んで舌がジンジンする。
「ごちそうさま」
「おい…」
「今、働ける所探してるから…もう少し待ってくれないか」
繭匡が何か言いたそうな表情をしていた。
もう少しも待てないのかもしれない。けれど今すぐ出て行くとはどうしても言えなかった。こんな土地で、放り出されたら右も左も分からなくて不安だったから。
追い出さないでくれと頼み込むべきなのだろうけど、出来なくて、席を立った。
「匡壱(まさひと)――、」
背中に弟の声を聞いて、不思議な感覚だった。嬉しかった。
名前を呼んでくれた事、自分が養子に出されなければ当たり前の事だったのに…。
昨日と同じようにゴミ箱に捨てられる焦げたパンに謝罪を唱えながら、自分の部屋へと戻った。
繭匡の心情を考えても、そっとしてあげたい時期だ。
自分の軽率な行動が彼の負担にならないように、と息を潜めて、床に置かれたままの求人誌を開いた。
遠くで繭匡が食器を鳴らす音が聞こえ、しばらくしてテレビだろうか、何か声が聞こえた。
遺品整理するまでは申し訳ないが、と与えられたのは衣装ケースやダンボールが数個重なる物置として使われていた部屋だった。
少し埃っぽいが、荷物もそれほど多くなくて、部屋としては十分だった。
静かなその部屋で、さっき呼ばれた自分の名前が何度も耳元で木霊していた。
いただきます end
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