低空飛行 | ナノ



低空飛行
10






 いつもよりも体が重く感じた。店を出てからアパートまでの道のりで何度もあの男の顔が思い浮かんできて、少し傷む掌を握り締めると、足早に自宅に向かう。このざわついた気持ちも、寝転がり差し込む街灯を見れば落ち着くだろうと。

 アパートはあんなにも静まり返っているのに、その帰路は大きな道路を走る車の騒音に包まれていた。走っていくテールランプが切なくも綺麗で、いつもその光を見ながら帰る。 

 アパートの扉に鍵を差込み、少し力を入れて持ち上げた時だった。


「こんな所に住んでるのか」

「―――!」


 その声に、ゾワリと背筋が凍った。
 忘れるには短すぎる時間、そして強烈過ぎた再会だった父親だというその男。付けられてる事に気付かなかった自分に舌打ちをした。

 ちらりと視線を送ると、黒い影となってそこに立っていた。薄暗く、どんな表情なのかは分からなかったが近づいてこようとする足音から逃げるように鍵を回し、扉を開けて身を滑り込ませる。閉めた扉が物に当たる衝撃と、目の前にある扉に掛かった手。

「っ、」

「冷たいな。再会を喜んでくれてもいいんじゃないか」

「何が、喜ばしいって…?」

 ドアノブを握る手に力を入れると痛みが走った。その隙を相手が見逃さなかったのか、たまたまタイミングが合ったのか、扉が静かに開かれた。

「泊めてくれ」

 どんな表情で、どんな気持ちを持ってそんな事が言えるんだと、罵声をぶつけたいのにあまりの怒りは言いたい事も出ず頭の中で熱がぐるぐると渦巻くばかりだった。きっと俺は酷い表情をしているに違いなかった、それでもこの暗闇では相手に伝える事も出来なくて。

 無言で居る俺を押し込むように部屋に入ってくる男。

「独りなのか、」

「――――」

 何を、

 独りだ、ずっとあんたのせいで。

 俺をこんな目にあわせたくせに何を言うんだ。


「母さんは」

「…知、らない」

「―…純、」

「あの家、とっくの昔に出たよ。母さんも俺を捨てて消えた」

 夫婦って似るんだな、って言ってやろうと思ってその言葉は出す事が出来なかった。喉が、絞られるようだった。

 こんなはずじゃなかった、そうだ、俺はこの部屋に着いて、布団に横になって、街灯を見ながら寝るんだった―――。

「じゅ、」

 男の言葉を遮りるように身を翻し、シャツを脱ぎ捨てすぐに布団にもぐりこんだ。

 会話さえも、したくないなんて…心底思ってるわけじゃない。とりあえず今は睡眠がほしかった。いや、睡眠とかこつけて心を落ち着かせるだけの時間が欲しかった。追い出すだけの気力も力も無くて、拒むだけの思考じゃなく、微かにあの手を懐かしむ俺の記憶が邪魔で言葉にならなかった。


 布団に入るまでの俺をじっと見つめる視線に気付かない振りして、そして俺が横になるとしばらくして扉の閉まる音と、ずっと独りだった部屋に感じる人の存在。


 そこに安心なんて良い物はなかった。

 独りで死んでいくことに恐怖を抱いていた俺の安堵があっただけだった。


 


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