低空飛行 | ナノ
低空飛行
03
自分が歩くたびに軋む廊下は、Barからの帰宅時はとても気を使う。こんな深夜に伍郎さんを起こすわけにはいかないから。
ゆるゆるの鍵穴は鍵を差込むと、少々強引にそして上へ持ち上げなから回さなくてはスムーズに回らない。そんな鍵にも愛着が湧いてきたところだ。
此処に来て半年があっという間に過ぎた。
あの時と同じような身の凍える冬は、なけなしの金でマフラーを買った。外に出る時はもちろん、暖もとれないで隙間風が吹き込むこの家でも巻いて過ごした。
また来る夏は―…俺に何を思い出させるだろうか。
部屋に入り、万年床と化した布団に身を横たえた。見上げた天井は薄汚れてて、カーテンも無い磨りガラスからは街灯の光が差し込むだけ。
そっと、触れる自分の唇。かさつく触感は唇だけじゃない、肌だって。一人暮らしとはそういうものだ。削るのはどうしても食費になってくるから。
自分の身を守るのは自分自身でしかないのだから、誰に頼るわけもいかないから少しでもお金を稼いでおきたかった。このボロアパートもいつ取り壊しになるか分からない。
こんなかさつく唇じゃ―…。
米田―…
あの時自分で決めた。お前の言葉を、お前の唇の温もりを忘れないように、それを糧に俺は生きていくって。
お前が俺のこと、忘れたって構わないから。俺からこの気持ちだけは誰も奪っていかないで欲しい。たとえ米田でさえも。
そっと目を閉じれば、どれほどこぼしたか分からない、涙が目じりを伝っていく。
独りだって何てこと無い、それには小4から慣れていたから。多少不自由な生活だって苦には感じない。なのに、米田を知って唯一もろくなってしまった気持ち。
俺が涙を流すのは、米田を思うときだけだった。
ドン、と低く響く音に意識を戻された。折角このまま眠りにつけるんだと思った矢先。昨日よりも少し時間は早いが同じ借金取りだろう。しばらく続くであろうその響きは、俺の心臓にも悪くって、おとなしく部屋で聞くことが今日は出来なさそうだった。
身体を起こすと、ぎゅっと目元を擦った。
玄関に向かい、伍郎さんを笑えるような代物じゃないボロボロのスニーカーに足を突っ込むと、家を出た。
「あー、ちょっと。」
鍵を閉める俺を見て柄の悪いおっさんが声を掛けてくる。
「知りませんよ、隣さんとは言葉交わしたことないし、俺あんまり家に居ないんで」
「そう、いつから居なくなったとか分かる?」
「さあ」
伍郎さんは先週くらいから見ないといっていたけど、俺は正直お隣さんを最後に見た日を覚えていない。
足元に視線を落として、その男の横を通り過ぎる。黒い高級そうな革靴が暗闇で光っていた。
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