低空飛行 | ナノ



低空飛行
19






 薄暗い廊下を歩いて奥の扉に向かう。途中、伍郎さんの家の扉の前でコーヒーの香りがして、その香りをたっぷり吸い込んだ。

 覚悟なんて物もいらない。米田には悪いけど、俺の最後の自分勝手を許して欲しいと思った。

 ノブに手をかけて回せばすぐに開いた扉を見て、一瞬米田に怪訝そうな視線を向けられる。

 今からどこかへ出かけようとしているところを米田に見つけられた。ちょっとそこまでなら自転車になんて乗らないだろう。なのに掛かっていない鍵。掛け忘れたというには当たり前に扉を開いた俺。

 頭の良い米田には色々分かってしまうのかもしれない。

「…どうぞ、ほんとに何も無いけど」

 扉を開けて米田を通す。狭いたたきに靴を脱いで、一歩足を踏み込んだ米田の動きが止まった。

 カーテンさえも無くて、人の住んでる気配の無い部屋にビックリしたのかもしれないな、なんて薄笑いを浮かべて米田の視線を追いかけた。

 ――しまった。

「白坂、」

 視線の先にあったのは転がった包丁と、酷くささくれ立った畳だった。

 くるりと一回り視線を巡らせて、そしてそっと前へ進んだ米田は他所に目もくれず、その転がったままの包丁を手に取った。

「…あぁ、悪い片付ける」

 振り向いた米田の表情を見ることが出来なかった。そっと差し出された包丁を受け取り、それを台所に片付けるように米田に背を向けた。

 片手に受け取った包丁にもう片方の手を副えて、そっと自分に向けた。


 怖くなんて無い、今なら、一人じゃない

 生きていくことに比べれば、痛みなんて一瞬に感じるんじゃないかな。

 薄暗い部屋で差し込むわずかな光を反射させる包丁。手に力を入れて、そっと覚悟を決めた。


「――折角会えたのに、」

 力を込めた俺の手を柔らかく包み込むのは米田の掌だった。俺の身体を包み温めるのは米田の身体。諭すわけでもなく、ただ搾り出したようにすぐ耳元で聞こえたのは米田の声。

「…っ、は」


「俺の前で死ぬとか…知らないうちに死なれるよりかは嬉しい事だけど。折角会えたのに」

 無理やり引き剥がすんじゃなくて、そっと力を抜く事を誘い出すかのような手の優しさ。静かなやり取りに、シンクに包丁が落ちる音が大きく響いた。

「生きててくれて、良かったって心底思った矢先なんだ。もう少し白坂を感じさせてよ。死を…急ぐ事なんて無い」

 先ほどまでのやさしい抱きしめから徐々に米田の腕に力が込められてくる。うなだれるしか出来ない俺の肩口に米田の吐息が掛かる。生きている人の温もりが。そして、温かい米田の、

「…ありがと、米田」

 俺なんかのために、泣いてくれて。


 米田が最後に俺の姿を見てくれるのなら、死んだ俺を見てくれるのが米田なら良いと思った。今更米田にぶつけるだけの気持ちもなくて、もう、これから先は考えるのも疲れたから。今日で終わりにしてしまえるんじゃないかと思ったんだ。

 また命を繋いだ所で、俺はいろんなことを怖れながら生きていく事になる。


 米田に抱きしめられながら、お互い無言で時間だけが過ぎていく。そっと米田の手を剥がしに掛かっても、逆に手を取られる始末。

「よね、だ…」

 それまでずっと静まり返っていた空間に、玄関の扉が開かれる音が響き、俺も米田も身体が跳ね上がった。





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