低空飛行 | ナノ



低空飛行
14





 轟々と、いつもと同じようにアパートを振動させて飛行機が飛んでいく。あの空に人が居る。正確にはあの空にもっとも近い位置にある飛行機の中に人が居るんだけど。

 自分のアパートを前に、その空を仰いだ。

 大きな飛行機が影となって俺の上を通り過ぎていく。


 現実は常に目の前にある事が全てだ。自分が何を思っていたって、何を想像していたって、妄想でしかなかったり、はたまた過去に囚われているだけなのかも知れない。

 ―・・・俺は過去に囚われていたのか。

 米田が俺のこと忘れてしまっていても、過去のクラスメイトと言う存在だったとしても、過去の同居人、ちょっと(同姓に興味を示す)珍しい生き物を飼っていた程度に思っていても。

 俺はそれで構わないと思っていたし、むしろあの時米田の家を出た瞬間から忘れてくれて構わないと思っていたんだ。

 なのに情けない事に突きつけられた現実は簡単に俺を抉っていく。


 空を仰いでいた頭を静かに戻して、暗い自分の家へと続く廊下に視線を送った。その先のずっと奥の扉が静かに開きそこから出てきたすっかり見慣れてしまった父親という男。

 その横には小柄で短いスカートから長く細い足が伸びている女性の姿。くすくすと笑いながらその廊下を外に立つ俺のほうに向かって歩いてくる。

 こうやって父親の相手と鉢合わせになることは稀にあったから今日だって少し考えれば分かった事だと思う。それよりも父親の横に女性、という組み合わせに苦笑いだった。母さんよりもずっと、若い女。

 父さんが俺達を捨てた理由を俺は知らない。帰って来ない父親を不思議に思い、何度か母さんに尋ねたこともあったけど、その度に切なそうに、そして申し訳なさそうに笑いながら「さぁね、」と口にする。
 綺麗で、そして悲しい笑顔。

 その笑顔は俺の中で鮮明に残っているもののひとつ。

 過去にばかり生きている俺に、未来は無かったのか。

 無言ですれ違う父親にそっと胸の内で尋ねるてみても返事なんてもちろん無い。父親達が出て行った後のアパートにはまた静寂が訪れていた。



 自室に入ってすぐ先ほどまでこの場所に父親とあの女が居たんだと思うと、堪えていた胃の重みが大きくなり、喉の奥で熱を感じて噴出したのは脂汗だった。

 ―…慣れない物を、食べたから、

 でも、吐いたら、…大野さんに、申し訳ない、

 そう自分に言い聞かせて何度も何度も押し寄せる波を静かにやり過ごす。静かに靴を脱いで家に上がると自分しか居ないのに女の残り香が自分を追い出そうとしているようにさえ感じてしまい、思わず堪えていた物を吐き出したくなった。
 それは先ほどまで押し上げてくる胃の中のものだけじゃなくて、声として涙として、渦巻く感情を。

 生活感のない殺風景な台所で、シンクに身体を任せていつまた来るか分からない吐き気と闘った。 

 「っ、」

 きゅ、っと唇を噛みまた全てをやり過ごす。全て無かった事にしてしまえば、無かった事なら、良かったのに…。


 父親との再会も、家に入れたことも。誰でもいいから傍に居て欲しいと一瞬でも思って安堵した事も。

 米田に甘えて米田の家に転がり込んでいた事、あの時の米田に対する告白も…。


 全て、無かったら。


 シンク下の扉を開く。料理もしないから台所には調味料も調理道具もたいして無くて、あるのはまな板とフライパンと小さな片手鍋。

 そして開いた扉に差してあるのはこれこそあまり使われる事の無い、包丁だった。





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