低空飛行 | ナノ
低空飛行
12
時間を潰して、帰宅した部屋にはすでに父親の姿はなかった。仕事に行ったのか“今日の相手”と共に出たのかは定かではない。
そして俺は毎回一番に確認する事が有る。
何もない部屋にたった一つの収納である押入れを開け、そこに無造作に置かれている箱を取り出した。ジャラリと音を鳴らすそれは俺の今の所持金だった。いや正確には使えるお金と言っておいたほうが正しいかもしれない。
身分証明の出来ない俺は口座を開く事も出来ず、稼いだお金をこの箱に入れておいた。一人しか居ないこの家ではその程度の管理で、泥棒が入らない限りは安全だったから。でもそれもあの父親が来てから稀に減っている事があり、でもしばらくすればお金が戻っている。
咎めようとも思ったが、今ではその行為はお互いの暗黙の了解のような所があって、足りない時に此処から持っていく父親はちゃんとお金が入れば返してくれていたんだ。そして俺は毎日どれほどの増減があるのかをチェックしていた。いわゆる生活費みたいなものだった。
父親の布団を適当に上げ、俺は窓際の自分の布団に転がると、街灯の代わりに差し込むのはまだ柔らかい朝日だった。それを見つめて静かに眠りについた。
◇
「ねぇ純ちゃん」
「他に誰か誘ってくださいよ」
準備中のその店に居るのは、もちろん大野さん。俺の邪魔をしに来ているだけじゃないか、と最近思う。目の前でずっと俺に視線を送ってきて、相手をすれば嬉しそうに笑うその姿は犬のようにも見えてきた。
「だって前のダイニングバーの話なくなっちゃったしぃ〜」
「そんな甘えた声出してもダメです。ってかあの話は大野さんがすっかり忘れたからでしょ、俺のせいじゃないし」
「だから改めて。今度はランチだから気軽に、ね?初めての進出店だって言うから試しに行こうよー!もちろん俺のおごりだしっ!なんだったらその後は映画にでも…」
昔誘われたダイニングバーの割引チケットは思い出した頃にはすっかり期限が過ぎてしまっていた。あの時オープンした店も今では街に馴染んでいる。それほどの月日が過ぎたのだと思うと、至って変わる事の出来ない自分がなんとも不甲斐ないのだが。
こんなバイトなんてしてないで、ちゃんとした仕事に就くべきなんだろうって、分かってるけど。俺が雇ってもらえる所といえば体力勝負となってくるだろう。そう思うと必ず思い浮かべる土木作業員の頃の自分。あのまま、あそこに就職させてもらえるはずだったんだ…。
「純ちゃん?」
「え、あ…」
意識を戻せば目の前で不思議そうに俺を見つめる大野さん。
「純、今度行って来てやったらどうだ?何年も片思いしてる大野見てると不憫で仕方ない。定休日にでもどうだ?」
「なら、富田さんがデートしたら良いじゃないですか」
「俺は店が休みでもやる事あるんだよ、トイレの扉の立て付けが悪いからその日に修理頼もうかと思ってな」
にっこり笑う富田さんの笑顔がこのときばかりは意地の悪いものに見えた。大野さんと出かける事が嫌なんじゃない。ただ、日頃から一人で行動して、外で食事とかもした事ないからどうしていいのか分からない。外で一体何を話しする事があるんだ?一体、どんな服装で行けばいい?そう考えると億劫なだけで。
「じゃデート決定!」
「ちょ、大野さんっ」
「月曜の11時くらいにここで待ち合わせね、寝坊しても気にしないで来るんだよ。純ちゃん来るまで待ってるから!夜になったらディナーに変更。じゃね、」
そう言い終えると俺の返事なんて聞くつもりもないのだろう、さっさと店を出て行ってしまった。
「え、マジ…?」
「いいんじゃないか?純も若いんだから楽しんできたらいい。あいつにたっぷり貢がせてやれよ」
富田さんは他人事なのに自分の事のように嬉しそうに笑っていた。仮にも自分の恋人が他人とデートするって言うのに…。本当にこの二人には負ける。
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