低空飛行 | ナノ
低空飛行
20
「おぉ、…なんだ友達か?にしては親密な姿だな」
のん気な声に、怒りよりも呆れの方が先にこみ上げた。姿を現したのはまた俺を捨て、もう二度と会うこともないのだろうと思っていた父親の姿だった。
“親密な”と言われ、そっと米田が距離をとったのをいい事に、俺はまたそっとシンクに落ちた包丁を握り締めた。
「白坂、この人は?」
「父親…みたいなんだ、どうやら」
失笑を洩らしそう答えた俺の言葉に親父は何の言葉も口にせず、部屋に上がりこんでくる。
「出て行ったんじゃないのかよ」
「…そうだ。でもさすがに一文無しじゃ可哀想だと思ってな。ほら、」
懐から出てきたのはボストンバッグに入っているはずだった白い封筒。少しずつ何かの為にと溜めた、その金。
包丁を握る手に、力が篭っていく。
「…何が可哀想だ、そのまま姿消してれば良かったのに」
戻ってなんて、来なけりゃ良かったのに。
――振り向いて、走りこんで、一突きだ。もう何も無い、何も要らない。
何度も何度も頭の中で繰り返し呪文のように唱えた。後で米田には謝ろうとも。でもやっぱり、米田には伝わってしまっていたのだろうか。
隠すようにシンク内で握っていた包丁をそっと抑えられた。包み込む掌から伝わる米田の体温。
「やめとこう、白坂」
「―――、」
止めないで。もういいんだ。なくしてしまいたい。
米田を見上げて、霞む視界でそう訴えた。
自分が死ねなくても父親を殺して、その罪を償う為に息をするだけでも良いんだ。むしろそっちの方が俺には向いているのかもしれない。
罪を背負って生きる事の方が目的があるんじゃないかって思えるくらい、今の俺には何も無い。
「白坂、お前らしい生き方があるはずなんだから」
何を根拠に。
でも今は米田に、目の前の父親に、問う言葉さえ出なかった。ぐっと押さえ込む感情だけで精一杯だった。
「おじさん、白坂は俺がもらいます。もう白坂を一人になんてしておきたくない。あんたが親としてどうこう言いたい事もあるかもしれないけど俺がこいつの事、幸せにする」
またシンクで包丁が音を立てた。震えているのは米田の手なのか、自分の手なのか分からなかった。
米田は俺の手を握り締めて、玄関に向かっていく。引きずられるように連れられながら見た父親は、ずっとカーテンの無い窓を見つめているだけだった。
交わす言葉も視線も何もなかった。
◇
「ごめん、ごめん…」
家を出ても俺の手を握りしめて、俺の事なんてお構い無しに引きずりながら、米田は何度も何度も謝罪を呟いていた。公園まで戻ってきたところで掴まれた手が緩められ、それでやっと開放される。
「白坂、ごめん。勝手に…言いたい事言てお前の気持ちとか考えずに、」
困ったように米田は俺に告げた。さっきまでの勢いとか強い口調はなくなっていて、上がった息と少しの緊張と、そして謝罪の念。
「白坂、俺達まだ続いているよな?」
「……」
急激に溢れてきた感情は、嬉しさと、悲しさと両方を持ち合わせていた。父親に豪語してくれた言葉がたまらなく嬉しくて、でも着いてこない自分の思考と感情。
「白坂?」
「――よく、わからないんだ。自分の感情が…米田の事、あの頃のまま好きでいるのか分からない。俺があまりにも感情に頼りすぎて、それが本当の物なのか…分からないんだっ」
好きだ、と思い込んでいたんじゃないだろうか。好きだと思い込むことで毎日に色をつけて、さも幸せなんだと言い聞かせて来ていたんじゃないだろうか。
「米田の事、好きだって気持ち…俺にはそれしかなかったから」
何一つ、少し先への未来へ、願う事も諦めて、それより先を考えるのは怖くて。植えつけた思いだけが自分の全てだった。
ただ、生きているだけの、息をするだけの毎日にほんの少しだけ、笑えるだけの、泣けるだけの感情があるだけ。何も得られないから過去の感情を引っ張り出して。
米田が好きだと、思いを募らせていた。
「…あんまり責めんなよ。俺は白坂が居てくれるだけで良いから。もう、勝手に消える事だけはやめて欲しい」
「でも、もう迷惑…掛けたくないんだ」
誰にも。一人では生きていけないことは分かっている。でも少しでも人の迷惑にならずに生きて行けるのならそれに越した事はない。
「迷惑なんてものはたくさん人にかけるもんだろ。タダでさえお前はマイナスなんだから、今日からは取り返すくらいの勢いで迷惑掛けてくれよ」
なんてセリフを米田は口にするんだろう。物事を継続する事に保障がない事は知っている。
――でも、今は米田を頼って、米田に甘えて次への蓄えになるんじゃないかと思った。今だけ、また最後だからと米田を頼ってしまう俺は許されるんだろうか。
「不安?」
そう言って俺を伺う米田の瞳も不安そうに揺れていた。
不安だった。次、米田の前から姿を消す時、俺はどうなっているんだろうかって。米田の人生を俺が狂わせてしまったという事も。
「俺は白坂がまた消える事が不安だ、よ」
「米田…」
「お前が消えてから、俺はお前の事しか考えられなくなっていたんだ。最悪な事も何度も考えた。考えるたびに、胸がざわついて…」
ジワリと、胸が痛んだ。
こんな俺の事を、心配してくれていたんだと、傍に居なくても、米田は俺と同じように、考えてくれていたんだ。
「こんな、俺の事を」
擦れた声が口から出て行く。夢の中に居るような、そんな感情で米田の傍へと一歩足を踏み出した
「今、白坂が俺の前に立ってることが、何より嬉しい」
米田の手を今度は自分の意思でしっかりと握り締めた。怖いけれど、米田となら。また何かを得られるかもしれない。
「俺も、嬉しい」
握り返してくれる米田の掌を感じながら、いつもは耳障りでしかない飛行機の轟音でさえ、柔らかく感じて、小さく笑った。
End.
08.09.03
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