短編 | ナノ
06
彼が出張から帰ってくるのをカウントダウンしながら待っていた。
ホワイトボートに記された、彼の名前。その横には一週間の日程が書かれていた。
夕方には戻ってきているらしいが、きっと直帰だろう。
今晩、呼び出しが掛かるのか。
はたまた明日か。
早く抱いて欲しい、むちゃくちゃにして欲しいと思ったのは初めてだった。
全てを忘れたい。
もう、自分の事さえどうでも良かった。
俺の元から完璧に徹治は去って行ったのだ。
友達としても傍に居れなくなった。
もう、俺にはプライドも何も無い。
今ならあの人に何を指示されても簡単に出来るだろう。卑猥で淫乱な行為、全て。
通常業務が終わった頃、俺は初めて彼にメールを送った。
それはあくまでも食事の誘いだったが、ベッドに持っていければ、彼が俺を虐めるように仕向け、むちゃくちゃに抱いてもらうつもりだった。
彼は俺のメールに簡単に承諾を返してきた。
「どうしたんだ、君から連絡なんて珍しい」
一週間ぶりの彼の車に乗り込み。いつも使っているレストランに向い、食事をしていた。
「駄目でしたか?」
「いや…一週間我慢していたせいで待ちきれなかったんだろう?」
ニヤニヤと笑う彼に嫌悪を抱いた。
こんな人ではなかったのに。とても紳士的な人だったのに変えてしまったのは将来が保障された結婚の安心感と、俺という玩具が傍にある娯楽だろう。
「待ちきれませんでした。早く…抱いて欲しい」
あとはベッドの中で結婚の事に少し触れれば、彼は酷く抱いてくれるはずだ。
なのに、彼の答えは思いもよらないものだった。
「駄目だ。今日は食事だけでまた明日抱いてやろう。一週間の我慢が一日増えたところで君にはちょうど良いだろう?」
「そんなっ…」
今なのに。
明日では駄目なのだ。
一日でも早くこの体を痛めつけたい。
自分の罪を痛みに変えたいのに。
「奥さん…婚約者と会うのですか?俺を、置いて」
「あぁ、出張から帰ってくるのを待っていたみたいでね。それに…昨日分かった事だけど懐妊しているらしい。本当は…君と食事している場合じゃないんだよ」
鈍器で頭を殴られたような気分だった。
彼を煽ることも出来ず、婚約者は妊娠。
このまま別れを切り出せば、上手く別れてくれるのかもしれない。
けれど、彼がいなくなったら俺は一人だ。
婚約者に申し訳ないと散々思っていたのに、弱りきった心が彼を突き放せない。
ほんと、俺、どうしたらいい?
こんなところで放り出されて…本当に、誰も居なくなってしまった。
「――なんで、泣いてるのか訊いてもいいか?」
「…え」
ズタズタの心が悲鳴を上げていたんだろう。
自分でも気付かないまま、頬を濡らしていた。
馬鹿みたいに、こんな場所で。
迷惑そうな彼の視線がまた、痛かった。
「泣かれても、君とは所詮遊びだ。君が本気になるようなら切るしかないね」
勘違いした彼のセリフに、笑いがこみ上げてきて、泣き笑いのようになってしまった。
けれど、俺は何も言えなかった。もう、何も言いたくなかった。
いつものコンビニに車を付け、彼と言葉少なく車を降りようというところだった。
きっと彼とはもう二度とこうやって会うことはないだろう。本当に上司と部下に戻るのだ。
「ご馳走様でした。また明日、会社で…」
その時、バンッっと助手席の窓ガラスが音を立てた。
両手をガラスに叩きつけて覗き込むように睨み付けているのは徹治だった。
「……!」
固まった俺を車から引きずり出したのも徹治だった。
俺が車から出ると徹治は身を屈め、運転席の彼に、俺でさえ聞いた事の無い低いドスの利いた声を発した。
「あんた、結婚すんだろ。これは俺のだから手ぇ出さないでくれ。もし今後も関係が続いているようなら、こっちにも考えがある」
大きな音を立て、助手席の扉が閉まった。
俺が運転席を覗くと、彼は苦笑いを滲ませてこちらを見ていた。
音は聞こえないが彼の口が別れを告げているのだけは分かった。
「行くぞ、奏人」
「ちょ、ちょっと」
白い彼の車を見届けるよりも先に、俺が徹治に引っ張られる形でコンビニを後にしていた。
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