低空飛行 | ナノ
低空飛行
13
一週間は7日しかないのだから、どれだけ来週の、と約束をしても最長で13日経てばその日がやってくる。
何が言いたいかというと、大野さんと約束した月曜日はあっという間にやってきてしまって、そして俺は今胃が重いって言う…俗に言う緊張と言うヤツ。
「は、ぁ、…」
「カタコトの溜息を初めて聞いた」
くすくすと笑うのはトイレの扉を修繕してくれる業者を待つ富田さん。店のカウンターに二人並んで座り俺は大野さんがやってくるのを待っていた。
昨日は昨日で、服が無くてどうすれば良いかと悩む俺にランチだから気にすることなんてない、と言ってくれたし、ぼさぼさの髪は美容室に行くのにも緊張するし、ランチごときでそこまでするのもどうなんだとそのまた前日に富田さんが梳いてくれた。Barという店上、長くても結っていればそれなりに様になるだろうと言う事で肩に付くか付かないかの長さはそのままに。
日頃時間を潰しに入るファミレスは、時間が時間だから人もまばらで俺と同じように時間を潰す人やオールで朝を待つ若者くらいしか居ない。昔に家族で食事に行った記憶は…母が俺を捨てる直前の記憶しかない。
何でも好きなものを頼んでいいと言った母親。あれは俺に少しでも心苦しさがあったからだろうか。母親の最後の記憶は、優しい笑顔。それを最後に俺は会話のない一人の食事をすることになった。
誰かと食事を目的に外に出るなんて、あの土木作業員時代の社長や仲間と入った定食屋以来じゃないか。それも掻き込むだけの短時間の食事。
せめてその頃の記憶を蘇らせれば少しは会話らしい事も出来るだろうかと試みているのに、どうしても思い出せば胸が痛み、心拍が早まる。白坂と怒りを露に叫ぶ現場監督の声が思い浮かぶ。同時に刺さる視線なんかも。
目の前にある水の入ったグラスに口を付け、一気に飲み干した。
「あれっ、純ちゃん早いなぁー。待ちぼうけ食らう覚悟で来たのに」
俺がグラスを置くのと同時に扉が開き、顔を覗かせたのは大野さんだった。
店に入るなり、カウンターに手帳を開き、先ほどまで繋がっていたのだろう携帯を懐にしまいながら手帳に筆を滑らすその姿はサラリーマンの姿。
「大野さんちゃんと働いてるんですね」
「酷いなぁ〜まぁそんなコメントには慣れてるけどさぁ」
手帳をしまうとさて行きますかと俺を扉に促し、富田さんは出て行く俺達をにこやかに手を振り見送った。
店を出て、駅に向かい歩いていく。駅周辺にはあまり足を運ばない上に、ましてやこんな日中ともなると慣れない人混みに酔いそうになる。
「駅周辺は店の展開が早いよね、去年あった店も今年は変わってたりさ。まぁ生き残る店ってのは限られてるかなぁ。最近は新しいものを求める人が多いからなお更かもね」
大野さんはどうやら会社の接待なんかで良く使うらしく、駅前のお店にはやたら詳しかった。するすると道を抜けていく大野さんに連れられて来たは良いけど、帰りは駅前まで連れて行ってもらわないと取り敢えずは一人で帰れそうにない。それくらい角を曲がった気がする。
ポツリと立つ店は、真っ白の外壁に、入り口の横にあるガラスから店内が覗ける程度。周りに数ある窓には白いガラスがはめ込まれてあり、光のみが差し込むらしい。
短い階段を下りて、店の扉を開く。落ち着いた空間はランチタイムだからかざわついていた。空いたばかりの一番隅の席似案内され、座った瞬間に声を上げそうになった包み込むようなふかふかのソファはテーブルごとに違う物が置かれていた。
「椅子はこの店のこだわりだよ」
ふうん、とまた店内を見渡した。そして出されたメニューから適当に頼んだのは手作りだというハンバーグセットスープ付き。
「なんか髪もさっぱりした?」
「あ、わかりました?富田さんが梳いてくれて」
「あぁ、あいつ器用だからな。俺も学生の頃に髪染めてもらった事あるよ」
「長い付き合いなんですね、羨ましい」
「なんていうか世話焼きなんだろうな、アイツは。いつも俺の世話してた記憶が…」
なるほど、と頷いた。きっとそんな学生の頃からこの二人の位置は変わっていないんだろう。
そんな大野さんと富田さんの話や昔の店の話を聞かせてもらいながら、このランチデートはあっという間に終わりの時間が来た。
「ごめんね、純ちゃん。予定ならこの後映画だったのに…」
「本気だったんですかっ」
大野さんの携帯が鳴って、会社に戻るようにといわれ店をあとにした。本当に残念そうにうなだれている大野さんの姿を見て、世話を焼きたくなる富田さんの気持ちも分からなくもなかった。しっかりしている一面もあるのだか時折見せる子供っぽさが可愛くて、そして今でさえこんなのだから昔はもっとあぶなっかしかったんじゃないか、と。
捕まえてもらえた大野さんがまた羨ましかった。
「あ、此処でいいですよ。この道いけば駅ですよね」
「そう?ゴメンネ送る事もできなくて」
道が分かりにくいという俺を駅まで送ってくれるという大野さんの携帯はその間もなりっぱなしで、そうとう急ぎの用件なんだろう。
大野さんと別れて、足早に駅を通り過ぎる事にする。立派なランチとか食べた後に、人に酔ってなんてしたら間違いなく胃が痛むか、吐くかするだろうと。
多くの人が行き交う交差点、自分の目を疑った。
そして見つけてしまう自分を呪った。
嬉しさと、幸せと、戸惑いが入り混じった感情がわきあがった直後、胃がずんと重くなり、息苦しくも感じて。
一度にそれだけの感情が一つの体内でうごめけば、健康な人だって気分も悪くなるんじゃないだろうか。
そして立ちすくむ俺に少しずつ近づいてくるその姿は
米田――…
俺の姿には気づいていないのか。
一瞬目が合ったとさえ思ったのは俺の勘違いなのか。
共に歩くその女性の高い声が邪魔で、米田の声には集中できなかった。
確かにそれは米田だった。すれ違った後も、後ろに引っ張られるように、一度だけ振り向いた。手を伸ばせば届きそうで、駆け寄る事の出来るこの距離にある米田の後姿。
…米田は俺に、気付かない。
俺がまた前を向き先を急ぐように足を出したところで、何かを思い出したかのように振り向いた米田の姿を、俺が知る事は無かった。
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