低空飛行 | ナノ



低空飛行
02






 午後5時。家を出る時に隣の扉を見た。ちょうど足元に、穴が開くほどではなかったがベッコリと大きなへこみが出来ていた。

 足で蹴ったのか…。伍郎さんだったら、と想像して噴出した。あんな薄っぺらいビーサンだと怪我するのは足の方だ。痛がる伍郎さんまでを想像して、そしてそんなボロアパートを後にした。


 

「はようございます」

「おう、寝癖ついてんぞ」

 そう言われて思わず手を頭にやった。掛け持ちしているバイトの合間に睡眠を取ったからだ。ロッカーで店の制服に着替える。あまり服も持っていない俺からすれば制服がある仕事はありがたい。

 ホールを見渡し、そして簡単な掃除から始める。俺のバイト先の一つである、小さなBar。

 行き場を失って店の路地裏で蹲っていた俺に声を掛けてくれた人が富田さんだった。その富田さんが経営するBarで従業員もいないから助けてくれないか、と仕事を与えてくれて今に至る。

 家の無い事を伝えればこのBarで寝泊りすれば良いと言ってくれたのだけど、俺はまた何かあったときに仕事がなくなるのは御免だった。身分証明さえ出来ない俺は仕事一つ見つけるのも大変なんだ。そして、富田さんの客の伝手であの格安の家も教えてもらった。

 まだ、情と言う物が俺に与えられる。人はこりごりだと思うのに、やはり一人では生きていけなくて…。


「純ちゃん〜」

「…大野さん」

 まだ開店前だというのに、この人は気の向いたときにひょっこり顔を出す。それはただの常連、ただの富田さんと仲が良いだけじゃなくって、二人は―…恋人同士だから。

「純ちゃん、駅前に新しいダイニングバーが出来たから一緒に行こう。ほら、割引券!」

 ひらひらとかざすチケットは駅前で配られていた物だった。この人はいつもこんな調子で俺を誘って来る。彼氏である富田さんが目の前に居るのに。
 そんな姿を見ている富田さんもあえて何も言わない。初めは本当に付き合っているのか疑ったものだったけれど、これが二人なのだと時と共に分かり始めた。

 お互い干渉しない、束縛しない。二人を繋ぐものが強いから出来る事で、二人が大人だから出来る事で―…

「お?考え事か純ちゃん、いつでも片思いの相手の代わりは任せてくれよ」

「大野さんうるさいって、米田は大野さんみたいに軽くもないし、おっさんでもねーよっ」

 だからこそ、そんな二人には。

 ずっと秘めておこうと思ったことも、自分の生い立ちも全て打ち明けてみようと思った。きっとこの人達なら何も言わず聞いてくれるって確信があったから。

 二人は同情する事もなく、ただ俺の話を聞いた。富田さんは終始無言で、大野さんは喋り終わった俺に優しく笑いかけてくれた。

 

「さ、そろそろ店開けるぞ。帰れよ大野」

「ちょ、トム逆。それ逆。何で店明けてから追い出すかなー」

「うるさくて営業妨害以外の何ものでもないだろ」

「くそ、相変わらずつめたいなぁ。…じゃね、純ちゃん駅前の店考えといてよー」

 何をしに来たのかいまいち分からない大野さんは出された水も一口も飲まずに、片手に持ったチケットをひらつかせながら扉の向こうに消えていった。

「絶対次ぎ来た時は忘れてるぞ」

「…、俺もそう思います」






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