低空飛行 | ナノ



低空飛行
04






 空が明るんで来た頃、俺は時間を潰す為に入った公園のベンチから腰を上げた。

 鳥の鳴く声を聞いて今から寝ればどれだけ睡眠が取れるかを計算しながら。なのに、自分の家であるそのボロアパートの前に、似つかわしくない人だかり―…いや、人だかりといっても、あれは。


 警察―…?


 警察だけじゃなく、救急車も一緒に停まっていた。朝焼けに染まる街に光る不自然な赤いパトライト。一人の警察官の横に立つ伍郎さんの姿を見つけて駆け寄った。

「伍郎さん!」

「おう、ぼん。えらいことになったぞ」

 そう言った伍郎さんの表情は険しかった。いつだって柔らかい面持ちの伍郎さんのこんな顔を見るのは、初めて会った時以来だ。

「何があったの」

「君は?」

 横から入ってきた警察官にヒクリと肩が揺れる。一応、伯父さんの所を飛び出してきた身だ、身元を確保されるのかもしれない、何よりなんで警察がこんな所に―…



「ぼん、ぼんのお隣さんが自殺図ったんだ」


「! じっ…、え?」



「君が燐人?」

 伍郎さんの言葉に驚き、動けないでいると割って入るように警察の人が立った。

「おまわりさん、この子は何も知らないよ。ワシが強いて言えば親しかった方でな、最後に喋ったのは先週頭だ」

「でもねぇ、死後そんなに経ってないんだよね。君何か物音聞いたりしなかった」

「…いえ、俺日中は殆ど家に居ないんで。帰ってくるのも深夜だし」

「そう」

 何かにメモを取り、そしてちょっと、とついて来いと言う仕草をする警察官に緊張が走った。

「ぼん、大丈夫だから素直に話してきな、下手に隠す方がよくない」

 伍郎さんは俺のこと何も知らないのに、そう言った。きっと俺の複雑な生い立ちはこのアパートに来た時点で推測してあるんだろう。

 そうだ、何も悪い事はしてないのだから。大丈夫。聞かれたことに答えるだけだ、俺の捜索願なんて出されていないはずだから。














 事情聴取は時間は掛かったものの、簡単に済んだ。俺の身元を少しごまかしつつも生い立ちを簡潔に説明し、此処に住んでいる理由を話した。それでも捜索願い―…探している人間が居なかったので突っ込んだ事は聞かれなかった。家出する人間が増えている現代を表している様だった。

「ほれ」

「ありがと、」

 伍郎さんに手渡されたコーヒー。こんなアパートにコーヒーの香りは似合わない、と思いながらも素直に受け取った。心を落ち着かせるためにも、一息入れるためにもコーヒーの香は心地よかった。


「何も死ななくてもなぁ」

 ぽつりと呟いた伍郎さんの言葉は部屋に響いた。

 借金を苦にした自殺。発見者は未明に扉を叩いていた借金取り。弾みで開いた扉の向こうに、居たのは死人だった。

 死後1日かそこらと言う事らしく、思い当たるのは前日の出来事。あの時の足蹴にした扉のへこみを思い出した。

 もしかしたらあの足蹴りが決めてだったかもしれない。ボロいアパートの扉はあれほどの力でへこむならば、道具を使えば簡単に押し入る事が出来るだろう。そんなことすれば訴える事だって出来るから、実行に移す者は居ない。でも恐怖に怯え切羽詰った人間なら―…それは自殺を考える出来事だったといえる。


 伍郎さんの部屋の窓にはレースのカーテンが掛かっていた。その向こうに見える青い空。俺の隣人は、もうこの空を見ることは無くて…


 轟々とした音がアパートを包み込んだ。


 もう、慣れてしまった轟音は近くの空港に離着陸する飛行機の音。

 日中家に居ない俺はあまり聞くことも無いけれど…。この音は会話さえも奪っていくから、飛行機が通る時は口を自然と紡ぐのがこのアパートの住人だった。

 立て付けの悪い窓がビリビリと震え、その音も小さくなっていくとまた伍郎さんが溜息をついた。寂しそうに、目を伏せて。

「生きてれば、可能性はいくらでもあるのになぁ」


 可能性は、ある。

 でもそれを知るのはその可能性に賭けた人間、その可能性を身体で感じた人間にだけ分かるものじゃないだろうか。

 死にたいと、ただそう考えているうちは目の前に死しかない。可能性という言葉を思い浮かべる事も、未来の自分の姿も想像する事もなければ、考える事もしない。

 隣人は、ずっと死を考えていたんじゃないだろうか。

 可能性に賭けて、それでも自分の道が拓けなかったら?自分を生かしていく“糧”を見つけることが出来なかったら?

 ただ、生きているだけ、息をすることに疲れてしまったら?

 恐怖に怯える毎日に、明日の事を考えてもそこに恐怖しかなかったのなら、簡単に逃げてしまいたくなるんじゃないだろうか。


 ―…俺だって、此処に居る事が不思議なくらいだ。何故生きていると問いかける自分が居る。あの時一度は決めた、命を手放すという事。

 米田和偉という人間から与えてもらった俺の生きる糧は、果たして俺にとって良い意味を与えたのだろうか。あの時、あの温もりさえも知らずに、逝けた方が幸せだったんじゃないのか?





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